離縁前夜、十年前の夫が戻ってきました。けれど私はもう、あなたを待っていません
離縁届の最後の一行に、自分の名を書いた。
エレナ・ヴァイスベルク。
その名で署名するのは、たぶんこれが最後になる。
ペン先を置くと、向かいに座っていた夫が静かに息を吐いた。
ルシアン・ヴァイスベルク侯爵。
十年前、私が嫁いだ相手。
そして明日、私の夫ではなくなる人。
「これで、すべて整ったな」
ルシアンは、いつものように穏やかな声で言った。
感情の揺れは、ほとんど見えない。
別に驚くことではない。
この人は十年間、私に対してずっとそうだった。
怒鳴らない。
責めない。
けれど、近づきもしない。
屋敷の中で同じ姓を名乗りながら、私たちは長いあいだ、丁寧な他人として暮らしてきた。
「ええ」
私は署名済みの書類を重ねた。
「明日の朝、法務院へ提出すれば離縁は成立します」
「屋敷を出るのは、三日後だったな」
「はい。南の離れに荷物はまとめてあります」
南の離れ。
それは、ヴァイスベルク侯爵家の敷地内にある古い客棟だった。
もともとは遠方から来た親族を泊めるための建物で、今は半分ほど空いている。
私は三日後、そこから馬車に乗り、ラングレー子爵家へ戻る。
十年前に出てきた実家へ。
ただし、戻ると言っても、あの家に娘として居場所が残っているわけではない。
父はもう亡く、弟が家を継いでいる。
私は離縁した姉として、しばらく西の小領地にある別邸で暮らす予定だった。
「必要なものがあれば、持っていくといい」
ルシアンは言った。
「君には、この家に尽くしてもらった」
「ありがとうございます」
「それから」
彼は少しだけ言葉を探した。
「十年、長く拘束した」
「はい」
私は頷いた。
その返事が予想より短かったのか、ルシアンがわずかに眉を動かす。
「怒っているのか」
「いいえ」
「では」
「疲れただけです」
そう言うと、部屋が静かになった。
ここはヴァイスベルク侯爵邸の西執務室。
離縁手続きの確認のため、今夜は法務院の書記官と侯爵家の家令も同席していた。
けれど二人は、署名が終わった時点で隣室へ下がっている。
今この部屋にいるのは、私とルシアンだけだった。
「エレナ」
彼は少し低い声で私の名を呼ぶ。
「三年前には、まだ離縁を急がないと言ったはずだ」
「急いでいません」
私は答えた。
「三年の約束が、十年になりました」
「事情があった」
「存じております」
義母が倒れた。
侯爵家の親族が相続に口を出した。
北の荘園で訴えが起きた。
王都での役目が増えた。
そのたびに、ルシアンは離縁を先延ばしにした。
そのたびに、私は待った。
病床の義母が「あなたがいてくれて助かるわ」と言ったから。
家令が「奥様がいらっしゃれば屋敷が荒れません」と頭を下げたから。
使用人たちが私の前では少しだけ安心した顔をしたから。
そして、どこかでまだ、三年後に自由になるという約束を信じていたから。
「ですが、事情はいつもありました」
私は静かに言った。
「この家にも、あなたにも」
「……」
「私にも、ありました」
ルシアンは黙った。
それでよかった。
今さら何かを言ってほしかったわけではない。
十年前の初夜。
この人は私に言った。
「君を愛することはない。三年後、互いに自由になろう」
私はその言葉を、十年覚えていた。
忘れられるわけがなかった。
白い寝台。
灯りを落とした部屋。
緊張していた私の手。
それに触れもしないまま、ルシアンが告げた声。
その夜から、私たちの寝室は別になった。
夫婦としての形は整えた。
けれど、夫婦ではなかった。
契約で結ばれた、同じ屋敷に住む二人。
それだけだった。
「私は明日、あなたを自由にします」
私は書類を封筒へ入れた。
「ですから私も、自由になります」
「そうか」
ルシアンは短く答えた。
その横顔は、やはり静かだった。
この人は、最後まで静かなのだと思った。
私が十年待つ間も。
待つことをやめる時も。
きっと、この人の中では大きな音など鳴っていない。
「今夜はもう休みます」
私は立ち上がった。
「明朝、法務院へ出す前に確認があれば、家令へお伝えください」
