ブラムとお喋り 1
窓を開ければ広がる青空、吹き込んでくるのは心地良い午後の風。
木々の間を飛ぶ鳥達の美しい声につい、唇が微笑んで。
自由に羽ばたく彼らは今、何を語っているのだろう?
どれほど懸命に耳を傾けたところで、私にはまったくわからないこと。
「ヴァルトルーデ様」
振り返ると、侍女のロジーナが鏡台の傍で待ち構えている。
ほんのちょっと風にあたっただけなのにと、くすくす笑いながらそちらへ歩いた。椅子に座って鏡を見たけれど、ほんの一本、二本がふわりとしたくらいではないかしら?
「ちょっとくらいいいじゃない、と思っておいでですね?」
「ふふふ、ええ。思っているわね、一言一句違わずに。」
「駄目ですよ、そんな心持ちでは。婚約が決まっていると言っても、他国の王太子殿下と会われるのですからね。」
「わかっているわ」
ロジーナは指先で丁寧に、私の髪の毛たった一本を正しい位置へ持っていく。
彼女の深緑色の瞳は真剣そのもので、うきうきと頭を左右に振ってみたい、なんて悪戯心がちょっと芽生えたけれど、さすがに「もう子供じゃないのだから」と胸の奥へしまった。
「お忙しいながらもこまめに時間を作ってくださる…そんな方がお相手に決まって、本当にようございました。」
「もし何かあってお会いできなかったら、それはそれで自分の事を頑張るけれどね?寂しくて泣いてしまうような女性ではないつもり――」
「貴女様ときたら、あまり放っておくとどこかへ飛び出しかねませんから。」
「…そちらの心配だったの?」
心外だわと目を丸くしてみれば、ゆっくりしみじみと頷かれてしまった。
確かに好奇心は強い方だけど、影武者もいない上にアーレンツの王城へ置いて頂いている現状。いずれ正式に一員として迎えられるとはいえ、城の外へ飛び出すつもりは流石にない。
「大丈夫、マティアス様の許可なく勝手に街へ下りたりはしないわ。」
気ままな第二王女でいられた頃とはわけが違う。
私は恐らく一、二年内には、このアーレンツ王国の王太子妃になるのだから。
「クロイツェルと違って土地勘もないし、馴染みの皆もいないもの」
王太子妃とは次期王妃であり、つまりはあのヘルトラウダ様の席に、いずれこの私が着くのだ。
星の離宮の図書室で、ゆったりとクッションに寄り掛かっていた王妃殿下の姿を思い出す。陛下と共に国を背負う重圧をものともせず、あれくらい余裕をもっていられるようになりたいわね。
ヘルトラウダ様はいずれ、「息抜きに行くならここ」というお店や場所を教えてくださるとか。
護衛の撒き方、抜け道の上手い使い方、見つかった時にどう言いくるめるべきか、説得力をもたせるためには身の安全の確保が重要だというお話なども………教わっていいのかしら?
いえ、大丈夫でしょう。学ぶ事は良き事だわ。
お勧めのお店にはぜひ、マティアス様と訪れてみたいものだ。
「…ええ、お淑やかに過ごすつもりよ。」
「本当ですか?たとえ城内や騎士団の拠点であろうと、あるいは相手がか弱い女子供だったとしても。御身の為に、まず警戒の心をですね…」
「ロジーナ、そろそろ行かないとね?」
このままでは時間がいくらあっても足りない。
以前より過保護になるのは仕方ないけれど……「警戒の心」とはきっと、彼女自身にも言い聞かせている言葉なのだろう。
私達は、信頼していた相手に裏切られていたのだから。
だけど、疑心暗鬼になったままでは落ち着いて生きていられない。
「マティアス様が到着される前に準備を済ませておきたいもの。」
少しずつでも気持ちは明るく、油断するのではなく冷静に。
髪も整った事だしと笑って立ち上がれば、時計を見たロジーナも「確かに、もう向かった方が無難ですね」と納得してくれた。
廊下で待機してくれていたルーカスと合流して、歩き出す。
カルラは騎士に手を出していて、魔法が解けた時には拒絶反応がひどかった。
症状がそこまでいかなかった者や、ロジーナ以外の侍女や使用人もいたけれど……元はただの見合い目的だったこの旅路。
急にそのまま残る事はできないという者、ショックを受けて、やっていく自信をなくして帰った者もいる。
無理もないこと、私は誰も引き止めなかった。
クロイツェルの騎士で残ってくれたのはルーカスだけだ。
『他人がつけた護衛では不安が残るだろう。実力を測り、また向上させるにあたっては――双方合意がとれるのであれば、試合も稽古も好きにして構わない。』
マティアス様はそう言った。
アーレンツの騎士がルーカスに抱く懸念と、ルーカスがアーレンツの騎士に抱く懸念。
理由や内容は違えど、それは互いに「相手を知らないから」生まれるものだと。
騎士の仕事内容にかかわる分、私の権限では勝手に決められない事だから、マティアス様から仰って頂けてとても助かった。何もなければ私から相談していたところだ。
お礼を言った時、彼は少し懐かしそうに目を細めて。
『刃を交えると、相手の事が色々わかるものだ。……もちろん、騎士以外の女性には勧めないが。』
『マティアス様も、試合で理解を深めたご経験があるのですか?』
『…そうだな。ケイスを信用した一因ではある。』
言われてみれば確かに、マティアス様とケイスが「戦った事がない」とは思えない。
ケイスがカルラの魔法で私を偽物と思い込んだ時、拘束しようと放たれた魔法から救ってくれたのは彼だった。
金属を操る魔法……ケイスは、剣の刀身を幾本もの杭に形状変化させていた。
目を閉じてしまった私はその瞬間を見ていないけれど、マティアス様はご自分の剣で弾くか叩き落とすなりしたようで。
二人の会話も確か、お互いの実力をわかった上でのものだった気がする。
その後私は偶然にも、ケイスの婚約者であるシルフィア様から昔話を(半強制的に)聞く事になるのだけど……実はケイスもまた、マティアス様に負けて試合を挑むうちに、彼に仕えようと決めたらしいのだ。
王女として生まれ、剣を手に戦う術を持たない私には遠い話。
ルーカスはほんの短い間にアーレンツの騎士達から尊敬を集め、反対にルーカスも彼らの力を信用して、きちんと自分の休憩をとってくれているようだ。
……目の下にあったクマも、少しは薄くなったかしら?
