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第三話:司祭の門にて

今回は短めです。

 その日、どう行動するのが正解だったのか。何をすれば、しなければ、運命は変わったのか。後悔と共に、ジャネットは生涯に渡り、何度も考えた。



 『こうして(Sic itur)星へと至(ad Astra)る。ここが天への道である』―司祭の門(キャノン・ゲート)と呼ばれる場所のモット―は、そこがメアリーの死に場所だと考えると、随分皮肉が効いている様に思えた。 

  

 道を下ればホリルッド宮殿。登ればエディンバラ城。かつて近所にスコットランド議会が存在し、ホリルッド宮殿が朝廷だった頃は、司祭の門(キャノン・ゲート)も裕福で、貴族の多くが集う大通りであった。しかし、前者は1707年の合同法、後者は1603年の王冠連合ですっかり存在を無くし、とどめにエディンバラ新市街の発展は、司祭の門(キャノン・ゲート)のかつての栄光を大きく曇らせた。


 今では産業的な地区としての印象が強く、同時になお根強く残る高級感もまた存在する。ボコボコの石畳で作られた大通りは、両脇にそびえ立つ石造りの高層建築と数百年に渡る歴史を抱え、やや歪な形でそこにあった。


 

 そんな司祭の門(キャノン・ゲート)は、ハルデン夫人の元から三十分もかからない距離にある。メアリーもジャネットも、翌朝までには帰るつもりでいた。その日の客引きはまずまずといった所で、ただしかし、肝心の仕事はハルデン夫人の元では無く、相手の家で行われた。二人が合流したのは既に翌日早朝、さあ帰路に着こうと歩き出した時。一人の男に呼び止められた。



 その男は口が上手く、思わず警戒心を解いてしまう、何かがあった。三十代も後半で、金色混じりの明るい茶髪をした、垂れ目丸顔の男である。身長はあまり高くなく、しかし労働者特有のしっかりした体つきと、一方で少し良い家の産まれを思わせる立ち振る舞いは、馴染み深さからくる安心感と、未知への興味を引かせてしまう、そんな両面を兼ねていた。


 男は二人の職を察すると、冗談交じりに自分が如何に「元気なのか」を語り、まずは二人に兄弟の家で朝食を奢ろう、と話した。それに対し、あざとく含羞むメアリーと、ちょっと生意気にからかうジャネット。ここまでは何時もの事であった。


 もしこの時断っていれば、とジャネットは度々思う。これが一つ目の後悔だった。しかし、どうせ客を取るならば、感じ良く、気遣いの出来そうな人の方が良い、と考えてしまったのが運の尽き。言い包められた二人は男に続き、向かったのが「ギブの路地」にある家。そこで朝食と共に出されたのは、随分気前の良い量のウィスキーだった。



 この時、飲み過ぎなければ、というのが二つ目の後悔だった。ジャネットもメアリーも、人生を思い返せば決して楽しいものでは無かった。確かに、日々の生活に喜びを見つける事もあったし、小さな幸せというのも知っていた。しかし、娼婦という職も、選択さえあれば決して就かなかったものだし、幼少の頃の話に至っては、思い出したくも無いものばかり。日々常に感じる世の不条理、生き難さと辛さを忘れさせる酒の魅力に、二人は度々負けていた。これは、そんな日だった。男の話はどれも楽しく、会話を交えながらついつい二人が口にしたウィスキーは、飲むべき量を遥かに超えていた。

 

 先に限界が来たメアリーが、彼女は机に突っ伏してスヤスヤの眠りだした時、


 「もう、メアリーったらダメねぇ、まだ何もしてないじゃない!本当、しょうがないんだから!」


 と、赤ら顔でジャネットは言った。その言葉は、彼女がメアリーに言った最後の台詞である。小さな事の様に見えて、これが三つ目の後悔。ジャネットは他に言う事があったのではないかと、最後の言葉は違う形で遺したかったと、何度も考えた。


 