「君は」
「はい」
「本当に、それでいいのか」
不思議な問いだった。
まるで、決めたのが私だけであるかのようだったから。
「ルシアン様」
私は十年ぶりに、夫ではなく、結婚前のように彼の名へ敬称をつけた。
ルシアンの目が少しだけ揺れる。
「私はもう、あなたを待っていません」
それだけ言って、私は部屋を出た。
背後で椅子がわずかに軋む音がした。
振り返らなかった。
今振り返れば、また十年前の自分が顔を出してしまいそうだったから。
事故の知らせが来たのは、その夜の半刻後だった。
自室で髪をほどき、荷造りの最後の箱を閉じたところで、廊下から慌ただしい足音が聞こえた。
扉を叩いたのは家令のオスカーだった。
六十を過ぎた彼が、ここまで顔色を失っているのを見るのは初めてだった。
「奥様」
「どうしました」
「旦那様の馬車が、北門の手前で横転いたしました」
「……ルシアン様が?」
「意識がおありになりません」
私は一瞬、言葉を失った。
離縁届はまだ法務院へ出していない。
つまり私は、今この瞬間もヴァイスベルク侯爵夫人だった。
そして夫が倒れたなら、呼ばれるのは私だった。
「医師は」
「宮廷医師へ使いを出しております。旦那様はすでに寝室へ」
「分かりました」
私は外套を羽織り、廊下へ出た。
足が冷たい。
驚いているのだと、少し遅れて気づいた。
怒りでも悲しみでもなく、ただ強い衝撃が身体の奥に落ちている。
十年間近づかなかった夫の寝室へ、こんな形で入ることになるとは思わなかった。
ルシアンは寝台に横たわっていた。
額に包帯。
頬に薄い傷。
呼吸はある。
けれど顔色は悪い。
私は寝台の横に立ち、しばらく彼の顔を見下ろしていた。
この人は、こんなに疲れた顔をしていただろうか。
それとも、私は十年間、この人の顔をろくに見ていなかったのだろうか。
宮廷医師が到着したのは、夜更け近くになってからだった。
診察は長かった。
その間、私は部屋の隅で待った。
妻として。
まだ妻である者として。
やがて医師は顔を上げ、慎重に言った。
「命に別状はないでしょう」
「そうですか」
「ただし、頭を強く打っております。目覚めたあと、しばらく混乱が残るかもしれません」
「記憶に影響が?」
「その可能性はあります」
私は頷いた。
そういうこともあるのだろうと思った。
遠い話のようだった。
けれど翌朝。
ルシアンが目を覚ました瞬間、その遠い話は、私の目の前で形になった。
「……エレナ?」
彼は、十年前の声で私を呼んだ。
私は息を止めた。
声そのものは同じだ。
でも、呼び方が違う。
侯爵夫人への呼びかけでも、契約上の妻への確認でもない。
もっと若く、もっと近い。
まだ何も壊れていなかったころの声だった。
「はい」
私は慎重に返事をした。
「ルシアン様、どこまで覚えていらっしゃいますか」
彼は瞬きをして、天井を見た。
それから、ゆっくりと私へ視線を戻す。
「結婚式は、明日だろう?」
部屋の空気が止まった。
家令が息を呑む。
医師が小さく目を伏せる。
私は、なぜか少し笑いそうになった。
あまりにも残酷で。
あまりにも都合よくて。
こんなことが本当にあるのかと思った。
「今日は、いつだと思っていらっしゃいますか」
「春の十九日」
彼は当然のように答えた。
「君がラングレー家から、この屋敷へ来て三日目だ。明日、僕たちは結婚する」
十年前。
正確だった。
ルシアンの記憶は、十年前の結婚式前日に戻っていた。
「なぜ、そんな顔をしている」
彼は眉を寄せる。
「エレナ。君は……少し、大人びたように見える」
それはそうだろう。
十年経っているのだから。
「ルシアン様」
「うん」
「私たちは、もう結婚しています」
「え?」
「十年前に」
彼の顔から、ゆっくりと血の気が引いた。
私は続けた。
「そして昨日、離縁届に署名しました」
「離縁……?」
ルシアンが、聞き慣れない異国の言葉でも聞いたような顔をした。
「なぜ」
「十年前、あなたがそうおっしゃったからです」
「僕が?」
「はい」
私は静かに告げた。
「君を愛することはない。三年後、互いに自由になろう、と」
