ー中編ー 膝に受けた矢は
あの告白から一週間。
秋島出雲の日常に変化はない。
俺はいつものように部室に来て、
いつものようにノートPCを開いて、
いつものように小説の原稿を執筆。
そして、いつものように遅々として進まない。
エアコンなど無い部室には八月の勃々たる大気が充満している。
全開にしている窓からは時折、申し訳程度の頼りないそよ風が入り込み、室内の熱気をねっとりと緩く撹乱する。
暑さで徐々に視界がボヤける中、この地獄で唯一の戦友となる机の上の小さな卓上扇風機に目を向けた。
このボロボロのくたびれた戦友から発する儚げな回転音は、外で大合唱するセミたちの声にかき消される程度に頼もしかった。
「俺はもう駄目だ……。 俺に構わずに先に行くんだ……」
扇風機が喋った。
どうやら俺は熱にやられてしまったのかもしれない。
「俺は先に行って待ってるぜ……。 これまで楽しかったぜ、相……棒……」
扇風機はそう言い残すと、パチリという音と共に回転を止め、ゆっくりと首を落としていった。
「相棒ぉぉぉ! 衛生兵っ、エイセイヘーッ!」
思わず相棒に向かって駆け寄ると、相棒の机の下から「アパム! アパーム!」とか叫ぶ声が聞こえてきた。
「……弾を要求してどうすんだよ。それにアパムは衛生兵じゃないからな」
「えー 雰囲気でいいじゃん雰囲気でー お約束には雰囲気も大事なんだよー」
そう言いながら机の下からノソノソと這い出てくる大きなポニーテール。
「ってか、扇風機止めんな。暑ぃだろうが。あと、いつ部室に入ってきたんだよ」
「いつって、ついさっきだよ。あの子と一緒に」ポニーテールは立ち上がると、俺がさっきまで座っていた机を指差した。
「あの子? 一体誰よ」
振り向くと俺のノートPCのキーボードに黒毛玉が鎮座していた。
「アパームっ!!」
思わず絶叫した。
「わかってないなあ。アパムは衛生兵じゃないんだよ?」
「雰囲気だよっ!」
俺が駆け寄るとオテシロはノートPCの上で、これみよがしに伸びをしてからヒョイと机から飛び降りた。
原稿、原稿は大丈夫か? ノートPCをひったくって画面を確認するとホーム画面が表示されていた。タスクバーには起動中のアプリは何も表示されていなかった。やっぱり今日もセーブはしていなかった。俺はお約束に律儀なんだと思った。
「一体どうやって座ったら起動中のアプリをセーブせずに器用に落とせるんだよぉ……」さようなら俺の二時間。
「なんでお前らは、いつもいつも俺の邪魔をしにくるんだよ!」
まー、まー、怒んないで。なんてちっとも反省のない顔で笑う彼女と、そっぽを向いて知らん顔を決め込むハチワレの黒白猫。
俺の失恋の相手、浦野映羽は、その端正な顔立ちの中では少しアンバランスに感じる大きな瞳に悪戯っぽさを煌めかせながら笑っている。
「そもそも部外者が堂々と入ってくんなよ」
本来ならば、『振った男の前に頻繁に現れるな』と言いたいところだったのだが日和った……
「えー 私も文芸部なんだけどなー」
「なんで。浦野は映写部だろ?」
「掛け持ちだよ? 他には茶道部とかテニス部とか水泳部とか放送部とか、あと園芸部とかさ。文芸部にもちょくちょく顔を出してるじゃない」浦野は指折り羅列した。
「節操なしかよ……。なんでそんなに色々手を付けてんだよ」
「ん? だって、なにが楽しいかはやってみないとわからないじゃない」
浦野は普通に、なんで? みたいに要領を得ない顔をした。
「自分のこともっとよく知りたいもん。どんなことが出来て、どんな事が苦手なのかとかさ。ちゃんと知ってたい」
なぜか鼻息を荒くする浦野。
「よく体力が持つな」精力的なことだと感心する。
「うん! いつも全力全開だよ」
なんでそこまで自分を知りたいのかは理解不能だ。でもこいつがいっつも全開なのは見ていてよく分かる。
「まあ、その点秋島は勉強もスポーツもできるし? 何だって器用にできちゃう人だからねー。この凡人の悩みはわっからないかもねー」
うーんと考え込みながら浦野は納得いかない顔をしている。浦野には俺がなんでもできる超人に見えているらしい。
「そもそも、部活の掛け持ちOKなんて話聞いたこと無いぞ」
「うう……。一年近く、足繁く通ってるのにその仕打ち……」
よよよっとしなを作り、明らかな嘘泣き演技が入る。面倒くさいがフォローした。
「頻繁に部室に顔を出すから他の部員の中ではちょっとした有名人だけどな」
「だよね! じゃあ有名部員ってことでいいよね」
「幽霊部員のことか?」
「なんでそう、揚げ足ばっかとるかなぁ、意地悪だよねぇ」と後ろの机の上に座っていたオテシロに向き直して机の前にしゃがみ込んだ。丁度俺に聞こえるぐらいの絶妙な小声でオテシロに向かって呟く浦野。
オテシロはネチネチと陳情している浦野の顔の前まで近づいて、前足をお腹の内側に畳み込んでペタリと腹ばいに座り込んだ。
「ナー」
なんか慈悲深く聞こえる鳴き声だ。おまえも浦野に甘くない?
