3
次の日、紀夫はまだ薄暗いうちに起き出す。森橋に会うためだ。
紀夫は着替えて近所の公園に赴く。霧が出ていて視界は悪く、空気はひんやりと冷たい。紀夫がベンチに座り、あくびをかみ殺していると森橋は現れた。
全身をジャージで包み、マスクをつけてランニングをしている体格のよい男。それが森橋だった。
紀夫は腰を上げ、通せんぼするように森橋の前に立つ。
「よう」
「長谷……? なんでこんなところに?」
怪訝な顔をする森橋に、紀夫は言った。
「おまえに用があるからに決まってるだろ」
「なら普通に連絡してくれよ……」
森橋は嘆息した。そんなことを言われても、紀夫は森橋の連絡先など知らない。ただ、森橋は毎日早朝にランニングしていて、この公園を通る。そのことを知っていた紀夫は待ち伏せしていたのだ。
紀夫は森橋に直球勝負を仕掛ける。
「輝沢さんと別れるって、本当か?」
森橋は一瞬言葉に詰まったようだが、すぐに答えた。
「……ああ、本当だ」
「なんでだよ? おまえなら、絶対彼女を裏切らないって思ってたのに……!」
いつものおふざけは封印して、紀夫は森橋に詰め寄る。森橋は一言だけ返した。
「俺は、甲子園で優勝したいんだよ。今週末には関東に移る」
「ふざけんな。こっちに残ったって野球はできるだろ。おまえ、去年まで部のみんなを甲子園に連れて行くって言ってたじゃねーか」
冗談交じりではあったのだろうが、去年の春まで森橋は確かに地元の古豪公立に進学して、野球部のみんなで甲子園に行くと話していたのだ。彼女を甲子園に連れて行くストーリーはありがちだが、甲子園に行くために彼女を捨てるなど聞いたことがない。どうして突然県外に行くという話になったのか。
「……甲子園に行くだけと、優勝するのは全然違うんだよ」
険しい顔で森橋は声を絞り出す。
野球王国といわれる四国だが、他の県はともかく香川県ではもはや昔の話だ。夏の甲子園では一回戦敗退の常連で、春の選抜には出場することさえ稀である。夏に一勝すれば大騒ぎといった有様だ。近年だと高商は春の選抜で準優勝したが、これがなければ県全体の甲子園勝率が五割を切る寸前だった。
県内の争いも低レベルである。他県の強豪校に相手にされなかった傭兵を集めた大阪第七代表くらいの私立や、野球より学業の方で有名な公立が優勝候補といわれる。県大会の決勝を見ても、球速150キロを叩き出す高校生が珍しくないこのご時世で、球速130キロ台の投手が味方のエラーを気にしながら投げ合っている。県内でいくらイキっても、全国制覇にはほど遠い。
森橋が投手なら、話は違っていたかもしれない。全国級の投手が一人で投げ抜けば、多少バックが弱くても甲子園優勝は不可能ではない。
しかし森橋は捕手である。第一、いくら森橋が中学軟式では全国クラスの選手とはいえ、中学から硬式野球をやっている本当のトップに混じれば見劣りする。目標を全国優勝に置くなら、県外に行くしか道はない。
「それでも俺だって、最初は県内でやる気だった……。輝沢のこともあったしな。でも……出会っちまったんだよ、才能ってやつに」
森橋を熱心に誘った茨木の高校。そのグラウンドを義理で訪れたはずの森脇は、一人の投手に目を奪われた。
彼は中学のユニフォームを着ていて、一目でここの部員でないとわかった。自分と同じ、この高校を見学に来た中学生である。彼は投手のようで、今から高校生の捕手を座らせてピッチングを披露するようだった。興味を惹かれた森橋は彼──武星孝太郎のピッチングを注視する。
武星は一球を投げ、森橋をうならせた。武星は豪快に振りかぶって腕を振り抜き、これでもかとバックスピンを効かせたボールはビリビリと空気を震わせ直進する。確信を持って言える。森橋の野球人生で、一番速い球だ。森橋と同じ中学生のくせに、140キロ近く出ているのではないか。
年上のはずの捕手は捕球し損ね、後逸してしまったボールを慌てて追いかける。
「……これじゃあ、やつに勝てない。捕手がいないと……」
マウンドの上で武星はぼそりと言った。足はイライラとマウンドを掘り、不機嫌そうに口を真一文字に結んでいる。
森橋の隣に立っていた監督が教えてくれた。