「そんなことを」
彼は寝台の上で身を起こそうとした。
医師が止める。
ルシアンはそれをほとんど聞かず、私を見た。
「僕が、君にそんなことを言ったのか」
「はい」
「嘘だ」
「嘘なら、よかったですね」
自分の声が思ったより冷えていて、私は少し驚いた。
でも訂正はしなかった。
この人が覚えていないからといって、私の十年が消えるわけではない。
「エレナ」
彼は痛ましい顔をした。
「僕は、君を嫌ってなどいない」
「存じております」
「違う。そういう意味ではなく」
ルシアンは苦しそうに額へ手を当てた。
「僕は、君と結婚するのを楽しみにしていたはずだ」
「そうですか」
「冷たい言い方をしないでくれ」
「では、どう言えばよろしいのでしょう」
私は寝台の横へ一歩近づいた。
「あなたは十年前のあなたです。けれど私は、十年後の私です」
「……」
「あなたが覚えていない十年を、私は生きました」
ルシアンは何も言えなかった。
私はその沈黙に、十年前なら傷ついたかもしれないと思った。
今は違う。
もう傷つく場所が、だいぶ少なくなっている。
医師は、数日の安静と観察が必要だと言った。
記憶が戻るかどうかは分からない。
急に戻ることもあれば、少しずつ戻ることもある。
まったく戻らない可能性もあるらしい。
法務院への離縁届提出は、家令と相談のうえ、いったん保留になった。
署名は済んでいる。
提出すれば成立する。
けれど、当主が事故直後で記憶を失っているとなれば、侯爵家の親族が後から無効を主張する余地が残る。
面倒は避けたい。
それが家令の判断だった。
「奥様には、もう数日だけご負担を」
家令は深く頭を下げた。
私はしばらくその白髪を見ていた。
この人にも世話になった。
この人は、私がいなければ屋敷が困ると何度も言った。
けれど、私自身が困っているとはあまり言わなかった。
「七日です」
私は言った。
「七日だけ、夫人として残ります」
「奥様」
「そのあとは、記憶が戻っても戻らなくても、法務院へ提出してください」
家令は顔を上げた。
私ははっきりと続けた。
「私はもう、待ちません」
十年前のルシアンは、ひどく優しかった。
それが一番困った。
冷たい夫より、ずっと困った。
「エレナ、歩くのが早い」
回廊で追いついてきたルシアンが、少し息を切らして言った。
医師からは短い歩行だけ許されている。
それなのに彼は、屋敷の中を知ろうとして動きたがった。
十年分の空白が不安なのだろう。
私はその案内役にされた。
七日だけの夫人として。
「十年も屋敷におりますので」
「それは、そうだけれど」
「無理をなさると、医師に叱られます」
「君にも叱られている気がする」
「叱っております」
私がそう答えると、彼は少しだけ笑った。
若い笑い方だった。
十年前、結婚式前の控え室で一度だけ見た笑み。
あの時の私は、その笑みをとても大事に思った。
この人となら、たとえ契約結婚でも、穏やかにやっていけるかもしれないと。
翌日の夜に、その期待は折られたけれど。
「ここは、母上の部屋だったのか」
ルシアンが立ち止まったのは、東棟の端だった。
扉の前には、淡い花の刺繍が入った小さな布飾りがかかっている。
義母が好きだったものだ。
「はい」
「母上は、まだ」
彼はそこで止まった。
私の表情を見て、察したのだろう。
「亡くなりました」
私は答えた。
「六年前です」
「そうか」
ルシアンの顔が歪んだ。
彼の中では、母はまだ病がちだが生きている人なのだ。
けれど私にとっては、六年前に看取った人だった。
「君が、看てくれたのか」
「使用人たちと一緒に」
「僕は」
「王都と北領を行き来していらっしゃいました」
「最期には」
「間に合いませんでした」
ルシアンは壁に手をついた。
私はそれを支えなかった。
医師からは支えるよう言われていた。
けれど今、手を伸ばせば、十年前の自分がまた勘違いする気がした。
「母上は、苦しんだか」
「最後は穏やかでした」
「何か、言っていたか」
「はい」
私は扉を開けた。
部屋の中は、もう使われていない。
それでも毎週、風を通している。
