9話 絶景
「じゃあ、ゆっくり潜水するので、焦らず浮力を抜いてね」
それから二時間後、ぼくは海面にぽっかりと浮いていた。
ここまですんなりと事が運んだ。
ご飯を食べ終えた後、ぼく、小泊さん、池崎さん、お父さんはダイビングショップに移動して、水着に着替え、真知さんからダイビングの基礎的なレクチャーを受けた。
そして書類にサインをし、ウエットスーツを身につけ、重たい重りを腰に巻き、ダイビング用の機材を身につけ、近くの浜まで歩いて足ひれを履き、水中眼鏡を装着して透き通った海の中にゆっくりと入った。
もちろん一つ一つの過程で色々なことがあった。お父さんが太りすぎていてウエットスーツ(保温のためにかなりきついサイズを着るんだ)がなかなか入らず苦戦したり、小泊さんがぼくと同学年なのにもうダイビングのライセンスを持っていることに驚いたり、池崎さんが楽しそうにみんなの様子をスマホのカメラで撮ったりしていた。
ジュニアサイズのウエットスーツを頑張って着てから飲んだ冷たい麦茶はびっくりするくらい美味しかったし、人生で初めて担いだ空気ボンベは足がふらつくほど重かったし、ダイビングショップから浜まで歩いているだけで汗だくになったけど、海に入ったら感動するくらい一気に涼しくなった。
それは全部、覚えているけど、体感的にはあっという間で、現実的にぼくは今、海の上で頼りなく漂っている。
浜から二十メートルくらいの沖合。ぼくの隣には赤くて丸いブイが波に揺れながら浮かんでいて、目の前にはダイビング装備をフルで身につけた真知さんがいた。
真知さんはダイビングショップのオーナーだけど、同時にダイビングのインストラクターの資格も持っていた。
水中眼鏡越しに見るその目が優しく笑っている。
「どう? いけそう?」
そう尋ねられ、
「はい。たぶん」
そんな言葉を返したけど、心の中にはじんわりと不安が広がっていた。ぼくはBCジャケットという大きなベストのようなものを着ていてそこに現在、空気が詰まっている。
手元にある排気ボタンを押すとBCジャケットから空気が抜けて、腰に巻いたウエイトの重みで自然と身体が水の中に沈んでいくという仕組みだ。
よくできている。
とは、思う。問題はぼくが口にくわえているレギュレーターというものだった。
これが空気タンクにつながっていて空気を送り込んでくれる。これを口にくわえている限り、絶対に呼吸ができなくなることはない、と説明は受けた。
でも、絶対ってほんとう?
ぼくは海の下を覗き込む。一緒にここまで泳いできたお父さんも池崎さんもさっさと海の底に沈んでいってしまった。
ほんとうに水の中で息ができるの?
もちろんさっき陸の上では試した時にはちゃんと口の中に酸素が流れ込んできたような気がしたけど……。
その時。
「流時くん」
真知さんの後ろから同じく水中眼鏡をかけ、完全装備になった小泊さんが近づいてきた。
すうっとキレイな動きで水を掻き分けてくる。
「だいじょうぶ?」
ふと真知さんが笑った。
「美津亜。流時くんのことはあなたに任せる」
そしてひらひらと手を振るとBCジャケットとホースでつながったインフレーターと呼ばれる部分を片手で掲げ、排気のボタンを押した。
すると水面から浮き出ていた真知さんの肩から上の部分がみるみるうちに水面下に消えていった。
きっとぼくを安心させるためのデモンストレーションだったのだろう。
小泊さんは心配げに、
「どうしても怖かったら陸に戻ってもいいからね?」
そう伝えてくる。
今、海の上にはぼくと小泊さんだけだ。
そして。
その言葉でぼくは覚悟を決めた。
「だいじょうぶ」
強く答える。
「やる」
なぜだか小泊さんの前でビビっている姿はあまり見せたくなかった。
そして今、まさに真知さんがやったような動作で片手を上げて排気ボタンを押した。正直なところ身体ががくん、と沈み始めた時はどきりとしたし、顔が水の中に浸かっていく時は全身がこわばるくらい緊張した。
でも。
「――」
ぼくは水の中で息ができた。
ちゃんとできた!
