義兄弟と家族
「内緒」
そう言った凛は、心臓が止まるかと思うほどに可愛らしかった。あれはきっと、性別関係なく惚れてしまうだろう。でも伊織はそれを忘れるほどに反省していた。いや、反省というより、恥ずかしくて居た堪れないのだ。まさか、あの凛に、「凛も、俺を、好きなの」なんて言ってしまった。あのモテまくっている凛が、色々な人から愛されている凛が、ただただ普通の男である伊織を好きなわけない。凛に「内緒」と言われた瞬間に全てを悟り、伊織は自分でもわかるほど赤面して、実際に全身の毛穴から汗が吹き出した。伊織は可愛いくもなければ、性格がすこぶる良くもない。そもそも、男なのだ。しかも年上で、凛の義兄で、好かれる理由がカケラもないのだ。ちょうど買い物から家政婦が戻ってきたことで伊織は自然を装って散歩へ出かけることができたけれど、自らの自惚を思うと穴があったら入りたい。一生あの家には帰りたくなかった。
オレンジ色の夕日が沈む商店街をトボトボと歩く。こんなに落ち込むほど恥ずかしいのは生まれて初めてかもしれない。俯いていた顔をあげて、天を仰ぐ。ジンは見ているだろうか。今日の話を、誰でもなくジンに聞いて欲しかった。彼に話したらきっと心も落ち着いて、全て大したことないと笑って、それから適切な解決方法を教えてくれるだろう。そんな彼がいないことを、伊織は改めて嘆いていた。
行くあてもなく歩き続けると、いつの間にかトマトのマークのスーパーの前まで来ていた。幼い頃にジンと買い物をしたことを思い出して余計にナイーブになる。そういえば凛と三人で買い物に訪れたこともあった。あの時の興味津々な凛は可愛くて、普段の大人っぽいイメージとはまた異なる姿だった。そんなことを考えながらスーパーの前を通り過ぎた、その時だった。
スーパーと、隣接する建物の間の細い路地に、人の気配を感じる。なんとなく顔を傾けて路地の奥を眺めると、そこには伊織の方に背を向けて蹲る男が見えた。あんなところで何をしているのだろうか。それでも歩みは止めずに通り過ぎようとすると、男がドサリと体勢を崩した姿が視界の端に見えた。慌てて後ろに数歩下がり、もう一度路地の奥を見遣る。見間違いではなく、確かに男が倒れている。伊織は目を瞬かせてから、急いで男に駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
そう言って背に手を添えながら暗がりにその顔を覗き込んだ瞬間、伊織は思わず「うわっ」と声を上げた。大きな体に黒い学ラン姿。その男は、伊織がやむなく二度も絡みに行ったあの集団の一番大柄な男だったのだ。胸ぐらを掴み上げられた時の記憶が蘇って身震いしつつも、辛そうに腹を抑える姿が尋常ではなくて、伊織はなんとか勇気を振り絞った。
「ど、どうしたんですか」
男は唸るのみで全く言葉を返してくれない。伊織は焦りで震える手でスラックスのポケットからスマートフォンを取り出した。救急車、救急車、と呟きながらスマートフォンを操作する。救急車なんて呼んだことがなかったけれど、なんとか消防と話をして、商店街まで救急要請をすることができた。
「すぐ救急車来るから」
そう言いながら辛そうな男の背中を摩り続けていると、しばらくして救急車のサイレンが聞こえてきた。体感時間は長く感じたけれど、きっとあっという間に駆けつけてくれたのだろう。救急隊へ居場所を正確に伝えるためにすぐに路地から出た。その際に「ちょっと待っててね」と伊織が言うと、男は微かに頷いたように見えた。
救急車を路地の前まで誘導して、後は救急隊に託そうと「よろしくお願いします」と言っていたら、ストレッチャーで運ばれてきた男が伊織へ手を伸ばしてきた。お礼でも言いたいのかと伊織がその手を握ってやる。案外可愛いところがある。そう思ったのに、男が強い力で伊織の手を握り返したと思ったら、そのまま引っ張られてしまった。
「えぇ!?」
伊織が手を引かれるままに後へついていくと、救急隊の一人が曇りなき眼で伊織を見つめてきた。
「一緒に病院まで」
「僕がですか!?」