白い寝台も、窓辺の椅子も、義母が好きだった薄紫の花瓶も、そのまま残してある。
「この部屋を、まだ」
「ご本人の希望でしたので」
「君が守ってくれたのか」
「部屋を残しただけです」
「それを、守ると言うんだ」
ルシアンはそう言った。
私は返事をしなかった。
今の彼は、私が十年間欲しかった言葉を簡単に言う。
それが腹立たしかった。
優しいから。
あまりにも優しいから。
窓辺の引き出しを開けると、古い封書が入っている。
私はその一通を彼に渡した。
「これは」
「お義母様が、あなたへ遺された手紙です」
「僕へ?」
「はい。ですが、あなたは当時、読めませんでした」
「なぜ」
「読まないとおっしゃったからです」
ルシアンの手が止まった。
「母上の手紙を?」
「はい」
「なぜ、僕はそんな」
「お辛かったのだと思います」
私は少しだけ目を伏せた。
「それでも、読まないと決めたのはあなたです」
「君は」
「読みました」
「母上が、君にも?」
「はい」
義母は最後の月、手紙を三通書いた。
ルシアンへ。
侯爵家の家令へ。
そして私へ。
「私への手紙には、この家を頼むとは書かれていませんでした」
私は静かに言った。
「あなたの人生を、家の代わりにしてはいけない、と書いてありました」
「母上が」
「はい」
私は引き出しを閉じた。
「でも、私はその言葉を守れませんでした」
十年。
私はこの家にいた。
侯爵夫人として。
契約上の妻として。
愛されないと分かっていても、この家が壊れないように動いた。
そうしているうちに、自分の人生をどこに置いたのか分からなくなった。
「エレナ」
ルシアンが私の名を呼ぶ。
「僕は、本当に君を何も見ていなかったのか」
「そうですね」
「……そこは、否定してくれないのか」
「否定できる材料がございません」
彼は苦しそうに笑った。
笑って、それから目を伏せた。
その横顔を見て、胸の奥が少し痛んだ。
私はまだ、この人を完全には嫌いになれていない。
それが一番厄介だった。
三日目、ルシアンは庭へ出た。
医師は短時間ならと許可した。
私は断ろうとしたが、家令が深く頭を下げたので仕方なく付き添った。
庭は春だった。
十年前も、春だった。
結婚式の前日、私はこの庭でルシアンと少しだけ歩いたことがある。
「この白薔薇は、まだあるんだな」
彼が言った。
私は庭の奥を見る。
白薔薇の小道。
義母が好きで、けれど一時期枯れかけた場所だった。
今は低い柵に沿って、静かに咲いている。
「一度、駄目になりかけました」
「そうなのか」
「お義母様が亡くなられた年に」
「……」
「庭師たちは、手が回らないと言っていました。親族の方々は、葬儀が終わったのだから古い花は整理した方がよいと」
「君が残したのか」
「はい」
「なぜ」
「あなたが好きだと、昔おっしゃったからです」
ルシアンが足を止めた。
私は自分で言ってから、余計なことを言ったと気づいた。
十年前の庭。
彼は白薔薇を見て、母が好きな花だと言った。
それから、小さく付け加えた。
僕も嫌いではない、と。
たったそれだけの言葉を、私は十年覚えていた。
あまりにも愚かだと思う。
でも、そういう小さな言葉で人は待ててしまう。
「エレナ」
ルシアンの声がかすれた。
「君は、僕を愛していたのか」
その問いは、少し遅すぎた。
十年遅い。
「はい」
私は答えた。
ルシアンの顔が歪む。
「では」
「過去形です」
「……」
「たぶん、私はあなたを愛していました」
白薔薇の香りが、風に混じる。
春の柔らかい匂い。
それがこんなに苦いものだと、十年前の私は知らなかった。
「でも、愛している人から『愛することはない』と言われて、それでも十年待てるほど、私は強くありませんでした」
「僕は」
「今のあなたは、言っていないでしょう」
私は彼を見る。
「でも、私が聞いたのは今のあなたではありません」
「それでも、僕は」
「記憶を失ったあなたに優しくされても、十年間の私は救われません」
彼は黙った。
私は、ようやく言えたと思った。
ずっと言えなかったこと。
この人が悪人ではないからこそ、言いにくかったこと。
