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離縁前夜、十年前の夫が戻ってきました。けれど私はもう、あなたを待っていません

掲載日:2026/05/18

 離縁届の最後の一行に、自分の名を書いた。


 エレナ・ヴァイスベルク。


 その名で署名するのは、たぶんこれが最後になる。


 ペン先を置くと、向かいに座っていた夫が静かに息を吐いた。


 ルシアン・ヴァイスベルク侯爵。


 十年前、私が嫁いだ相手。


 そして明日、私の夫ではなくなる人。



「これで、すべて整ったな」



 ルシアンは、いつものように穏やかな声で言った。


 感情の揺れは、ほとんど見えない。


 別に驚くことではない。


 この人は十年間、私に対してずっとそうだった。


 怒鳴らない。


 責めない。


 けれど、近づきもしない。


 屋敷の中で同じ姓を名乗りながら、私たちは長いあいだ、丁寧な他人として暮らしてきた。



「ええ」



 私は署名済みの書類を重ねた。



「明日の朝、法務院へ提出すれば離縁は成立します」


「屋敷を出るのは、三日後だったな」


「はい。南の離れに荷物はまとめてあります」



 南の離れ。


 それは、ヴァイスベルク侯爵家の敷地内にある古い客棟だった。


 もともとは遠方から来た親族を泊めるための建物で、今は半分ほど空いている。


 私は三日後、そこから馬車に乗り、ラングレー子爵家へ戻る。


 十年前に出てきた実家へ。


 ただし、戻ると言っても、あの家に娘として居場所が残っているわけではない。


 父はもう亡く、弟が家を継いでいる。


 私は離縁した姉として、しばらく西の小領地にある別邸で暮らす予定だった。



「必要なものがあれば、持っていくといい」



 ルシアンは言った。



「君には、この家に尽くしてもらった」


「ありがとうございます」


「それから」



 彼は少しだけ言葉を探した。



「十年、長く拘束した」


「はい」



 私は頷いた。


 その返事が予想より短かったのか、ルシアンがわずかに眉を動かす。



「怒っているのか」


「いいえ」


「では」


「疲れただけです」



 そう言うと、部屋が静かになった。


 ここはヴァイスベルク侯爵邸の西執務室。


 離縁手続きの確認のため、今夜は法務院の書記官と侯爵家の家令も同席していた。


 けれど二人は、署名が終わった時点で隣室へ下がっている。


 今この部屋にいるのは、私とルシアンだけだった。



「エレナ」



 彼は少し低い声で私の名を呼ぶ。



「三年前には、まだ離縁を急がないと言ったはずだ」


「急いでいません」



 私は答えた。



「三年の約束が、十年になりました」


「事情があった」


「存じております」



 義母が倒れた。


 侯爵家の親族が相続に口を出した。


 北の荘園で訴えが起きた。


 王都での役目が増えた。


 そのたびに、ルシアンは離縁を先延ばしにした。


 そのたびに、私は待った。


 病床の義母が「あなたがいてくれて助かるわ」と言ったから。


 家令が「奥様がいらっしゃれば屋敷が荒れません」と頭を下げたから。


 使用人たちが私の前では少しだけ安心した顔をしたから。


 そして、どこかでまだ、三年後に自由になるという約束を信じていたから。



「ですが、事情はいつもありました」



 私は静かに言った。



「この家にも、あなたにも」


「……」


「私にも、ありました」



 ルシアンは黙った。


 それでよかった。


 今さら何かを言ってほしかったわけではない。



 十年前の初夜。


 この人は私に言った。



「君を愛することはない。三年後、互いに自由になろう」



 私はその言葉を、十年覚えていた。


 忘れられるわけがなかった。


 白い寝台。


 灯りを落とした部屋。


 緊張していた私の手。


 それに触れもしないまま、ルシアンが告げた声。


 その夜から、私たちの寝室は別になった。


 夫婦としての形は整えた。


 けれど、夫婦ではなかった。