青く透明な水の中で目の前をひらめくように泳ぐ小魚たちがはっきりと見える。そのとたん怖いという感情が全部、興奮に切り替わった。
どんどんと沈んでいく足下を見ると先に潜っていたお父さんや池崎さん、真知さんたちが海底からこちらを見上げて拍手をしているのが見えた。
三人とも水中眼鏡にレギュレーターをくわえているので顔が全然、見えなかったけど不思議と誰が誰だかはっきりと分かった。
上を見ると。
「!」
小泊さんもぼくを追いかけてゆっくりと危なげなく沈んできている。こちらに向かってOKサインを作って合図を送るくらいの余裕があった。
ぼくはレギュレーターをくわえながら精一杯笑顔を作り、サインを送り返した。
文字通り見たことのない世界に飛び込むことができたのは小泊さんのおかげだと思った。
ぼくがやったのはあくまで体験ダイビングだったので、海の中にいたのは全体で三十分にも満たなかった。五メートルくらいの深さの海の底を真知さんの先導でゆっくりと移動し、小さな海の生き物を観察したり、集合して水中カメラで写真を撮ってもらったりしたら、あっという間に時間が過ぎてしまった。
その後は陸に上がり、使わせてもらった機材の後始末を手伝い、シャワーを浴びて、着替え、ショップ内のテーブルコーナーで冷えた麦茶を飲みながら『ログつけ』というのをした。
『ログつけ』というのはダイビング後に海の状態や潜った深さ、観察した生き物などをインストラクターさんから教わって専用のログブックに記録していく作業だ。
これによって自分のダイビングスキルが向上するのでかなり大事なことらしい。
ぼくやお父さん、池崎さんはログブックを持っていないので、真知さんからもらった体験用の用紙に情報を書き込んでいったけど、小泊さんはちゃんと自分専用のログブックを持っていた。
表紙をお魚や珊瑚のシールでデコっている。気になったので『ログつけ』が終了した後、中身を見せてもらったらキレイな字で丁寧に過去の潜水記録が書いてあった。
本数を数えたらゆうに百回を超えていた。
道理で海の中で落ち着いている訳だ。
それぞれのページには文章の他に小泊さんが自分で描いた魚やイソギンチャク、それにウミガメのイラストなんかもあった。
「いいなあ。ここら辺、ウミガメも見れるのか」
「わりとよく」
と、小泊さん。
「いいなあ」
ぼくは繰り返した。
潜る前はどきどきしたけど、今ではすっかりダイビングというものが気に入っている自分がいた。本当はもっと青い海の中にいたかったくらいだ。
「ぼくも大きくなったらライセンス欲しいなあ」
そう呟いたら、
「とるとよい」
真顔で小泊さんが答えた。
「ここで」
なるほど。
確かにここはダイビングショップなのでライセンスを取ることもできるみたいだ。いつかまたもう一度、この島を訪れたら、その時は小泊さんが教えてくれるんだろうか?
さすがに無理か。
いや、お互い大人になっていたらそれも無理ではないのか。
そんなことを考えていたら、
「美津亜。今日の夕ご飯は池崎さんたちとバーベキューを予定してるんだけど、足りない食材が幾つかあるの。スーパー戸車に行ってピックアップしてくれない? 連絡はしてるから」
真知さんから声をかけられた。
ちなみにお父さんと池崎さんは近くのブリュワリー(ビールを造っているところ)でできたてのビールが飲めると聞いてログつけを終えるとそそくさと二人でそちらに向かってしまった。
小泊さんは黙って頷いていた。
真知さんは微笑み、
「あと自転車で行くなら、ちょっと足を伸ばして流時くんを鷹羽岬〔たかばみさき〕に連れていってあげたら?」
ちらっと壁時計を見上げて言った。
「今ならちょうどよい時刻だと思うから」
小泊さんはまたもう一度、頷く。
ぼくは首を傾げた。
(時刻? 一体、なにがあるんだろう?)