救急車に揺られながら、車内だとサイレンはこんな風に聞こえるのだなとか、あそこについている備品はなんだろうとか観察していたら、男にぎゅっと手を握られた。
「うん、ここにいるからね」
何が言いたいのかわからないために、なるべく優しくそう言うと、彼は苦しみながらも微かに頷いた。
病院に到着して救急外来の待合で待たされている間、伊織は彼のことがずっと心配だった。心配してやる義理もないのに、救急車のなかで痛みに耐えながら苦しむ様子を見ていたら可哀想になったのだ。説明に来た看護師によると、なんとか炎とかいう炎症になっていて、腹部に強い痛みが発生していたらしい。家族は夜にならないと病院へ来られないらしく、代わりに伊織がそばでついている羽目になってしまった。どうせ帰りたくなかったし、ちょうどいいかもしれない。そう思いながらぼんやりと待合の時計を眺め続けて一時間ほど経った頃、女性の看護師が改めて伊織を呼びに来た。
「ベッドのそばについていてあげてください」
「え、俺がですか」
「今は点滴で落ち着いて、ちょっと気分も良くなってると思いますので」
彼女は伊織を友達か家族かと思っているのだろうか。落ち着かれてしまったら彼の攻撃性が増すのではないかと本気で恐ろしい。しかし断るにも断れない雰囲気に、伊織は渋々救急外来へ足を踏み入れた。それからベッドの周りを囲むカーテンをゆっくり開ける。男が眠る枕元には「赤城」と名前の印字がしてある受付ファイルが置かれていた。生年月日欄は伊織の一つ年下のようだ。なんだ年下かと思うより先に、凛と同じ年だと思ったら一気に親近感が湧くのだから面白い。
「赤城、くん」
伊織が声をかけると、彼は瞑っていた両目を薄く開いて伊織に視線を向けた。伊織は少し距離をとりながら顔を覗き込む。
「大丈夫かい」
赤城は鈍い動きでこくりと頷いて、それから小さな声で何か言った。
「ん?」
伊織が顔を口元に近づけると今度は何も言ってくれなくて、だから諦めて顔を離した。ふと赤城と目があう。がっしりした骨格が羨ましい。でも己の強さを善良なことに使わないところがいけ好かないなと思った。凛や春川に対する行動は当然許せない。けれど、弱っている時にそれを咎めるのも気が引けて、伊織は仕方がないと溜息をついた。
「あれ、……お前、この前の」
眉を顰めながら告げられた言葉に、今頃気がついたのかと伊織は軽く目を見開いてから、やっぱり可哀想だなと思った。きっと痛みでそれどころではなかったのだろう。だから、一つ頷いて、ベッド傍に置かれている丸椅子になるべくふてぶてしく腰掛けた。
「そうだよ。如月凛の兄貴で、春川くんの友達」
「春川?」
「君が昨日カツアゲしたメガネの男の子」
「……ああ、あいつか」
「集団で一人をいじめるなんて、悪い子だ」
「……うるせえ」
赤城はそう言うと、目を瞑って黙ってしまった。伊織もそれに倣ってしばらく黙っていたけれど、なんだか言いたいことがいっぱいある気がして、思わず赤城の肩の辺りをグーで叩いた。
「うわっ!なんだよ」
「赤城くんはさ」
「あ?」
「普通の男の子だろ」
「は?」
「良い子かはわからないけど、本当は悪くもない普通の男の子なんじゃないの」
「いきなりなんだよ」
「あんまり悪者になったら可哀想だ」
「何がだよ」
「赤城くんがだよ」
伊織がそう言うと、赤城はグッと押し黙った。だから構わずに伊織は続ける。
「物語だったら、君は悪者だね。凛や春川くんに主役を奪われて良いわけ」
「……うるせえよ」
「せめて善良に生きるべきだと思うよ。俺が応援してあげるからさ」
伊織はそう言い切ると丸椅子から立ち上がった。そして上から赤城を見下ろして、「わかったかい」と言った。伊織のことを目を丸くして見ている彼は頷くこともなく、しばらくすると顔を背けてもう一度「うるせえな」と言った。
伊織はカーテンを開けてその空間から抜け出すと、待合の近くの自動販売機でペットボトルの経口補水液を買った。先ほど差し入れをすべきか悩んでいたら、看護師から是非飲ませてほしいとお願いされたものだ。買ったものがきちんと間違いではないことを看護師に確認して、再びカーテンの中の丸椅子に腰掛ける。そして蓋を緩めてやってからペットボトルを赤城に差し出した。