 契約で結ばれた、同じ屋敷に住む二人。


 それだけだった。



「私は明日、あなたを自由にします」



 私は書類を封筒へ入れた。



「ですから私も、自由になります」


「そうか」



 ルシアンは短く答えた。


 その横顔は、やはり静かだった。


 この人は、最後まで静かなのだと思った。


 私が十年待つ間も。


 待つことをやめる時も。


 きっと、この人の中では大きな音など鳴っていない。



「今夜はもう休みます」



 私は立ち上がった。



「明朝、法務院へ出す前に確認があれば、家令へお伝えください」


「君は」


「はい」


「本当に、それでいいのか」



 不思議な問いだった。


 まるで、決めたのが私だけであるかのようだったから。



「ルシアン様」



 私は十年ぶりに、夫ではなく、結婚前のように彼の名へ敬称をつけた。


 ルシアンの目が少しだけ揺れる。



「私はもう、あなたを待っていません」



 それだけ言って、私は部屋を出た。


 背後で椅子がわずかに軋む音がした。


 振り返らなかった。


 今振り返れば、また十年前の自分が顔を出してしまいそうだったから。




 事故の知らせが来たのは、その夜の半刻後だった。


 自室で髪をほどき、荷造りの最後の箱を閉じたところで、廊下から慌ただしい足音が聞こえた。


 扉を叩いたのは家令のオスカーだった。


 六十を過ぎた彼が、ここまで顔色を失っているのを見るのは初めてだった。



「奥様」


「どうしました」


「旦那様の馬車が、北門の手前で横転いたしました」


「……ルシアン様が?」


「意識がおありになりません」



 私は一瞬、言葉を失った。


 離縁届はまだ法務院へ出していない。


 つまり私は、今この瞬間もヴァイスベルク侯爵夫人だった。


 そして夫が倒れたなら、呼ばれるのは私だった。



「医師は」


「宮廷医師へ使いを出しております。旦那様はすでに寝室へ」


「分かりました」



 私は外套を羽織り、廊下へ出た。


 足が冷たい。


 驚いているのだと、少し遅れて気づいた。


 怒りでも悲しみでもなく、ただ強い衝撃が身体の奥に落ちている。


 十年間近づかなかった夫の寝室へ、こんな形で入ることになるとは思わなかった。



 ルシアンは寝台に横たわっていた。


 額に包帯。


 頬に薄い傷。


 呼吸はある。


 けれど顔色は悪い。


 私は寝台の横に立ち、しばらく彼の顔を見下ろしていた。


 この人は、こんなに疲れた顔をしていただろうか。


 それとも、私は十年間、この人の顔をろくに見ていなかったのだろうか。



 宮廷医師が到着したのは、夜更け近くになってからだった。


 診察は長かった。


 その間、私は部屋の隅で待った。


 妻として。


 まだ妻である者として。


 やがて医師は顔を上げ、慎重に言った。



「命に別状はないでしょう」


「そうですか」


「ただし、頭を強く打っております。目覚めたあと、しばらく混乱が残るかもしれません」


「記憶に影響が?」


「その可能性はあります」



 私は頷いた。


 そういうこともあるのだろうと思った。


 遠い話のようだった。



 けれど翌朝。


 ルシアンが目を覚ました瞬間、その遠い話は、私の目の前で形になった。



「……エレナ?」



 彼は、十年前の声で私を呼んだ。


 私は息を止めた。


 声そのものは同じだ。


 でも、呼び方が違う。


 侯爵夫人への呼びかけでも、契約上の妻への確認でもない。


 もっと若く、もっと近い。


 まだ何も壊れていなかったころの声だった。



「はい」



 私は慎重に返事をした。



「ルシアン様、どこまで覚えていらっしゃいますか」



 彼は瞬きをして、天井を見た。


 それから、ゆっくりと私へ視線を戻す。



「結婚式は、明日だろう?」



 部屋の空気が止まった。


 家令が息を呑む。


 医師が小さく目を伏せる。


 私は、なぜか少し笑いそうになった。


 あまりにも残酷で。


 あまりにも都合よくて。


 こんなことが本当にあるのかと思った。