「やっぱりオテシロは優しいなぁ。誰かさんとちがって」
浦野はオテシロを激しくモフりながら当てつけがましく言ってきたがスルーした。
人嫌いのオテシロをこうやって触ることができるのは浦野だけのようだった。他の人間に触られているところを見たことがない。それどころか基本的にはあまり接近せず、一定距離を保ってこちらを観察するような猫だ。
そう考えると浦野はオテシロに一番信用されているのかもしれない。
そのためか、浦野はオテシロを操って(操られて?)頻繁に俺にけしかけて来る。
「ね、知ってる? オテシロが今やってる座り方。かわいいでしょー。香箱座りっていうんだよ」
「あぁ、猫ってよくその座り方をしてマッタリしてるな」
「でもね、オテシロって私の前でしかこの座り方しないんだよ?」
「そういや尻つけて座ってるのは見るけど、コイツその座り方しないな」
「へへー、これはね、オテシロの信頼の証なのだよ」と誇らしそうに浦野は言った。
そして妙な沈黙が流れたあと浦野が続けた。
「……秋島は、まだ香箱座りしてもらってないでしょ? オテシロに」
くっ、反撃の糸口を見つけたりって訳か。悔しいけど俺はまだだ……。って、別に悔しくないんだけど? どう座ってもらっても結構。まったくもって構わない。
「そういえばないな」あっさりと回答してやった。
浦野は「ふーん そっかー」と独り言のように呟いて、うーんと伸びをしながら立ち上がった。
「部活といえば、秋島は中学の時はバスケ部だったんでしょ?」
反撃の材料にならないと判断したのか、ガラリと話題を変えてきた。
「ああ。小坊の頃からバスケしてたな。なんで知ってんだ?」
「同中の子に聞いた。強かったって。あと秋島って地区の選抜に選ばれてちょっと有名だったって。それがなんで文芸部?」
嫌な話題になってしまった。これならさっきの香箱座りの話題で手を打っておけばよかった……。
「ね、なんで?」
「……」
考え込んでたら不意に浦野が正面に立っていて、回答に詰まる俺の顔を不思議そうに覗き込んできた。浦野の大きな瞳が一層大きく見えた。
「膝を……、やっちゃったんだよ……」結果的にみれば嘘は言っていない。だけどそれは浦野のまっすぐな目を見て言える回答じゃなかった。
「んんー?」浦野は自分の額に指を当てながら考える素振りをしている。
「それを言うなら、『むかし膝に矢を受けてしまってな……』でしょ?」
やれやれと言いたげなオーバーなアクションをつけながら更に付け足す。
「お約束はちゃんと守んないとダメだよ!」
素で気が付かなかった。
「あ、ああ。わりい……。でも中学最後の試合はそれで出なかった。それで終わりだ」
はやくこの話題を切りたくて、敢えて訂正せずに投げやりに吐き捨ててそのまま流した。
浦野も空気を察したのか「……そっか。変なこと聞いてゴメンね」と話を引いた。
いや、浦野は悪くねーよ。なんだよこの空気。俺、ちっせーなぁ。
背けた視線の先でオテシロと目があった。いつもの無愛想な顔のまま黙って俺を観察していた。わかってるよ。ダサイって言いたいんだろ。
「まぁ、元々小説にも興味あったからな。本は結構読む方だったし。実際にやってみたら大変だけど面白いしな。向いてんのかもな」
兎にも角にも空気を変えたくて強引に別の話題をねじ込んだ。
「へー。私は絶対に無理だなー。宿題の作文とか感想文もネットでコピペする派だったから」察しのいい浦野はすぐに切り替えてくれる。
「そんな派閥は滅びろ。そんなんじゃ社会出てから困るからな?」
「え? でも検索方法とかSNS使って情報収集する作業とか結構手早くなったよ」
「うっ……、なんでそっちのスキルのほうが社会で有用そうなんだよ。なんか間違ってるぞこの世界」