いつの間にか夕方近くなっているけど。
「流時くん。いこう。ええもん、みせたる」
なぜか関西弁のおじさんのような口調になって小泊さんが歩き出す。
「う、うん」
ぼくもそれについていった。
一度、宿まで戻り、自転車に乗ってぼくたちは島の中を走り出した。どういう訳か小泊さんは行き先を教えてくれず、にやっと笑って一度こちらを振り返っただけでそのまま黙ってペダルを漕ぎ続けている。
途中、『スーパー戸車』と看板が出ている建物の横を通り抜けたけど、小泊さんは停まる気配を一切、見せなかった。
店先はかなり賑わっている。
スーパーなのに店先には大きくてカラフルな浮き輪やシュノーケリングの道具などが売られているのがいかにも夏の離島らしかった。
ぼくらは緑豊かな集落の中を、狭い路地を縫い、苔むしたブロック塀の角を曲がり、急な坂を上がったり、降りたりした。
そんな風に自転車を走らせていると、池崎さんと交わした会話の内容が自然と頭に思い浮かぶ。
(やっぱりこうしてみるとこの島も空き家がけっこう多いんだな)
道の左右には戸板で入り口が塞がれた家や草で覆われた施設も多かった。それと歩いている人たちもぱっと見、地元の人というより観光客っぽい人たちの方が目立った。
そしてそんな人影もまばらになり、家屋が見えなくなり、坂道を息が切れるくらい登り切った後、小泊さんは自転車を止め、
「しゅうてん」
そう言ってこちらを振り返った。今、自分がどこにいるのか全く分からなかったけど、海に近いということはなんとなく風の匂いで分かった。あとだいぶ、島の中で高い位置にいる。
ぼくは自転車のスタンドを立てると小泊さんの後を追いかけて木製の階段を駆け上がった。小泊さんはまるで体重がないみたいに軽やかに登っていく。ぼくはちょっとへばっていた。
電動自転車だったけど、ここに来るまで結構、頑張ってペダルを漕いだんだ。
汗が滲んでいる。
まだまだ蒸し暑い。
(いったい、ここになにがあるんだ……)
そう思い、階段の頂上まで登り切った瞬間、ぼくはオレンジと赤の入り交じった強烈な光に包み込まれた。
「じゃあん」
小泊さんが振り返って、手を広げた。
風がざあっと吹いてきて、ぼくはよろめいた。
いや、吹きつける風にというより、単に目の前に広がる空と海の圧倒的なスケールに打ちのめされただけなのかもしれない。
それだけ天はどこまでも広く、ちぎれたように散らばる雲はあかね色に染まってゆっくりと流れていた。海は夕日の光を照り返し、無数の赤と青の宝石が入り交じったかのように煌めいている。
そしてなにより太陽。
太陽にこんなに迫力と存在感というものがあるのをぼくは知らなかった。
日中だったら目が焼けてしまう輝きが、大海原に沈みかかり、消えかかることによって人の気持ちをしんみりと落ち着かせる美しい光となっている。
「……すご」
それ以外の言葉が全く出てこずぼくは呆然と木製の手すりを握りしめたまま、身を乗り出し夕焼けを見ていた。
「この展望台は島最強の夕日映えスポットなんだよ」
横に並んだ小泊さんが小さく、囁くように言った。
「今日は見に来ている人も少なくてラッキーだったね」
その時点でぼくはようやく目の前の絶景ではなく周囲を見回してみた。言われてみれば二十五メートルプールほどのウッドデッキには家族連れとカップルとものすごく本格的な一眼レフのカメラを構えた男の人がいた。
みんなうっとりと、あるいは食い入るように落ちかかる夕日を眺めていた。
小泊さんがこちらを向いて悪戯っぽく言った。
「で、どう? 感想は?」
ぼくは迷った。
どう答えてよいか迷った末、頭の中で浮かんだ一番、素直な言葉を述べた。
「ありがとう」
「え?」
「どう言っていいか分からないけど……」
小泊さんの目を真っ直ぐ見て言う。
「連れてきてくれてありがとう。ここだけじゃなくこの島の色々を」
「!」
小泊さんはちょっと驚いた風だった。それから照れたように瞳を左右に落ち着きなく動かし、うつむき、最後に〝それでいいよ〟というようにこちらを見ずにOKサインを作った。
ぼくは笑った。
それからこの景色を少しでもみんなと共有したくてスマホを取り出し、カメラを構えた。その時、LINEにメッセージが届いていることに気がつく。