「飲みな」
「いらねえよ」
「でも看護師さんも飲んだ方が良いって」
「いらねえって」
「なんで」
伊織は口をへの字にして赤城をじっと見つめた。せっかく買ってきたのに、なんで飲まないのだろう。しばらく待っても動こうとしない赤城に痺れを切らして、伊織はペットボトルの蓋をキュッと閉めてから枕元の荷物入れに忍び込ませた。
「勝手に入れるな」
「やだ。飲んでくれないと泣くよ」
伊織としては、自分というよりは用意した飲み物が泣くという意味合いだったのだけれど、赤城は別の文脈で受け取ったようで、少し慌てたように伊織を見上げた。
「……泣くな」
「いや、泣くね。大声で」
そう言って伊織が手の甲で目を覆ったら、赤城はもっと慌てたように「わかったから」と言った。
伊織がもう一度ペットボトルの蓋を開けてやると、彼は大人しくゴクゴクと三分の一程度を飲み干した。もしかしたら喉が渇いていたのかもしれない。
素直じゃない彼の姿を眺めていたら、救急外来が途端に騒がしくなった。看護師と医師の声と、それから女性と子供たちの声が聞こえてくる。看護師との会話から、赤城の家族がやってきたのだとわかった。
「お迎え来たね」
伊織が笑顔でそう言うと、赤城はペットボトルの蓋を閉めながら「ふん」とだけ言った。
結局、赤城の家族が来たことで伊織は病院から脱出することができた。付き添いはいないと困るらしいけれど、やはり家族がいればそれが一番らしい。どうやら赤城には幼い妹や弟がいて、その保育園への迎えのために親は病院への到着が遅くなったようだった。兄弟が多いと大変だなとは思う。伊織だって幼い頃から何かと苦労があったけれど、それでもジンがいたし、自分の面倒だけ見ていたら良かったから楽だったのかもしれない。ただ、兄弟と聞くと凛の顔が浮かんだ。凛は今頃夕食を食べているだろうか。時刻は十九時を回ったところで、病院の外は随分と暗くなっている。家まで急いで歩いても三十分はかかるだろうから、到着は二十時前になるだろう。
そういえば、伊織は家に帰りたくなかったのだ。すっかり忘れていたけれど、自惚の恥ずかしさを鮮明に思い出して、頭を抱えた。ああ、どうしよう。帰りたくない。もう少し時間を潰せる場所を考えながら、スマートフォンを取り出した。病院だからと電源を切っていたことを思い出して、電源ボタンを長押しする。すると伊織のスマートフォンはブルブルと震え始めた。起動するとこんなに振動するものなのかと画面を確かめると、凛からの着信を知らせていることがわかった。心の底から出たくないなと溜息をつく。そうして悩んでいる間に、振動は止まってしまった。
「うわ」
そう口から漏れたのは、画面に表示された凛からの着信が三十を超えていたからだった。もしかして、何か用でもあったのだろうか。凛が急遽体調不良になっていたり、家で何か問題が起きたりしていたらどうしよう。伊織は急に心配になって、メッセージツールアプリを開いて、凛の名前をタップする。電話マークを押そうとしたところで画面が切り替わり、もう一度凛から電話がかかってきたことがわかった。伊織は慌てて通話ボタンをタップして、機体を耳に充てた。伊織の「もしもし」に被さるように、『伊織くんっ』と名前を呼ぶ声が聞こえる。
「凛、どうかした」
伊織がそう聞くと、凛が息を呑んで、それから大きく溜息をついたことがわかった。
『こんな時間まで、どこにいるの。電話も出ないでさ』
「ごめん。病院で」
『病院?何かあったの」
「俺じゃなくて、道端で苦しんでいる人がいて救急車よんだの。そしたら俺まで運ばれちゃって」
『……今どこ』
「市民病院」
『今から行くから、待っていられる?』
「いいよ、歩いて帰る」
『だめ。俺がすぐにタクシーで行くから、そこで待ってて』
凛の有無も言わさない声音に、伊織は仕方なく頷いた。ところが了承の声を出すのを忘れていて、『わかったね』と念を押されてようやく「うん」と答えたのだった。