誤魔化せたかな。いつもの調子に戻ったみたいだ。気を使わせて悪い。
でも、俺の中での『捏造』までは誤魔化せずに未消化のまま胸の奥に堆積した。
「今度秋島が文豪になったらなんか奢ってね」
「そんなジョブチェンジみたいに突然なれるもんじゃないからな? 文豪って」
軽い冗談交じりの会話が進む。いつもの感じだ。大丈夫。
「え、でも応募してる賞に当選すれば文豪になるんじゃないの?」
「当選って宝くじかよ……。まあ、当たらずとも遠からずだけどな。あと受賞しても新人のペーペーからスタートだよ。例外もあるけどな」
「ふーん。厳しいんだね。ところで秋島は是迄に何回位投稿したの? これまでの戦績はどう? 何勝何敗?」
あ、なんでこの話に……。
なんで今日に限ってこんな事が続くんだ。
「秋島、すっごく頑張って小説書いてるもんね。普段はやる気のない秋島の真剣な顔が見られるのはココだけだ! みたいな。あ、もう何作も書き上げたんだっけ?」
「……」
返事のない俺を待たずに浦野が続けた。
「んでんで、そこんとこどうなんですか? 秋島センセ」
なんの他意もない。無邪気な質問なんだ。
何気なく自然に答えればいい。
「……書き上げたのは四作だ」
「おー。もうそんなになるんだね。すごいなぁ。あ、で手応えはどうなの?」
「これまでにした投稿は、……ゼロだ」事実を述べた。
「ん、ゼロ? 一度も投稿してないってこと?」驚く浦野は当然ながら「……それは、どして?」と確認してきた。
さっきと同じだ。バスケも大好きだった。もちろん小説も大好きだ……。なのにいつのまにか同じことを繰り返してて、自分自身で大切なものを壊してる。
その理由は言えない。いや浦野にこそ知られたくない。
「……まあ、いいじゃん。趣味なんだから適当にやってるんだよ」
こんな誤魔化した答えしかできない俺は自分が嫌いだ。
「そうなんだ。頑張って書いてるのに。なんかもったいないかも……」
浦野は気を使って言ってくれてる。わかってる。
「いいんだよ。気が向いたら投稿するさ」きっと向くことはないだろう。
「大丈夫大丈夫。秋島ならきっとモノになるって。わたし、こう見えても期待してるんだから!」
それはやめろ……。
「やめろって!」
「えっ……」
突然の拒絶に浦野が固まる。
浦野ごめん。今、俺ちょっとおかしい。
冷静な頭ん中と心の奥のざわつきがぐちゃぐちゃになってて、言葉が検閲されずに出ていっちゃってる。
「あ、いや。……悪い」
「……ううん。平気。こっちこそゴメンね。んと、……どうかした?」
まったく悪くない浦野を謝らせてしまった。それも二度も。
早くフォローしなきゃと考えて口から出たセリフは滅茶苦茶だった。
「どうかしたって……、どうかしてるのは浦野もだろう」
俺は何を言ってるんだ。
「大体浦野だって、何でまだ俺のところに顔を出してるんだよ」
浦野の少し哀しげに顔を落とした。
「ゴメンね……。やっぱり秋島は嫌かな?」
「俺、浦野の考えがわかんねーよ」
一番わけがわからない自分の事を棚に上げて何をいってるんだ。
「だって……、秋島はまだ大きすぎるから」
そう言い残して浦野は部室から出ていってしまった。
何をしてしまったのか理解できずに呆然としながら近くに居たオテシロに目をやると、オテシロは俺とは顔を合わせないまま静かに窓から出ていってしまった。
大きすぎるって何がだよ…… 例のヒャクナナジュウキュウのことか? 俺、身長百六十四センチだぞ。十五センチも足りてないんだぞ。わけがわからん……
告白ですら変えられなかった日常は、意外とこんな予期しない出来事から変わっていってしまうのかもしれない。