「あいつはシニアで同じ地区にいい投手がいてな、ずっと勝てないでいたんだ」
シニアというのは中学生の硬式野球リーグのことだ。中学の部活である軟式野球よりずっとレベルは高い。武星は勝てなかった悔しさを高校では晴らしたいのだろうが、確かに捕手があの調子では望み薄だった。パスボールだらけでは試合にならない。
「……俺に捕らせてください」
監督に一言断り森橋はミットをはめ、武星の前に出る。武星も森橋が同じ中学生であるとすぐに気付く。武星は森橋を値踏みするように森橋を見て、言った。
「やめとけ、怪我するぞ」
若干野太い声の武星は挑発的な笑みを浮かべる。森橋は「やってみなくちゃ、わからないだろ」と伝え、ミットを構えてしゃがんだ。
武星は先程と同じように手加減なしで、思い切りよくストレートを投げた。投げた瞬間にミットに飛び込んでいるのではないかというスピードだ。森橋はほとんど反射でボールをミットに収める。
ミットごと体を貫かれたかのような衝撃が森橋を襲った。手が痺れて、ボールを取り落としそうになるのを堪える。零コンマ一秒遅れてスパン! という小気味よい捕球音が響いた。こんな球を捕ったことは一度もなかった。左手に広がる腫れたような痛みが心地よい。
森橋は手の痛みに耐えつつ腰を上げ、返球しようとする。顔を上げると、武星は満面の笑みを浮かべていた。武星は森橋のところまで駆け寄り、拳を握って森橋の胸を叩く。
「凄いじゃねぇか! おまえとなら全国優勝も夢じゃないな!」
「いや、俺は……」
森橋は口籠もるが、武星は気にする様子もなくさらに尋ねる。
「おまえ、打撃はどうなんだ? 俺は打撃も行ける」
森橋が反応する前に、監督が答えた。
「軟式だが中学通算4割を打ってるぞ。ホームランを量産できるパワーはないが、パンチ力はある。シュアなバッティングがウリの中距離砲だ」
なぜ知っているのだと森橋は驚く。ヘリコプターをチャーターしてわざわざ森橋を見に来た件といい、この監督はなぜそこまで森橋にこだわるのだろう。
「やっぱりやるからには頂点を目指さないとな! 俺は150キロを投げる! おまえはそれを捕ってくれ! 俺は四番で50本打つ! おまえは三番でヒットを打ちまくってくれ! そうしたら絶対、甲子園で優勝できる!」
武星は無邪気に一人で盛り上がる。全くふざけている様子はなかった。森橋はあきれたが、同時に自分の中に芽生えていた気持ちに気付く。
(俺には……足りてない)
武星は全国制覇という途方もない目標に向けて、具体的にビジョンを描いている。監督にしても、ここまで森橋を熱心に勧誘するのは勝つためだろう。
森橋は目の前ではしゃぐこの男のように、本気で勝利を目指していなかった。漠然と高校でも野球を続けようと思っていただけだ。森橋は自分が深いところでは本気でなかったと痛感する。
武星に感化されたわけではないが、勝ちたいという思いが森橋の中で湧き上がってくる。武星となら、本気で全国を目指せるのではないか。地元でやりたい気持ちもあるが、勝ちたいという本能にはあがなえない。
地元に帰って一週間後、森橋は監督に入学する旨を伝えた。
「……おまえ、自分が何言ってるのかわかってるのか? 輝沢さんだけじゃなくて、うちの野球部のやつら全員使えないから切り捨てるって言ってるんだぞ?」
紀夫の指摘に、森橋は握った拳を震わせながらうつむく。
「わかってるさ……! 俺だって悩んだよ……! でもあいつら、自分らはいいからおまえは行けって……!」
こちらに戻った森橋は、まず野球部の皆に相談した。野球部の皆は戸惑う様子を見せながらも、「俺らのことは気にせず行け。おまえなら甲子園優勝できる」と森橋の背中を押したのだった。
「ここでやめたら、俺はあいつらの気持ちを踏みにじったことになってしまう……! 長谷、おまえならわかってくれるだろ!? おまえ、いつも恋愛よりも大事なことがあるって言ってたし……!」
紀夫の肩に手を掛け、哀願するように森橋は言う。紀夫の僻みを真に受けてすがるほどに、森橋は追い詰められているのだった。
「俺じゃなくて輝沢さんにわかってもらえよ……」
紀夫はそう言うので精一杯だった。