「今日は、いつだと思っていらっしゃいますか」


「春の十九日」



 彼は当然のように答えた。



「君がラングレー家から、この屋敷へ来て三日目だ。明日、僕たちは結婚する」



 十年前。


 正確だった。


 ルシアンの記憶は、十年前の結婚式前日に戻っていた。



「なぜ、そんな顔をしている」



 彼は眉を寄せる。



「エレナ。君は……少し、大人びたように見える」



 それはそうだろう。


 十年経っているのだから。



「ルシアン様」


「うん」


「私たちは、もう結婚しています」


「え?」


「十年前に」



 彼の顔から、ゆっくりと血の気が引いた。


 私は続けた。



「そして昨日、離縁届に署名しました」


「離縁……?」



 ルシアンが、聞き慣れない異国の言葉でも聞いたような顔をした。



「なぜ」


「十年前、あなたがそうおっしゃったからです」


「僕が?」


「はい」



 私は静かに告げた。



「君を愛することはない。三年後、互いに自由になろう、と」


「そんなことを」



 彼は寝台の上で身を起こそうとした。


 医師が止める。


 ルシアンはそれをほとんど聞かず、私を見た。



「僕が、君にそんなことを言ったのか」


「はい」


「嘘だ」


「嘘なら、よかったですね」



 自分の声が思ったより冷えていて、私は少し驚いた。


 でも訂正はしなかった。


 この人が覚えていないからといって、私の十年が消えるわけではない。



「エレナ」



 彼は痛ましい顔をした。



「僕は、君を嫌ってなどいない」


「存じております」


「違う。そういう意味ではなく」



 ルシアンは苦しそうに額へ手を当てた。



「僕は、君と結婚するのを楽しみにしていたはずだ」


「そうですか」


「冷たい言い方をしないでくれ」


「では、どう言えばよろしいのでしょう」



 私は寝台の横へ一歩近づいた。



「あなたは十年前のあなたです。けれど私は、十年後の私です」


「……」


「あなたが覚えていない十年を、私は生きました」



 ルシアンは何も言えなかった。


 私はその沈黙に、十年前なら傷ついたかもしれないと思った。


 今は違う。


 もう傷つく場所が、だいぶ少なくなっている。



 医師は、数日の安静と観察が必要だと言った。


 記憶が戻るかどうかは分からない。


 急に戻ることもあれば、少しずつ戻ることもある。


 まったく戻らない可能性もあるらしい。


 法務院への離縁届提出は、家令と相談のうえ、いったん保留になった。


 署名は済んでいる。


 提出すれば成立する。


 けれど、当主が事故直後で記憶を失っているとなれば、侯爵家の親族が後から無効を主張する余地が残る。


 面倒は避けたい。


 それが家令の判断だった。



「奥様には、もう数日だけご負担を」



 家令は深く頭を下げた。


 私はしばらくその白髪を見ていた。


 この人にも世話になった。


 この人は、私がいなければ屋敷が困ると何度も言った。


 けれど、私自身が困っているとはあまり言わなかった。



「七日です」



 私は言った。



「七日だけ、夫人として残ります」


「奥様」


「そのあとは、記憶が戻っても戻らなくても、法務院へ提出してください」



 家令は顔を上げた。


 私ははっきりと続けた。



「私はもう、待ちません」




 十年前のルシアンは、ひどく優しかった。


 それが一番困った。


 冷たい夫より、ずっと困った。



「エレナ、歩くのが早い」



 回廊で追いついてきたルシアンが、少し息を切らして言った。


 医師からは短い歩行だけ許されている。


 それなのに彼は、屋敷の中を知ろうとして動きたがった。


 十年分の空白が不安なのだろう。


 私はその案内役にされた。


 七日だけの夫人として。



「十年も屋敷におりますので」


「それは、そうだけれど」


「無理をなさると、医師に叱られます」


「君にも叱られている気がする」


「叱っております」