「あなたは優しいです」
私は続けた。
「十年前のあなたは、たぶん本当に優しかったのでしょう」
「なら」
「でも、その優しさは、私が待っていた十年を知りません」
ルシアンの目が揺れる。
私は穏やかに告げた。
「だから私は、その優しさに戻りません」
「エレナ」
「私はもう、あなたを待っていません」
今度の沈黙は、少し長かった。
庭師の鋏の音が、遠くで一度だけ鳴った。
その音で、ルシアンが小さく息を吐いた。
「僕は、君に何をしたんだろうな」
彼の声は、震えていた。
「覚えていないのに、取り返しがつかないことをしたのだけは分かる」
「それを知ろうとしてくださるなら、十分です」
「十分ではない」
「十分かどうかを決めるのは、私です」
ルシアンは何も返せなかった。
その表情を見て、私は少しだけ胸が痛んだ。
でも、その痛みはもう戻る理由にはならなかった。
五日目の夜、記憶が戻った。
きっかけは、小さなことだった。
義母の部屋に残されていた手紙を、ルシアンが読んだ。
それだけだった。
医師も、家令も、私も同席していた。
万一混乱すれば危険だからだ。
ルシアンは母からの手紙を開き、最初の数行を読んだ。
そして、止まった。
「……母上」
声が変わった。
私はすぐに分かった。
十年前の青年ではない。
今のルシアンの声だった。
十年分の疲れと後悔を知る男の声。
「ルシアン様」
私が呼ぶと、彼はゆっくり顔を上げた。
灰色の目が、私を見た。
優しさはある。
けれどそれ以上に、痛みがあった。
「戻った」
彼は言った。
「全部ではないが、戻った」
「そうですか」
「エレナ」
彼は手紙を握ったまま、私を見た。
「私は、君にひどいことをした」
私は何も言わなかった。
ここで違いますと言えば、また同じことになる。
慰めるのは、もう私の役目ではない。
「父の葬儀のあと、叔父に言われた」
ルシアンは低い声で続けた。
「妻に情を見せるな。情を見せれば、ヴァイスベルク侯爵家の弱点になる、と」
「はい」
「母は病んでいた。親族は家を分けようとしていた。私は、君を巻き込まないためだと言い聞かせた」
彼は苦しげに笑った。
「君を遠ざければ、君は傷つかないと思った。三年後に自由にすれば、それで償えると思った」
「そうですか」
「だが私は、その三年を十年にした」
「はい」
「君を守るという言い訳で、君を一番孤独にした」
私は黙っていた。
その通りだったから。
「理由にはならない」
ルシアンは言った。
「どれも、理由にはならない。私は君に愛さないと言い、君がこの家を守るのを当然のように受け取り、君が疲れていることに気づかなかった」
「はい」
「謝って許されるとも思わない」
「はい」
「だから」
彼は手紙を置き、寝台から降りようとした。
医師が止めようとしたが、ルシアンは首を振った。
そして、床に膝をついた。
「旦那様」
家令が息を呑む。
私は動かなかった。
侯爵が妻の前で膝をつくなど、褒められたことではない。
けれど今この部屋には、見せかけの体裁より重いものがあった。
「エレナ・ヴァイスベルク」
ルシアンは私を見上げた。
「いや、エレナ・ラングレー」
その呼び直しに、胸の奥がかすかに揺れた。
彼は初めて、私を手放す名前で呼んだ。
「離縁届は、私が法務院へ提出する」
「……ルシアン様」
「君に出させない。君が最後までこの家の手続きを整える必要はない」
「けれど」
「私が終わらせる」
彼の声は低く、はっきりしていた。
「それが、私にできる最初の償いだ」
最初の償い。
その言葉を聞いた瞬間、私はようやく少しだけ泣きそうになった。
戻ってくれではない。
許してくれでもない。
自分が終わらせる、と彼は言った。
それは、十年間の中で初めて、私が本当に欲しかった言葉に近かった。
「分かりました」
私は答えた。
「お願いいたします」
「そのあと」
ルシアンは続けた。
私は少し身構えた。
「そのあと、私は君に求婚してもいいだろうか」
「……離縁したあとに?」
「そうだ」
「ずいぶん矛盾していますね」
「分かっている」
彼は苦笑した。