凛はそれから十五分くらいで本当に病院前までタクシーで来てくれた。タクシーからわざわざ降りてきた凛は、伊織の姿を見つけると駆け寄ってきて、伊織をギュッと抱きしめた。
「ごめん、心配してくれたの?」
伊織が尋ねると、凛は伊織の肩口に顔を埋めながら一つ頷いた。
ひっついて離れない凛を連れてタクシーに乗り込む。家まで向かうその道中、凛に左手をずっと握られていて、伊織は救急車の中でのことを思い出した。きっと赤城も痛くて不安だったのだろう。家族が来てくれたのだから、今頃安心して帰路についているに違いない。彼にも、そして伊織にも、迎えに来てくれる家族がいると思うと、少し心が救われた気がした。
家の前でタクシーから降り立って、無駄に広い庭を通り家の中へ入る。庭と同じく無駄に広い玄関で、凛から腕を引かれたと思ったらもう一度抱きしめられた。思わず「うわっ」と声が漏れたけれど、大人しくされるがままにしておいてやる。年上の男が帰らなくて、そんなに不安だったのだろうか。思わず首を傾げると、それが伝わったらしく、凛は怒ったように「伊織くんってば」と呟いた。
「うん。心配かけたね」
「本当だよ」
「でも、女の子じゃないんだし、心配しなくて大丈夫だよ」
実際、一人でアルバイトのシフトに入っている時は、今くらいの時間に帰宅するのが常だ。伊織としてはいつものことだった。ところが、凛は伊織の肩に手を置きながら体を離して、ムッとわかりやすく不貞腐れた。
「だって、今日はジンがいないじゃん」
「そうだけどさ。俺は男だから」
「伊織くんが男の子でも女の子でも、俺は帰りが遅かったら心配するよ」
「そうなの」
「だってこんなに可愛いんだから」
そう言って美しい顔に不安を乗せて顔を覗き込まれると、伊織は何も言えなくなってしまう。不思議と凛のことがキラキラと輝いて見えるのだ。これは顔が良いからそう見えるのだろうか。伊織は一度ぐっと黙ってから口を開いた。
「俺が可愛いわけないだろ」
そうだ。伊織は凛のことが義弟として、一人の人間として好きだ。しかし、同じように凛を好きだったり、それ以上の感情を持っていたりする人たちの中で、伊織は最も平凡で可愛げなのない男なのではないだろうか。そもそも可憐な女の子ではないし、その辺にいる男の中でもごくありふれた個性の凡人だ。
ところが、凛は伊織の言葉に目を見開いて、珍しく大きな声で「可愛いに決まってる」と言った。
「いや、だからさ」
「誰がなんと言おうと可愛いよ。だって、俺の好きな人なんだから」
今度は伊織が目を見開く番だった。キラキラキラキラ。目の前の美しい彼は、今伊織のことを好きだと言っただろうか。少し固まってから、ああ、そういうことかと納得した。きっと、義兄として結構好きくらいの意味合いだろう。もしかしたら友達の関係だとしても、多少は好ましく思っていてくれるのかもしれない。
「うん、ありがとう。でもさ」
「なに」
「そういうことは、あんまり言わないんだよ。みんな勘違いするから」
「勘違いって」
「凛に好かれてると思うだろ」
「だから伊織くんにそう言ってるんだけど」
「みんな、凛の唯一になりたくなっちゃうよ」
ここまできたら、もう大切な義弟を守るために諭す勢いだ。だって、大切な義弟が勘違い人間に困らせられないように、大切にしたい人を特別大切にできるように、即席とはいえ兄としての役目を果たそうではないか。
伊織がそう考えていると、凛は少し考えるような顔をしてから、眉尻を下げて小さく笑みを浮かべた。
「伊織くんって、なにもわかってないね」
「え?」
「さっきは正解してたのに」
「なんのこと?」
「こんなこと、伊織くんにだから言ってるってこと」
「……そうなの?」
「うん。俺は伊織くんの、恋人になりたいんだよ」
「うぇっ……、こ、恋人!?」
「義弟として大事にされてることくらいわかってる。でも、俺は伊織くんの一番になりたい」