 私がそう答えると、彼は少しだけ笑った。


 若い笑い方だった。


 十年前、結婚式前の控え室で一度だけ見た笑み。


 あの時の私は、その笑みをとても大事に思った。


 この人となら、たとえ契約結婚でも、穏やかにやっていけるかもしれないと。


 翌日の夜に、その期待は折られたけれど。



「ここは、母上の部屋だったのか」



 ルシアンが立ち止まったのは、東棟の端だった。


 扉の前には、淡い花の刺繍が入った小さな布飾りがかかっている。


 義母が好きだったものだ。



「はい」


「母上は、まだ」



 彼はそこで止まった。


 私の表情を見て、察したのだろう。



「亡くなりました」



 私は答えた。



「六年前です」


「そうか」



 ルシアンの顔が歪んだ。


 彼の中では、母はまだ病がちだが生きている人なのだ。


 けれど私にとっては、六年前に看取った人だった。



「君が、看てくれたのか」


「使用人たちと一緒に」


「僕は」


「王都と北領を行き来していらっしゃいました」


「最期には」


「間に合いませんでした」



 ルシアンは壁に手をついた。


 私はそれを支えなかった。


 医師からは支えるよう言われていた。


 けれど今、手を伸ばせば、十年前の自分がまた勘違いする気がした。



「母上は、苦しんだか」


「最後は穏やかでした」


「何か、言っていたか」


「はい」



 私は扉を開けた。


 部屋の中は、もう使われていない。


 それでも毎週、風を通している。


 白い寝台も、窓辺の椅子も、義母が好きだった薄紫の花瓶も、そのまま残してある。



「この部屋を、まだ」


「ご本人の希望でしたので」


「君が守ってくれたのか」


「部屋を残しただけです」


「それを、守ると言うんだ」



 ルシアンはそう言った。


 私は返事をしなかった。


 今の彼は、私が十年間欲しかった言葉を簡単に言う。


 それが腹立たしかった。


 優しいから。


 あまりにも優しいから。



 窓辺の引き出しを開けると、古い封書が入っている。


 私はその一通を彼に渡した。



「これは」


「お義母様が、あなたへ遺された手紙です」


「僕へ?」


「はい。ですが、あなたは当時、読めませんでした」


「なぜ」


「読まないとおっしゃったからです」



 ルシアンの手が止まった。



「母上の手紙を?」


「はい」


「なぜ、僕はそんな」


「お辛かったのだと思います」



 私は少しだけ目を伏せた。



「それでも、読まないと決めたのはあなたです」


「君は」


「読みました」


「母上が、君にも?」


「はい」



 義母は最後の月、手紙を三通書いた。


 ルシアンへ。


 侯爵家の家令へ。


 そして私へ。



「私への手紙には、この家を頼むとは書かれていませんでした」



 私は静かに言った。



「あなたの人生を、家の代わりにしてはいけない、と書いてありました」


「母上が」


「はい」



 私は引き出しを閉じた。



「でも、私はその言葉を守れませんでした」



 十年。


 私はこの家にいた。


 侯爵夫人として。


 契約上の妻として。


 愛されないと分かっていても、この家が壊れないように動いた。


 そうしているうちに、自分の人生をどこに置いたのか分からなくなった。



「エレナ」



 ルシアンが私の名を呼ぶ。



「僕は、本当に君を何も見ていなかったのか」


「そうですね」


「……そこは、否定してくれないのか」


「否定できる材料がございません」



 彼は苦しそうに笑った。


 笑って、それから目を伏せた。


 その横顔を見て、胸の奥が少し痛んだ。


 私はまだ、この人を完全には嫌いになれていない。


 それが一番厄介だった。




 三日目、ルシアンは庭へ出た。


 医師は短時間ならと許可した。


 私は断ろうとしたが、家令が深く頭を下げたので仕方なく付き添った。


 庭は春だった。


 十年前も、春だった。


 結婚式の前日、私はこの庭でルシアンと少しだけ歩いたことがある。