今度の笑みは、若いものではなかった。
痛みを知った大人の笑みだった。
「夫として君を引き止める資格はない。だが、求婚者として歩き直すことを、許してほしい」
「許すかどうかは、私が決めます」
「もちろん」
「私は待ちません」
「分かっている」
「あなたが近づくのを止めはしませんが、私の人生はあなたの返事を待つためには使いません」
「それでいい」
ルシアンは頷いた。
「今度は、君が待つのではなく、私が歩く」
私はその言葉を、すぐには信じなかった。
十年待った女は、言葉だけではもう動かない。
でも。
信じたいと思う自分が、ほんの少しだけ残っていることも分かった。
それが悔しかった。
そして、少しだけ嬉しかった。
離縁は、二日後に成立した。
法務院へ向かったのはルシアンだった。
まだ体調は万全ではなかったが、家令と医師を伴い、正装で出向いた。
私は屋敷の玄関でそれを見送った。
帰ってきた彼の手には、正式に受理された証書があった。
「今日から、君はエレナ・ラングレーだ」
彼はそう言った。
「はい」
「長く、ヴァイスベルクの名を負わせた」
「ええ」
「ありがとう」
「その礼は、もっと早く聞きたかったです」
「本当にそうだな」
彼は小さく笑った。
苦く、でも逃げない笑い方だった。
三日後、私はヴァイスベルク侯爵邸を出た。
使用人たちが玄関へ集まっていた。
泣いている侍女もいた。
料理長は何か言おうとして、結局深く頭を下げただけだった。
家令のオスカーは、私の手へ小さな封筒を差し出した。
「奥様」
「もう奥様ではありません」
「……エレナ様」
言い直した声が、少し震えていた。
「奥様から、いえ、亡き侯爵夫人からあなたへ預かっていたものです」
「お義母様から?」
「離縁なさる日が来たら渡すようにと」
私は封筒を受け取った。
開けるのは、馬車の中にした。
手紙には短く、こう書かれていた。
エレナ。
この家に残ってくれてありがとう。
でも、この家をあなたの檻にしてはいけません。
出ていく日が来たなら、胸を張って出ていきなさい。
あなたは、妻である前に、あなたです。
文字が少し滲んだ。
義母は、分かっていた。
私がいつか限界を迎えることも。
この家を出る日が来ることも。
それでも彼女は、私を責める言葉を残さなかった。
馬車の窓から、ルシアンが見えた。
玄関前に立っている。
追っては来ない。
呼び止めもしない。
ただ、私が乗った馬車が門を出るまで、静かに見送っていた。
それでよかった。
今は、それで十分だった。
半年後。
私はラングレー子爵領の西にある小さな別邸で暮らしていた。
別邸と言っても、豪華なものではない。
丘の上に建つ石造りの家で、春は風が強く、冬は暖炉の前から離れがたい。
けれど庭には古い林檎の木があり、窓からは川が見える。
私はそこで、近くの子どもたちへ読み書きを教え、村の婦人たちと季節の保存食を作り、時々、弟の妻の相談を受けた。
不思議なほど、息がしやすかった。
誰かの妻としてではなく、誰かの家の影としてでもなく、ただエレナとして朝を迎える。
それだけで、日々は少しずつ色を取り戻していった。
ルシアンからの手紙は、月に一度届いた。
最初の一通には、謝罪だけが書かれていた。
二通目には、ヴァイスベルク侯爵家の親族整理が終わったこと。
三通目には、義母の部屋を記念室ではなく、静かに祈れる部屋として残したこと。
四通目には、私が世話をしていた侍女の一人が結婚し、屋敷のみんなで見送ったこと。
五通目には、白薔薇が今年も咲いたこと。
どの手紙にも、戻ってきてほしいとは書かれていなかった。
求婚してもいいだろうか、とも書かれていなかった。
ただ、彼が何を見て、何を変え、何を後悔しながら生きているかが書かれていた。
私は返事を書いたり、書かなかったりした。
義務ではない。
そう思えることが、何より大きかった。
そして一年が過ぎた春。
ルシアンが別邸を訪れた。
もちろん、突然ではない。
弟を通じて正式に面会を申し込み、私が許可した日と時刻に来た。
そういうところは、少し学んだらしい。
玄関先に立つ彼は、十年前より少し痩せ、けれど目元は前より穏やかだった。
