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誠の名を持たぬ剣士  作者: Futahiro Tada


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越えてはならぬ境

越えてはならぬ境


 茶屋の夜は、昼とは別の顔を持っていた。

 灯りは落とされ、

 障子の向こうから、低い笑い声が漏れる。

 酒の匂い。

 香の匂い。

 そして、人の欲が滲む気配。

 名を持たぬ者は、廊下を静かに歩いていた。

 足袋の裏が、畳を滑る。

 一歩一歩が、意識的だ。

 ここでは、剣士の歩き方は危険だった。

 強く踏みしめれば、疑われる。

 速すぎても、遅すぎても、目立つ。

 ——女として、歩け。

 副長の言葉が、脳裏に残っている。

 だがその言葉には、

 どこまでという線引きがなかった。

 部屋の一つで、

 帳場の男が待っている。

 年は五十を過ぎている。

 目は細く、油断のない光を宿している。

 名を持たぬ者は、静かに頭を下げた。

 男は、彼女をじっと見た。

 品定めだ。

 その視線が、

 喉元から胸元、腰へと下りていく。

 ——来る。

 この先は、

 剣では防げない。

「……名は」

「ありません」

 嘘ではない。

 男は、薄く笑った。

「ここでは、名など不要だ」

 そう言って、杯を差し出す。

 名を持たぬ者は、受け取った。

 手が、触れる。

 男の指が、ほんの一瞬、

 彼女の手首に絡む。

 ——境界が、近い。

 心臓が、わずかに速く打つ。

 だが、顔には出さない。

 出せば、

 拒絶として認識される。

 拒絶は、

 この場では敵意だ。

「……噂は聞いている」

 男が言う。

「最近、物騒だ。

 剣を持つ連中が、町を歩いている」

 探りだ。

「怖いです」

 名を持たぬ者は、そう答えた。

 それは、

 女として正しい言葉だった。

 男は、満足そうに頷く。

「だからこそ……

 守られる場所が、必要だろう」

 男の手が、

 今度は、明確に彼女の腕に触れた。

 ——一線。

 名を持たぬ者の脳裏で、

 冷静な声が響く。

(ここで拒めば、情報は消える)

(受け入れれば……)

 戻れない。

 身体を使うということは、

 単に触れられることではない。

 自分を物として許すことだ。

 その瞬間、

 剣士ではなくなる。

 名を持たぬ者は、

 自分の呼吸を数えた。

 一。

 二。

 三。

 そして、

 ゆっくりと男の手を外した。

 力は、入れていない。

 拒絶でもない。

 ただ、

 ずらした。

「……お酒が、少し強いみたいです」

 声は、震えていない。

 男の目が、細くなる。

 疑念。

 不快。

 そして、興味。

「ほう」

 男は、すぐには引かなかった。

 指が、再び近づく。

 ——ここだ。

 名を持たぬ者は、決めた。

 身体を差し出さずに、

 女として近づく。

 それは、

 剣士として最も困難な技だった。

 彼女は、わずかに身を寄せた。

 だが、

 触れさせない。

 距離を、保つ。

 声を落とし、

 視線を伏せ、

 しかし、逃げない。

「……守られるのは、怖いです」

 男が、眉を上げる。

「なぜだ」

「……守るふりをして、

 縛る人も、いるから」

 それは、

 賭けだった。

 男の目が、光る。

「面白い女だ」

 彼は、手を引いた。

 ——越えさせなかった。

 だが、

 危うい橋を渡った。

 その頃。

 路地の向こうで、

 あの隊士は、拳を握りしめていた。

 茶屋の障子越しに、

 人影が見える。

 距離は、近い。

 だが、

 踏み込めない。

 命令は、明確だった。

 ・直接関与するな

 ・正体を悟らせるな

 ・任務を優先せよ

 だが。

 もし、

 彼女が触れられれば。

 もし、

 彼女が壊れれば。

 ——それは、任務の成功か。

 彼の胸が、

 強く軋んだ。

(……助けるか)

 助ければ、

 すべてが終わる。

 正体。

 潜入。

 彼女の立場。

 だが、

 助けなければ。

 彼女は、

 剣士でなくなる。

 そして、

 彼女が剣を取る理由そのものを、

 奪う。

 ——選べ。

 彼は、初めて理解した。

 この任務は、

 彼女を試しているのではない。

 自分を試している。

 茶屋の障子が、わずかに開く。

 名を持たぬ者が、

 一人で出てきた。

 姿は、崩れていない。

 歩き方も、乱れていない。

 だが。

 彼には、分かった。

 境界線の上に立っていたと。

 二人の視線が、

 夜の中で交わる。

 ほんの一瞬。

 言葉は、ない。

 だが、

 互いに理解した。

 ——越えなかった。

 ——だが、次は分からない。

 名を持たぬ者は、歩き去る。

 あの隊士は、

 その背中を、守る位置に立つ。

 この先、

 もっと危うい任務が来る。

 今日より、

 さらに深い選択が迫られる。

 だが、

 彼女は選んだ。

 身体ではなく、

 意思で生きることを。

 そして彼は、

 次に同じ場面が来たら——

 任務を裏切ってでも、

 彼女を引き剥がすと、

 心の奥で決めていた。

 それが、

 恋なのか、

 共犯意識なのかは、

 まだ分からない。

 ただ一つ確かなのは。

 二人とも、

 もう元の場所には戻れない。

 剣を使わない戦場で、

 最も危険な一線を、

 確かに踏み越えかけたのだから。

 夜は、まだ終わらない。

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