「この白薔薇は、まだあるんだな」



 彼が言った。


 私は庭の奥を見る。


 白薔薇の小道。


 義母が好きで、けれど一時期枯れかけた場所だった。


 今は低い柵に沿って、静かに咲いている。



「一度、駄目になりかけました」


「そうなのか」


「お義母様が亡くなられた年に」


「……」


「庭師たちは、手が回らないと言っていました。親族の方々は、葬儀が終わったのだから古い花は整理した方がよいと」


「君が残したのか」


「はい」


「なぜ」


「あなたが好きだと、昔おっしゃったからです」



 ルシアンが足を止めた。


 私は自分で言ってから、余計なことを言ったと気づいた。


 十年前の庭。


 彼は白薔薇を見て、母が好きな花だと言った。


 それから、小さく付け加えた。


 僕も嫌いではない、と。


 たったそれだけの言葉を、私は十年覚えていた。


 あまりにも愚かだと思う。


 でも、そういう小さな言葉で人は待ててしまう。



「エレナ」



 ルシアンの声がかすれた。



「君は、僕を愛していたのか」


 その問いは、少し遅すぎた。


 十年遅い。



「はい」



 私は答えた。


 ルシアンの顔が歪む。



「では」


「過去形です」


「……」


「たぶん、私はあなたを愛していました」



 白薔薇の香りが、風に混じる。


 春の柔らかい匂い。


 それがこんなに苦いものだと、十年前の私は知らなかった。



「でも、愛している人から『愛することはない』と言われて、それでも十年待てるほど、私は強くありませんでした」


「僕は」


「今のあなたは、言っていないでしょう」



 私は彼を見る。



「でも、私が聞いたのは今のあなたではありません」


「それでも、僕は」


「記憶を失ったあなたに優しくされても、十年間の私は救われません」



 彼は黙った。


 私は、ようやく言えたと思った。


 ずっと言えなかったこと。


 この人が悪人ではないからこそ、言いにくかったこと。



「あなたは優しいです」



 私は続けた。



「十年前のあなたは、たぶん本当に優しかったのでしょう」


「なら」


「でも、その優しさは、私が待っていた十年を知りません」



 ルシアンの目が揺れる。


 私は穏やかに告げた。



「だから私は、その優しさに戻りません」


「エレナ」


「私はもう、あなたを待っていません」



 今度の沈黙は、少し長かった。


 庭師の鋏の音が、遠くで一度だけ鳴った。


 その音で、ルシアンが小さく息を吐いた。



「僕は、君に何をしたんだろうな」



 彼の声は、震えていた。



「覚えていないのに、取り返しがつかないことをしたのだけは分かる」


「それを知ろうとしてくださるなら、十分です」


「十分ではない」


「十分かどうかを決めるのは、私です」



 ルシアンは何も返せなかった。


 その表情を見て、私は少しだけ胸が痛んだ。


 でも、その痛みはもう戻る理由にはならなかった。




 五日目の夜、記憶が戻った。


 きっかけは、小さなことだった。


 義母の部屋に残されていた手紙を、ルシアンが読んだ。


 それだけだった。


 医師も、家令も、私も同席していた。


 万一混乱すれば危険だからだ。


 ルシアンは母からの手紙を開き、最初の数行を読んだ。


 そして、止まった。



「……母上」



 声が変わった。


 私はすぐに分かった。


 十年前の青年ではない。


 今のルシアンの声だった。


 十年分の疲れと後悔を知る男の声。



「ルシアン様」



 私が呼ぶと、彼はゆっくり顔を上げた。


 灰色の目が、私を見た。


 優しさはある。


 けれどそれ以上に、痛みがあった。



「戻った」



 彼は言った。



「全部ではないが、戻った」


「そうですか」


「エレナ」



 彼は手紙を握ったまま、私を見た。



「私は、君にひどいことをした」


 私は何も言わなかった。


 ここで違いますと言えば、また同じことになる。


 慰めるのは、もう私の役目ではない。