開いてみるとそれはお母さんからで、色々と書いてあるけど要約すると、
『島にいる間に進学の件、心を決めてね』
という念押しだった。ぼくは一瞬、顔を強ばらせてしまい、その表情を小泊さんにばっちりと見られてしまった。
「……どうしたの?」
小泊さんが尋ねてくる。強烈な夕日を浴びて、小泊さんの影が長くウッドデッキに伸びている。ぼくはその影を見ながら迷い、
「えっと」
でも、正直に言うことにした。
「お母さんからLINEが来た。実はぼく、小さい頃、あまり都心での生活に適応できなくて、お父さんの田舎でお父さんとずっと暮らしていた。でも、お母さんから成長してそういった問題も克服したんだし、夏を過ぎたらこっちに来ないかって誘われている。中学進学を考えると都内で塾とかに通った方が有利だって」
「……」
「あ、両親は別に離婚してる訳でも、仲が悪いわけでもないんだけど、普段は別々に暮らしているんだ。妹はお母さん。ぼくはお父さん。お母さんは仕事の関係。お父さんは単に田舎が好きだからって言ってるけど、それはもしかしたら問題があったぼくのために選択していたことなのかもしれない」
「……」
小泊さんはちょっと薄目になって言った。
「やっぱり都会のお坊ちゃまじゃん。ぜーたくな悩み」
「う」
小泊さんの言い方はからかっているようでもあり、軽く非難しているようでもあり、あるいはうらやましがっているようにも聞こえた。
ぼくはなんとなくそんな小泊さんの反応を予想していたのかもしれない。
小泊さんはふと優しい口調になって聞いてきた。
「で、流時くんはどうしたいの?」
「まだ迷っている。ぼくだけの問題じゃなくお父さんも、もしかしてずっと家族で暮らしたかったのかなって考えることもあるんだ。ぼくのせいで田舎にいたのかも」
「いいなあ」
ふいに小泊さんは手すりに身を乗り出すような体勢で、もうほとんど沈みかかっている夕日に向き直った。
「わたしね、パパもママも死んじゃってるから。わたしが物心つく前に。船の事故で」
「……」
「真知ちゃんとおばあちゃんに育ててもらっている。あのダイビングショップは元々、パパとママがやっていた。ママの名前なんだよ、早希〔さき〕って。大きくなったらわたしが継ぐつもり。だから、わたしはこの島を出ない」
「そうなんだ……」
「なんとなく分かっていた?」
小泊さんがこちらを見てどこか寂しそうに笑った。
ぼくは黙って頷いた。
「聞かないでいてくれてありがとう。でも、聞いてもよかったんだよ。記憶がないんだから。だから、哀しくも、辛くも今はもうあまりない」
言葉が上手く出てこない。表情がぎこちなくなっていたかもしれない。
お父さんやお母さんがいない小泊さんからすれば両親も揃っていて、どちらともその気になればすぐに会えるのに住む場所くらいで悩んでいるぼくは本当に『都会のお坊ちゃま』に見えるんだろう。
「小泊さんは」
なにか言いかけたら、
「ずっと気になっていた」
手の平を目の前に突き出され、遮られた。小泊さんは悪戯っぽく笑っている。
「わたしと親しい人はみんなわたしのこと美津亜〔みつあ〕って呼ぶ。流時くんもこれからはそうして?」
「え?」
ぼくは戸惑った。
ドキドキしながら、
「いや、でも……ぼく、学校でも下の名前で女の子を呼んだことなんかないんだけど」
「それならなおいい」
「え? なにが?」
「ほら」
促されて、
「み、みつあ……美津亜ちゃん」
それが精一杯だった。小泊さんは満足そうに頷いた。それから身をひるがえして、
「そろそろ戻ろう。スーパーで食材買わないと。食事が遅れちゃう」
「う、うん」
ぼくは階段を降り始めた小泊……美津亜ちゃんの後を追いかけた。
それからほとんど無意識に呟いた。
「……ぼくたちはそれくらい親しくなっているのかな?」
下の名前で呼び合うくらいに。そして自分でそんなことを口にした自分に驚いた。すると美津亜ちゃんはいったん立ち止まり、こちらを振り返って、
「さあ?」
にたり、と笑ってまた階段を元気よく駆け下りていった。
美津亜ちゃんにはドキドキさせられることが多いけど。
今回はそのドキドキが随分と長引いた。




