プロローグ:禁忌の扉
すべては、トルコ・アララト山脈の頂付近、万年雪の下から始まった。
考古学者たちのチームが偶然発見したそれは、聖書に記された伝説の「ノアの箱舟」であると当初は信じられていた。しかし、氷塊を削り出し、内部に足を踏み入れた科学者たちは、即座に自らの認識を改めざるを得なかった。 そこに安置されていたのは、古代の木造船などではなかった。
船内は、まるで時間が凍りついたかのような異常空間だった。未知の材質で構成された壁面、脈動する異星の植物、そして見たこともない進化を遂げた生物の標本が、当時のままの鮮度で保存されていた。
それらは世界中の主要な研究所や大学へと即座に運ばれ、狂乱とも呼べる研究競争が巻き起こった。
それが、人類の終わりへのカウントダウンであるとも知らずに。
だが、地球の裏側で文明の存亡を揺るがす事態が進行していようとも、当時の瀬戸紬にとっては、ただの「遠い世界のニュース」に過ぎなかった。
その日の夜、彼はいつも通り、ひどく疲れた足取りで帰路についていた。 時刻は午前2時。残業続きの書類仕事で頭は重く、明日の朝イチの会議を考えると胃が痛む。そんな、世界にありふれた平凡なサラリーマンの日常。
「……はぁ。早く寝よう」
角を曲がったとき、空気が変わった。 静寂。いや、沈黙というべきか。街中の生活音が、巨大な防音壁に遮られたかのように唐突に消えた。
「……なんだ?」
瀬戸が足を止めた瞬間、彼の視界を巨大な影が覆った。 鱗が擦れる金属的な音。吐息には焦げたような硫黄の匂い。暗闇の中から現れたのは、御伽噺にしか存在しないはずの怪物――ドラゴンだった。
思考が追いつく前に、右肩に激痛が走った。
「あ……っ!」
声にならない悲鳴が漏れる。右腕が、肘から先が、怪物の牙の中にあった。
熱いものが噴き出す感覚。
アスファルトに滴り落ちる自分の血液の音。
激痛と恐怖が脳を焼き尽くし、瀬戸の意識は急速に暗転していった。
最後に見たのは、自分を見下ろす黄金色の獣の瞳だった。 それは、かつてアララトの氷の中で発見された「異星の残滓」が、現代に放たれた最初の凶兆でもあった。