「父の葬儀のあと、叔父に言われた」



 ルシアンは低い声で続けた。



「妻に情を見せるな。情を見せれば、ヴァイスベルク侯爵家の弱点になる、と」


「はい」


「母は病んでいた。親族は家を分けようとしていた。私は、君を巻き込まないためだと言い聞かせた」



 彼は苦しげに笑った。



「君を遠ざければ、君は傷つかないと思った。三年後に自由にすれば、それで償えると思った」


「そうですか」


「だが私は、その三年を十年にした」


「はい」


「君を守るという言い訳で、君を一番孤独にした」



 私は黙っていた。


 その通りだったから。



「理由にはならない」



 ルシアンは言った。



「どれも、理由にはならない。私は君に愛さないと言い、君がこの家を守るのを当然のように受け取り、君が疲れていることに気づかなかった」


「はい」


「謝って許されるとも思わない」


「はい」


「だから」



 彼は手紙を置き、寝台から降りようとした。


 医師が止めようとしたが、ルシアンは首を振った。


 そして、床に膝をついた。



「旦那様」



 家令が息を呑む。


 私は動かなかった。


 侯爵が妻の前で膝をつくなど、褒められたことではない。


 けれど今この部屋には、見せかけの体裁より重いものがあった。



「エレナ・ヴァイスベルク」



 ルシアンは私を見上げた。



「いや、エレナ・ラングレー」


 その呼び直しに、胸の奥がかすかに揺れた。


 彼は初めて、私を手放す名前で呼んだ。



「離縁届は、私が法務院へ提出する」


「……ルシアン様」


「君に出させない。君が最後までこの家の手続きを整える必要はない」


「けれど」


「私が終わらせる」



 彼の声は低く、はっきりしていた。



「それが、私にできる最初の償いだ」


 最初の償い。


 その言葉を聞いた瞬間、私はようやく少しだけ泣きそうになった。


 戻ってくれではない。


 許してくれでもない。


 自分が終わらせる、と彼は言った。


 それは、十年間の中で初めて、私が本当に欲しかった言葉に近かった。



「分かりました」



 私は答えた。



「お願いいたします」


「そのあと」



 ルシアンは続けた。


 私は少し身構えた。



「そのあと、私は君に求婚してもいいだろうか」


「……離縁したあとに?」


「そうだ」


「ずいぶん矛盾していますね」


「分かっている」



 彼は苦笑した。


 今度の笑みは、若いものではなかった。


 痛みを知った大人の笑みだった。



「夫として君を引き止める資格はない。だが、求婚者として歩き直すことを、許してほしい」


「許すかどうかは、私が決めます」


「もちろん」


「私は待ちません」


「分かっている」


「あなたが近づくのを止めはしませんが、私の人生はあなたの返事を待つためには使いません」


「それでいい」



 ルシアンは頷いた。



「今度は、君が待つのではなく、私が歩く」



 私はその言葉を、すぐには信じなかった。


 十年待った女は、言葉だけではもう動かない。


 でも。


 信じたいと思う自分が、ほんの少しだけ残っていることも分かった。


 それが悔しかった。


 そして、少しだけ嬉しかった。




 離縁は、二日後に成立した。


 法務院へ向かったのはルシアンだった。


 まだ体調は万全ではなかったが、家令と医師を伴い、正装で出向いた。


 私は屋敷の玄関でそれを見送った。


 帰ってきた彼の手には、正式に受理された証書があった。



「今日から、君はエレナ・ラングレーだ」



 彼はそう言った。



「はい」


「長く、ヴァイスベルクの名を負わせた」


「ええ」


「ありがとう」


「その礼は、もっと早く聞きたかったです」


「本当にそうだな」



 彼は小さく笑った。


 苦く、でも逃げない笑い方だった。



 三日後、私はヴァイスベルク侯爵邸を出た。


 使用人たちが玄関へ集まっていた。


 泣いている侍女もいた。


 料理長は何か言おうとして、結局深く頭を下げただけだった。