「ね、実は今日お会いするのは、マティアス様だけではないの。」
「あら、そうなのですか?」
「特別なお客様がいらっしゃるのよ。」
「どちら様でしょうか。」
真剣な顔をしたルーカスはもしかすると、王妃殿下や国王陛下のお顔を想像しているかも。
私は二人に「内緒よ」とばかり、人差し指を口の前で立ててみせる。
「リートベルク卿よ。ご一緒してくださる予定なの」
「まぁ!あの、猫型の。」
「確かに、魔物にしては大人しい様子…ではありましたが……」
ロジーナが目を丸くして口元に手をあて、ルーカスは渋い顔。
既に「彼」を見かけた事があったみたいね。
ブラム・リートベルク卿。
三つの尾がある猫のような見た目の魔物――三尾猫。
裾に王家の紋章を刺繍した黒いマントを羽織っていて、長い錆色の毛はまだ、撫でさせてもらった事がない。
「ふふ、楽しいお茶会になると思わない?」
「猫…いえ、魔物ですが……飲むのですかねぇ、お茶を……?」
「ああ確かに、どうなのかしら。食べ物は事前に聞いた好みのものを用意していたけれど。他は任せるようにとマティアス様が仰って。」
「ここの騎士からも多少話は聞いていますが…本当に危険はないのでしょうか?」
ルーカスが至極当然の心配をしている。
長年ここで暮らしている事は聞いたでしょうから、答えがわかっていながらの質問だと思うけれど。
「大丈夫。何度かお会いしているし、マティアス様もご一緒だから。」
「あれを最初に見た時は、驚きました。魔物が平然と城内を……アーレンツでは斯様に魔物が身近なものなのかと。」
「話に聞く限り、リートベルク卿がかなり特別みたいね。先代の国王陛下の頃からいらっしゃるのだとか……とても賢いのよ。殿下への手紙を運んでくれた事があるの」
今日は、そんな彼とお話ができる予定だ。
マティアス様が通訳をすると約束してくださって、前々から楽しみにしていた。
ハムスターの姿だとさすがに怖かったけれど、人間の姿で会うなら全然平気だ。
私を助けてくれた彼を「魔物だから」という理由で今更避けるつもりはないし、お礼として怒鎚鱈も用意した。喜んでくれたら嬉しい。
マティアス様の魔法は全ての言語を解する。
ハムスター王女である私の言葉も、魔物であるリートベルク卿の言葉も。
私にはリートベルク卿の声は猫のような鳴き声にしか聞こえないし、ハムスターの私では何を言ってもリートベルク卿には通じない。
反対に、人間の言葉であればリートベルク卿にはほとんど通じているのだとか。
それは三尾猫だからとか、魔物だからという事ではなく。やはり彼自身が、何十年もこの城で人と共に暮らしてきたせいなのだろう。
「声をかけると返事をしてくれるのよ。何と言っているかはわからないけれど」
「仲良くなれるといいですね」
「ええ。二人と一匹で秘密のお茶会だから、ロジーナは待機室でゆっくりしていて。ルーカスは……同じ部屋にいないと心配?」
「…いいえ。秘密の茶会は、招待されていない者が入るわけにいきませんでしょう。」
ふと表情を和らげたルーカスを見て、嬉しくなった私は微笑みを返した。
リートベルク卿の事を、殿下の事を、私の事を、信じてくれる。
「これまで彼が培ってきた信頼があり、王太子殿下も貴女様も認めている相手です。」
「そうよ。私と一緒にこの城に居てくれるなら、貴方もロジーナも、長い付き合いになるんだから。」
「私達は恐らく、廊下ですれ違うくらいかとは存じますが……お見かけしたらご挨拶しなければなりませんね、ルーカス殿?」
「む……」
ルーカスがまた難しい顔に戻ってしまった。
自分が話しかける姿を想像できなかったのか、あるいは想像できてしまったからこそ?
二人と話す内に目的の部屋へ着いた。
予約しておいたのは、私が初めて人の姿でマティアス様に会ったサロン。
ここは同時に、初めてリートベルク卿に会った場所でもある。猫はまずいと思って、私はマティアス様の胸ポケットに入りながらだったけれど。
ロジーナに手伝ってもらって準備を済ませ、彼女が下がったところで部屋の扉がノックされた。




