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誠の名を持たぬ剣士  作者: Futahiro Tada


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使われる理由

第3章 刃は誰のために


使われる理由


 命令は、朝に下った。

 それだけで、異質だった。

 壬生浪士組の任務は、夜に決まる。

 闇に紛れ、責任を曖昧にし、血を処理するためだ。

 だがその日、名を持たぬ者は、朝の詰所に呼び出された。

 空は、澄んでいた。

 昨夜の雨が埃を流し、都は何事もなかったかのような顔をしている。

 それが、逆に不気味だった。

 詰所に入ると、すでに数名の隊士が揃っていた。

 副長。

 組頭格。

 そして、あの隊士。

 全員が立っている。

 ——座る話ではない。

「近頃、京の町で不穏な動きがある」

 副長が切り出す。

「尊攘派ではない。

 だが、放置すれば火種になる」

 地図が広げられる。

 町外れ。

 寺社。

 女郎屋。

 名を持たぬ者は、無意識に息を整えた。

 副長の指が、ある印を叩く。

「ここだ」

 それは、宿場に近い、古い茶屋だった。

 表向きは、何の変哲もない。

「情報の受け渡しが行われている。

 武器ではない。

 人だ」

 人身売買。

 あるいは、密告。

 どちらにせよ、

 血より厄介な仕事だ。

「今回は、斬り込みではない」

 副長は、名を持たぬ者を見る。

「——潜れ」

 一言で、意味は通じた。

 名を持たぬ者の胸が、わずかに沈む。

 潜入。

 それは、

 男として生きてきた彼女にとって、

 最も危険な任務だった。

 副長は、淡々と続ける。

「茶屋に出入りする客を洗え。

 帳場の裏を見ろ。

 必要なら、近づけ」

 近づけ。

 その言葉が、

 何を意味するかは明白だった。

 副長の視線が、鋭く突き刺さる。

「お前なら、できる」

 それは信頼ではない。

 期待でもない。

 適性だ。

 名を持たぬ者は、何も言わなかった。

 言えば、拒否になる。

 拒否は、即座に処理へ繋がる。

「補佐は、こいつだ」

 副長が、あの隊士を指す。

「距離を保て。

 直接関わるな。

 必要なら、始末しろ」

 始末するのは、

 誰か。

 あるいは——

 彼女自身か。

「……承知しました」

 あの隊士が答える。

 名を持たぬ者は、遅れて頷いた。

 会合は、それで終わりだった。

 庭に出ると、朝の光が眩しい。

 鳥の声が、あまりに平和だ。

 名を持たぬ者は、立ち止まった。

「……聞いていませんでした」

 低く、言った。

「こんな任務だとは」

 あの隊士は、すぐに答えなかった。

 彼もまた、

 理解していたのだ。

 これは、

 彼女の身体そのものを使う任務だと。

「……拒めない」

 それが、彼の返事だった。

「分かっています」

 名を持たぬ者は、静かに言う。

「でも……

 これは、剣より、危険です」

 剣なら、斬ればいい。

 だが、この任務は違う。

 見られる。

 触れられる。

 疑われる。

 そして、

 もし一線を越えれば、

 戻れない。

 あの隊士は、拳を握った。

「……俺が近くにいる」

「近くにいても」

 名を持たぬ者は、彼を見た。

「助けられない場面があります」

 それは、責めではない。

 現実だ。

 彼は、視線を逸らした。

 それが、答えだった。

 準備は、早かった。

 羽織を脱ぎ、

 男装を解くわけではない。

 だが、

 少しだけ、

 隠し方を変える。

 名を持たぬ者は、鏡の前に立つ。

 胸を潰す布を、ほんのわずか緩める。

 腰の帯を、女郎屋の女のように締め直す。

 刀は、隠す。

 完全には、見せない。

 剣士ではなく、

 剣を持てる女として。

 それが、今回の役割だった。

 茶屋は、昼から人が出入りしていた。

 名を持たぬ者は、客として入る。

 声を落とし、

 視線を伏せ、

 わずかに笑う。

 その一つ一つが、

 これまで学ばなかった所作だ。

 だが、身体は覚えている。

 女として生まれた記憶が、

 剣の下で眠っていただけだ。

 帳場の裏。

 視線。

 触れられる距離。

 情報は、確かに流れている。

 そして——

 視線が、集まる。

 名を持たぬ者は、理解した。

(……使われている)

 自分は、

 副長の手駒としてではない。

 女である刃として使われている。

 夕刻、茶屋を出ると、

 あの隊士が路地の向こうに立っていた。

 視線が、合う。

 その一瞬で、

 すべてが伝わった。

 ——無事か。

 ——まだ、戻れるか。

 名を持たぬ者は、

 ほんのわずか、首を振った。

 戻れない。

 もう、

 剣を振るうだけの存在ではない。

 それでも。

 名を持たぬ者は、歩いた。

 なぜなら。

 この役割を、

 自分以外が負えば、もっと壊れると分かっていたからだ。

 剣を取る理由は、

 守るためだけではない。

 誰かに押し付けられる前に、

 自分で引き受けるため。

 それが、

 彼女が剣を捨てなかった、

 本当の理由だった。

 夕闇が、町を覆う。

 恋は、

 支えではなく、

 危うい弱点になり始めている。

 だが、それでも。

 名を持たぬ女剣士は、

 刃を隠し、

 影として、前へ進む。

 ——恐らく次は、

 さらに、残酷になる。

 それを知りながら。

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