 家令のオスカーは、私の手へ小さな封筒を差し出した。



「奥様」


「もう奥様ではありません」


「……エレナ様」



 言い直した声が、少し震えていた。



「奥様から、いえ、亡き侯爵夫人からあなたへ預かっていたものです」


「お義母様から?」


「離縁なさる日が来たら渡すようにと」



 私は封筒を受け取った。


 開けるのは、馬車の中にした。


 手紙には短く、こう書かれていた。



 エレナ。


 この家に残ってくれてありがとう。


 でも、この家をあなたの檻にしてはいけません。


 出ていく日が来たなら、胸を張って出ていきなさい。


 あなたは、妻である前に、あなたです。



 文字が少し滲んだ。


 義母は、分かっていた。


 私がいつか限界を迎えることも。


 この家を出る日が来ることも。


 それでも彼女は、私を責める言葉を残さなかった。



 馬車の窓から、ルシアンが見えた。


 玄関前に立っている。


 追っては来ない。


 呼び止めもしない。


 ただ、私が乗った馬車が門を出るまで、静かに見送っていた。


 それでよかった。


 今は、それで十分だった。




 半年後。


 私はラングレー子爵領の西にある小さな別邸で暮らしていた。


 別邸と言っても、豪華なものではない。


 丘の上に建つ石造りの家で、春は風が強く、冬は暖炉の前から離れがたい。


 けれど庭には古い林檎の木があり、窓からは川が見える。


 私はそこで、近くの子どもたちへ読み書きを教え、村の婦人たちと季節の保存食を作り、時々、弟の妻の相談を受けた。


 不思議なほど、息がしやすかった。


 誰かの妻としてではなく、誰かの家の影としてでもなく、ただエレナとして朝を迎える。


 それだけで、日々は少しずつ色を取り戻していった。



 ルシアンからの手紙は、月に一度届いた。


 最初の一通には、謝罪だけが書かれていた。


 二通目には、ヴァイスベルク侯爵家の親族整理が終わったこと。


 三通目には、義母の部屋を記念室ではなく、静かに祈れる部屋として残したこと。


 四通目には、私が世話をしていた侍女の一人が結婚し、屋敷のみんなで見送ったこと。


 五通目には、白薔薇が今年も咲いたこと。


 どの手紙にも、戻ってきてほしいとは書かれていなかった。


 求婚してもいいだろうか、とも書かれていなかった。


 ただ、彼が何を見て、何を変え、何を後悔しながら生きているかが書かれていた。


 私は返事を書いたり、書かなかったりした。


 義務ではない。


 そう思えることが、何より大きかった。



 そして一年が過ぎた春。


 ルシアンが別邸を訪れた。


 もちろん、突然ではない。


 弟を通じて正式に面会を申し込み、私が許可した日と時刻に来た。


 そういうところは、少し学んだらしい。


 玄関先に立つ彼は、十年前より少し痩せ、けれど目元は前より穏やかだった。



「久しぶりだな」



 彼が言った。



「ええ」


「元気そうでよかった」


「そう見えますか」


「見える」


「なら、そうなのでしょう」



 私がそう答えると、彼は少しだけ笑った。


 その笑い方は、もう十年前の青年のものでも、冷たい夫のものでもなかった。


 今のルシアンの笑みだった。



「今日は、求婚に来た」



 彼はまっすぐ言った。


 あまりにも正面から言うので、私は少しだけ目を瞬いた。



「前置きが短いですね」


「長くしても、君は結論を聞くだろうと思って」


「正解です」



 私は庭の小道へ視線を向けた。


 白薔薇ではない。


 ここには、薄桃色の野ばらが咲いている。


 手入れされすぎていない、自由な花だった。



「エレナ・ラングレー」



 ルシアンは私の前で片膝をついた。


 ここは侯爵邸ではない。


 見ているのは、少し離れた場所にいる私の侍女と、やたら耳のいい門番くらいだ。


 それでも彼は、きちんと膝をついた。



「私は十年前、君を妻にした。けれど、君を選ばなかった」


「はい」


「君を愛さないと言い、君が待つのを当然のように受け取った」


「はい」