「久しぶりだな」
彼が言った。
「ええ」
「元気そうでよかった」
「そう見えますか」
「見える」
「なら、そうなのでしょう」
私がそう答えると、彼は少しだけ笑った。
その笑い方は、もう十年前の青年のものでも、冷たい夫のものでもなかった。
今のルシアンの笑みだった。
「今日は、求婚に来た」
彼はまっすぐ言った。
あまりにも正面から言うので、私は少しだけ目を瞬いた。
「前置きが短いですね」
「長くしても、君は結論を聞くだろうと思って」
「正解です」
私は庭の小道へ視線を向けた。
白薔薇ではない。
ここには、薄桃色の野ばらが咲いている。
手入れされすぎていない、自由な花だった。
「エレナ・ラングレー」
ルシアンは私の前で片膝をついた。
ここは侯爵邸ではない。
見ているのは、少し離れた場所にいる私の侍女と、やたら耳のいい門番くらいだ。
それでも彼は、きちんと膝をついた。
「私は十年前、君を妻にした。けれど、君を選ばなかった」
「はい」
「君を愛さないと言い、君が待つのを当然のように受け取った」
「はい」
「だから今日は、夫としてではなく、求婚者として来た」
彼は小さな箱を差し出した。
中に入っていたのは、大きな宝石ではなかった。
白い石に、薄桃色の野ばらが彫られた小さな指輪だった。
この庭の花を見て作らせたのだろう。
昔の彼なら、ヴァイスベルク侯爵家にふさわしい大粒の石を選んだはずだ。
今の彼は、私の庭を見ている。
「君が私を選ばなくても、私はそれを受け入れる」
ルシアンは言った。
「だが、もし許されるなら、今度は君の歩く速さで、隣を歩きたい」
「私は、もう待ちません」
「分かっている」
「侯爵家の都合で、私の暮らしを止めることもしません」
「しない」
「あなたがまた、私を守るという名で遠ざけるなら、その時点で終わりです」
「分かっている」
「私は、妻である前に私です」
「それを、忘れない」
返事は早かった。
けれど、軽くは聞こえなかった。
一年かけて、この人は何度も同じことを自分へ言い聞かせてきたのだろう。
そう思える声だった。
私は指輪を見た。
薄桃色の野ばら。
白薔薇ではない。
義母の花でも、ヴァイスベルク家の庭の花でもない。
今の私の庭に咲いている花。
そのことが、少しだけ胸を温かくした。
「ルシアン様」
「うん」
「私は、あなたを待ちません」
「ああ」
「でも」
私は箱から指輪を取った。
彼の手が、わずかに震える。
「一緒に歩くかどうかなら、考えてもいいと思っています」
「エレナ」
「ただし、すぐに侯爵邸へ戻るつもりはありません」
「分かっている」
「まずは婚約からです」
「ああ」
「今度は契約ではなく、私が選びます」
「ありがとう」
その声は、とても低かった。
泣きそうな声にも聞こえた。
私は指輪を自分の左手にはめた。
まだ少し余裕がある。
でも、悪くない。
締めつけるものではなく、いつでも外せるもの。
だからこそ、今はつけていられる。
ルシアンが立ち上がる。
私へ手を伸ばし、途中で止めた。
触れていいかを、目で訊いている。
その慎重さに、少しだけ笑ってしまった。
「手を」
私が言うと、彼は本当にゆっくり私の手を取った。
十年前の初夜、触れられなかった手。
十年間、届かなかった手。
離縁の日に手放した手。
今度は、私が選んで差し出した手だった。
「歩きましょう」
私は言った。
ルシアンが頷く。
野ばらの小道を、二人で歩き出す。
彼は私の半歩前にも、後ろにも立たなかった。
隣を歩いた。
本当に、ただ隣を。
私はもう、彼を待っていない。
過去の優しさも、遅すぎた後悔も、愛することはないと言われた夜も、なかったことにはならない。
でも、待つことをやめた私が、歩くことまでやめる必要はない。
春の風が、丘の上を抜けていく。
薄桃色の野ばらが揺れる。
その横で、ルシアンの手が少しだけ強くなる。
私はその手を、少しだけ握り返した。
待つためではなく。
歩くために。
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