真っ直ぐにそう言った凛の周りに、発生現不明のキラキラが再び現れた。それを見ながら、伊織はつい口をポカリと開けて固まってしまった。一日で二人から告白されるなんてこと、伊織の人生で起こるだなんて思ってもみなかった。確かに散歩に出る前、凛は伊織のことが好きなのかと思ったけれど、実際に凛から公表されるとまるで信じ難い。でも、優しくて、どこまでも真っ直ぐだった。だから、つまりはどうしたらいいのだろう。伊織はハッと我に返って、慌てて靴を脱いだ。凛の手を肩からそっと外して、家に上がり込む。
「伊織くん?」
「ちょっと、俺、だめだ」
「え?」
「冷静じゃないからさ、この話はまた後で」
「告白なんだよ。それを後でってありなの」
「わからない。告白なんてされたの、何年か振りだから」
「いや、待って。されたことあるの、告白」
「あるよ」
「知らないんだけど」
「だから、その時のこととか思い出して頑張るからさ、ちょっと待ってて」
伊織は半ばそう叫びつつ、階段を駆け上がった。伊織にはもう逃げるしかできない。頭がぐるぐる混乱して、おかしくなりそうだ。後ろから凛がついてこないことに少し安心して、伊織は自室に閉じこもった。閉じこもってから、夕食を食べていないことに気がついたけれど、今日は食事なんて喉を通る気がしない。
伊織は少し散らかった部屋を駆け足でベッド脇まで向かった。それからガラリと大きな窓を開けると夜空を見上げる。昼間はあんなに晴れていたのに、今は星一つ見えない。きっと厚い雲で覆われているのだろう。こんなに雲が多いと、ジンも天から伊織を見下ろすことができないかもしれない。だから、伊織の心の声だけでも届くように祈った。
(ジン、俺は今、人生最高のモテ期みたいだ)
ちょっとおどけてみたけれど、返事は当然届かない。だから小さく息をついて、窓枠に肘をつき、両手を顔の前で組んだ。ジンは神様だから、こうやって祈りながら話したら通じるかもしれない。
(ジン、俺はジン以外を好きになれるのかな)
伊織がそう聞くと、(さあね)と聞こえた気がした。
(凛のことは好きだよ。でも、まさか俺のことを本当に好きだなんて)
きっと、ジンは(びっくり?)と聞いてくるだろう。
(うん。だって、俺を好きになる理由がわからない)
もしかしたら、(伊織は素敵な男の子だよ。俺が保証する)とか言ってくれるかもしれない。いや、言ってくれないかもしれないけれど、言ってくれたら嬉しいなと思った。はあ、と息をつく。どうしてこんな時にジンはそばにいないのだろうか。
(伊織、凛くんとキスできる?)
突然聞こえた気がした声に、伊織は飛び上がった。そんな話、我ながらうぶな伊織に勘弁してほしい。
(キ、キキキ、キスって、そんなの凛は望んでないかもしれないじゃん)
そう返しながら、でも、と考える。正直、別に、凛がキスしたいと言ったら、伊織は覚悟を決めると思う。きっと頬だろうと、口だろうと、エイッと一思いにできるだろう。では春川はどうだろうか。そう考えようとして、慌てて頭を振った。好意を彼から伝えてくれたのは事実だけれど、想像するのは申し訳ない気がする。
(春川くんのことも考えないとだめだよ)
ジンの声がまるで頭に響いているようだ。わかってるよと頷くと、(ならいいけどね)と聞こえた気がした。
凛は良くて、春川は違うのだろうか。やはり、凛の美しい顔に惹きつけられているのか。凛も大変だなと、他人ごとのように思った。
(伊織は面食いだからね)
(うそ。なにそれ)
(伊織、俺の顔好きだから)
それは確かにそうだ。ジンの顔は、昔から大好きだった。ジンが好きだから当然好きなのだと思っていたけれど、顔の造形に見惚れる瞬間も多々あるし、それは否めない。
(まあ、いいや。伊織、俺がいなくてもよく眠るんだよ。ちゃんと見てるから)
伊織が天に向かって頷くと、ちょうど雲の間から現れた月が笑ったような気がした。
伊織はしばらく月を眺め続けた。考えてもわからないことがあるというのは非常に苦しい。ジンはこの迷宮の出口を知っているのだろうか。きっと知っていても教えてくれないかもしれない。だからといって、ジン以外の神に祈ることは、伊織にはできないなと思った。




