イージーライダー
ふいに叔父の姿が消え……、
視線を下におろすと、叔父が歩道にうずくまっていた。
とっさに走り寄りった。
「叔父さん」と呼びかけたが返事はなく、口を開くのも苦しそう。
顔面は色を失い、いやな汗が額に滲んでいる。
「だ…いじょう、ぶ。心配いらんよ」
そうは思えない。
「あそこに」と、叔父が指さした。
その方向に大きなイチョウの木があり、周囲を丸く取り巻いたベンチが見えた。木陰になり涼しそうだ。
叔父を助けベンチに移動すると、ドカンと椅子に落ち、それから、すぅーっと息を吐いた。あたかも戦場で力がつきた敗残兵のようだ。
今日は気温の上昇が激しく、軽い熱中症にでもなったのかと疑った。
「ひさしぶりでね、外に出るのは。驚かしたかな」
「い、いえ」
「もう、良くなった」
「本当ですか」
「心配はいらない。立ちくらみだ……、しかし、どうしてここに?」
返事ができない。と〜〜てもまずい、この状況。
「えっと、その、……あの、お台場にショッピングに来て、なんでか迷って、それで、その、歩いてたら、ここにいて……、あ、不思議ですね」
「そうか、委員長だな」
返事、期待しないでという顔で視線を落とした。言い訳を考える時間、ちょっと必要であって、であっても言い訳があるわけないけど。
異邦人のカミュばりに『太陽が眩しかったから』って淡々と言うか?
不条理な世界ですって逃げっか?
「まったく、昔から、委員長は」
まだまだ日差しは強く、一向に涼しくなる気配はない。
叔父は薄く笑った。
「あなたも大変なようだ」
「それほどでも、あります」
「なるほど」と、数秒黙ってから、彼はひとり事のように呟いた。
「さてさて、休んでいる間に昔話でも聞くかい」
顔色は戻っており、先ほどのような苦しげな様子もない。
「老人の思い出話だから、長くなるがね」
私は、こくりとうなづいた。いや、ぜひ聞きたい、叔父の話。オババとの関係を知りたいんだ、私は。
「僕が商社マン時代のころの話でね。もう、随分と昔のことだ。仕事でアラスカに飛んだことがある。
その日はアンカレッジの商談が思ったより早く終わって、一日余裕ができた。
冬だったか晩秋だったか、忘れてしまったが。ともかく、その時、フェアバンクスでオーロラを見ようと決めたんだよ。
車で6時間くらいだと聞いたからレンタカーを借りてね」
そこで叔父は息をついた。
私は興味と不安を感じながらも、叔父の話に付きあった。
頭のなかでは、オババの話じゃないんかいとか、太陽が眩しかったって理由でいけるかとか、たわいもないことを考えながら。
「レンタカー屋の疲れて太った女が、『そんなスーツで行くような場所じゃない、crazy!』って言いながら、どうでもいいような様子でキーを渡してくれた。
僕はああいう投げやりで、頭の悪そうな女が嫌いじゃなくてね。
『死んだら、骨を拾ってくれるかい』って、ジョークを飛ばしたら。
『死んでもいいけど、車は返して』って、口紅の取れかけた顔で笑いやがった。
あれだね。死から遠い若い頃ってのは、簡単に死を扱えたものだ。
大声で笑ってやったよ。
仕事が無事に終わってね、それも思った以上の成果がでていた。さ、これから冒険だと気分が高揚していた。
レンタカー屋でJEEPを借りてから、近くのスーパーで、食料を大量に買い込んで積み込んだ。一応の準備はしたと納得してから……。
それから、ハイウェイを北へ北へと走りはじめた。
アメリカって国は、田舎に行くと本当になにもないんだ。
ただただ道路が真っ直ぐにあるだけで、周囲は平原が広がっている。どれだけスピードをだしても、誰も見ちゃいない。
3時間くらいドライブしたかな。
僕は車の運転が好きでね。運転すると疲れるっていう人もいるが全くない。かえって元気になってくる。
車外では徐々に雲が厚くなった。
ちらちら雪も降り始めて、まずいかなと頭のなかで警告音が聞こえたがね。
『イージーライダー』って古い映画が好きなんだな。
自由に向かって、ただ走る映画で、いつかやってみたいと思っていた。
でもまあ、そん時の僕がなにから自由になりたかったのか、実際には理解していなかった。
ただ、ピーター・フォンダを気取って、窓を半開にした。
いっきなり冷たい空気が飛び込んできた。冷たいなんてもんじゃない。
そんな言葉じゃ、まだ足りんくらいだ。痛かった。
寒さが尋常じゃないんだ。
凍えた空気を吸うと、まず喉がやられる。
突き刺すような痛みに数秒で耐えられなくなったが、それが困ったことになった。
窓が凍りついて閉じなくなったんだよ。
路肩に車を停車して、なんとか閉めたが、ひどい思いをした。
手動だったから、なんとかなったが、僕は昔から愚かだ。それは今でも変わらんがね。
途中でガソリンを入れたときには、JEEPのバックには、氷みたいな雪がへばり付いていた。
こういう寒さは経験したことがない。
レンタカー屋のしょぼくれた女が哀れんでいた理由がわかった。
道路も凍り、粉雪が舞い上がるようになり、次第に雪は本降りになっていた。
ホワイトアウトの状態になるのに時間はかからなかった。
周囲が真っ白な雲状の雪におおわれて何も見えなくなる。
向かい側からくる車のライトは、すぐ隣にくるまで気づかないんだ。
その光も薄ぼんやりしたもので、ゾクゾクするような命の危険を感じた。
生きてる実感というのかな。
まだ、ナビもスマホもない時代だったから、地図と標識だけが頼りのドライブで、それが見えないんだ。
ハンドルにしがみついて、フロントガラスを凝視しながら、スピードを抑えて運転した。
数時間もすると、自分が前に進んでいるのかもわからなくなっていた。
確かにエンジンはかかり、動いているはずなんだが、止まっているように思えてね。
幸いなことに、途中で雪は止んだが、その頃には、もう夜になっていたよ。
そして、周囲の景色がいっぺんした。雲が切れ……、
空気が澄んでいるから、無数の星が見える。
そして、星が消えたと思った瞬間、ふいにボウっと光が現れ、薄い白に近い雲のようなグリーンの波が押し寄せて来たんだ。
『おおおおおお』と、思わず声が出た。
僕は車を停めて、それをボウーっと眺めた。
ただ、眺める以外になにもできなかった。
神々しい光というか、神の啓示を受けたような瞬間だよ、大げさに言えばね。
僕は全くの無神論者だが、その時ばかりは神の存在を感じた。
オーロラは荘厳で怖い。
何層にも重なり、カーテンが降りるようにふり注いでくる波だよ。
見せてあげたかったなぁ」
腕を前に差し出して、叔父は体でそれを表現して、それから、かすかに微笑んだように見えた。
「勝江には申し訳ないが、これまで、いろんな女を愛してきたのは事実だな。だが、あの時、あの瞬間に、これを見せてやりたいと思ったのは、なぜか委員長でね。
所詮そういうことだ、若いころから全く成長もしてない。悪態をつきたくなったよ。それから米国に本拠地を置いたのは知っての通りだ。その時も勝江には別れることを提案したが断られた」
そう言いながら叔父は、前方にあるビルに視線を動かした。
「アメちゃん。頼みがある」
「なんでしょうか?」
「黙っていてくれないか」
叔父の視線を追った。
その先にはビルがあり、有明がん研究所と書いてあった。
私は言葉を失った。
(つづく)