 呑気に眠るメアリーを他所に、ジャネットは男と話し続けたが、そんな宴に水を指したのは、男の嫁…と思われる…女の登場だった。女はジャネットとメアリーを見ると嫉妬に狂い、男に浮気だと責めだし、二人を他所に口論を始めた。どんどん激しくなっていく痴話喧嘩に怯えたジャネットは、男が既婚者だと知らなかった、と怒鳴り、メアリーに帰ろう、と声をかけて路地家を後にした。この時の自分の愚かさを、ジャネットは呪った。メアリーは寝ていた。聞いていなかった。普通ならすぐに気が付く事に、判断力が低下したジャネットは頭が回らず、メアリーを置き去りにしたまま立ち去ってしまった。朦朧とする中、やっとメアリーがいない事に気が付いた頃には、既に大分時間が経っていた。


 一気に酔いが覚め、ぞわりと肌が粟立った。ジャネットは慌てて路地家に戻ったが、家には先程の女と男の他に、新たな男女の一組がいた。その一方で、肝心のメアリーはいなかった。一瞬で心臓が凍り付き、震える声でメアリーの行方を聞けば、彼女はジャネットが去った直ぐ後に目を覚まし、帰路に着いたという。


 「俺は一応、送ろうとしたんだよ。でも、五分もしないうちに、あの娘さんの知り合いらしい人物と会ったんだ。二人の会話はあまり聞いちゃあいなかったが…グラズゴーへ行くだとか、どこで落ち合うだとか、ちょっと聞こえた。グラズゴー訛りは、聞き取り難いんだよ…すまねぇな」


 後はその人物に任せて自分は今戻ったのだと言う男の話を、ジャネットは安堵と絶望、相対する二つの感情で聞いた。



 可笑しな話だった。そんな得体の知れない人物に任せた男に、当然怒りも沸いたが、あまりにメアリーらしくない。その一方で、元々グラズゴー出身だったメアリーなら、もしかしたら何かしら理由があるのかもしれない、と頭を過り、序にあの恋人のジョンだとか言う奴に関する事かもしれない、とも考えた。考えようとした。しかし、心の底では、取り返しのつかない事が起きてしまったと、本能的に理解していた。



 酔いとは違う理由で眩暈と吐き気を覚えたジャネットは、無意識に大通りへと駆け出し、何度もメアリーの名前を叫んだ。ただ、一瞬。ほんの一瞬だけ、路地裏の家を振り返った。とても大事な何かを、そこに置いて来てしまった様な、そんな気持ちを感じると同時に、何故か、彼女はそこにもう戻らない方が良いと、どうしてか思ってしまった。本当は、もう少し男から話が聞きたかった。でも出来なかった。ジャネットは何故か、得体の知れない恐れを感じていた。


 その日一日、ジャネットは狂った様にメアリーを探した。ハルデン夫人の元へ行っても、彼女は戻っておらず、マギーの家やその弟に聞いて回っても、誰一人として彼女を見ていなかった。何もかもが悪夢だった。



 夕刻。泣き腫らした目と青白い顔をしたジョンが尋ねに来た時。聞くのも悍ましい、メアリーの最後を知ったジャネットは、悲鳴を上げ続ける事しか出来なかった。


 ジャネットは悪くない。軽はずみではあったが、決して悪は犯していない。しかし、他ならぬジャネット本人が、生涯自分を許さなかった。


 周りの言葉も慰めも、何一つ意味は無かった。ジャネットはその日、罪悪感と後悔という名の呪いを、自らにかけてしまったのだった。

【歴史背景:スコットランド議会】


 本作ではキャノン・ゲートを「かつてのスコットランド議会の近所」と表しましたが、正確には今でもそうです。が、スコットランド議会が形を違えど復活したのは1999年なので、本作の登場人物からすれば、議会の存在はあくまで過去の出来事なのです。



【歴史背景:エディンバラ新市街・旧市街】


 「中世の町並み」が色濃く残る、坂と路地で作られた旧市街と、「北のアテネ」と評されるネオ・クラシカルの建築物や、整備された道路を持つ新市街。どちらもエディンバラのアイコンです。しかし、現在の旧市街は19世紀半ばから大分整備されたので、実は部分的には新市街より新しかったりします。1766年から始まり、新市街の発展は大きく分けて三段階で行われましたが、この話の時点ではほぼ完成しています。

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― 新着の感想 ―
[一言] メアリーの死に関係しているのは、グラスゴー訛りの男でしょうか? そもそも、メアリーは泥酔から目覚めたのでしょうか?  ジャネットの感じた得体の知れない恐怖の正体は、なんだったのでしょうね。ウ…
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