「だから今日は、夫としてではなく、求婚者として来た」



 彼は小さな箱を差し出した。


 中に入っていたのは、大きな宝石ではなかった。


 白い石に、薄桃色の野ばらが彫られた小さな指輪だった。


 この庭の花を見て作らせたのだろう。


 昔の彼なら、ヴァイスベルク侯爵家にふさわしい大粒の石を選んだはずだ。


 今の彼は、私の庭を見ている。



「君が私を選ばなくても、私はそれを受け入れる」



 ルシアンは言った。



「だが、もし許されるなら、今度は君の歩く速さで、隣を歩きたい」


「私は、もう待ちません」


「分かっている」


「侯爵家の都合で、私の暮らしを止めることもしません」


「しない」


「あなたがまた、私を守るという名で遠ざけるなら、その時点で終わりです」


「分かっている」


「私は、妻である前に私です」


「それを、忘れない」



 返事は早かった。


 けれど、軽くは聞こえなかった。


 一年かけて、この人は何度も同じことを自分へ言い聞かせてきたのだろう。


 そう思える声だった。



 私は指輪を見た。


 薄桃色の野ばら。


 白薔薇ではない。


 義母の花でも、ヴァイスベルク家の庭の花でもない。


 今の私の庭に咲いている花。


 そのことが、少しだけ胸を温かくした。



「ルシアン様」


「うん」


「私は、あなたを待ちません」


「ああ」


「でも」



 私は箱から指輪を取った。


 彼の手が、わずかに震える。



「一緒に歩くかどうかなら、考えてもいいと思っています」


「エレナ」


「ただし、すぐに侯爵邸へ戻るつもりはありません」


「分かっている」


「まずは婚約からです」


「ああ」


「今度は契約ではなく、私が選びます」


「ありがとう」



 その声は、とても低かった。


 泣きそうな声にも聞こえた。


 私は指輪を自分の左手にはめた。


 まだ少し余裕がある。


 でも、悪くない。


 締めつけるものではなく、いつでも外せるもの。


 だからこそ、今はつけていられる。



 ルシアンが立ち上がる。


 私へ手を伸ばし、途中で止めた。


 触れていいかを、目で訊いている。


 その慎重さに、少しだけ笑ってしまった。



「手を」



 私が言うと、彼は本当にゆっくり私の手を取った。


 十年前の初夜、触れられなかった手。


 十年間、届かなかった手。


 離縁の日に手放した手。



 今度は、私が選んで差し出した手だった。



「歩きましょう」



 私は言った。


 ルシアンが頷く。


 野ばらの小道を、二人で歩き出す。


 彼は私の半歩前にも、後ろにも立たなかった。


 隣を歩いた。


 本当に、ただ隣を。



 私はもう、彼を待っていない。


 過去の優しさも、遅すぎた後悔も、愛することはないと言われた夜も、なかったことにはならない。


 でも、待つことをやめた私が、歩くことまでやめる必要はない。


 春の風が、丘の上を抜けていく。


 薄桃色の野ばらが揺れる。


 その横で、ルシアンの手が少しだけ強くなる。



 私はその手を、少しだけ握り返した。


 待つためではなく。


 歩くために。

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― 新着の感想 ―
解らん、ルシアンの何処に気に入る要素があるのか解らん。ルシアンの良さが全然解らん。 結婚式の前日までの記憶があり、初夜に愛する事はないと告げているとなると、記憶が戻らなくても根拠は覚えていたのでは? …
ないわー。 失った愛は戻りません。 苦さや痛みは伴うでしょうけど。 彼女が10年我慢した理由が読んでいてわかりませんでした。 約束を守らない男に、まだ何を期待してんの? 何のメリットもない男に、また便…
お互いかまってちゃんやったんかな?? わざわざ再婚する気なのに離婚しておっかけてきてーーーって感じね。。 男も一応悪いのは自分だし、便利な妻にはいてもらいたいし妻の言うとうりにしましょ。離婚もするしす…
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