逃亡者 1
ホテルのレストラン。
窓際の席で、叔母の口から奇妙な悲鳴が放たれている。
「ダメ! ダメ、ダメェーーー!!」
おそらく、そう叫んでいると思われるが、定かではない。
アメ、呆然としてた。日頃の叔母といえば、優しく穏やかという言葉を、そのまま粘土で練って形にしたような女性。
大声を出す、まして叫ぶなど信じられない。
すぐにホテルのスタッフが小走りで寄ってた。
もうなんて言うか。その小走りも尋常じゃなかった。
能舞台の役者のような、足音を感じさせないスリ足、人さまの苦しみに対処することベテランの動き。この走り技を会得するのに、10年の修練を重ねた。今こそ、ヒノキ舞台でご披露いたします、ってな勢いだ。
まあ、私も周囲の視線を痛いほど感じていたから、その気持ち、察するにあまりある。
やり手のホテルマン、テーブルに到着するやいなや、
「お客さま、ご気分でもお悪いのでございますか」
感情を抑えたアナウンサーみたいな声で聞いてきた。
レストランの平和を守る、プロ根性、全身で醸し出そうとしているが、なにせ相手が悪い。
「ダメ、ダメ、ダメ!!!」
もう叫んではいない。ずっと同じダメダメを呟いている。何かのタガが外れてしまって、そこにいるのは叔母という名の別人で、ダメダメに固執した不気味な、なに者かだった。
ホテルマン、表情に軽い動揺を見せはじめた。彼の長く輝かしい経歴のなかでも、おそらくトップクラスのトラブルと気づいたようだ。
ホテルマンとしての矜持を発揮すべく、目を泳がせている。それから順番に視線をずらした。
叫ぶ叔母、
オババ、
優ちゃん、
太郎、
・
・
・
そして、私。
私のところで視線が止まった。
えっ? 私?
(ダメダメダメ)、思わず視線で返すと、ホテルマンも(いやいや)と視線を送ってくる。
でもって、しばらく、無言で意見交換して、私とホテルマンの間に、なんていうか、ある種のシンパシーのようなものが醸し出された。
『あなたなら、私の苦境をわかってくださるでしょう』と。
『わかるけど、私には対処できないから。逃亡しますから』と。
で、こんな叔母のこんな状況を押し付けられても困るから、私も必死で、
『別の人、別の人』てな視線を送るわけ。
しばらく、無言のやり取りを経て、
「奥様は、よろしければ、別室でおやすみなされるのは」と、ホテルマン、私に向かって語りかけてきた。
私? 私、いくらでも別室で休むわよ。逃亡者になる。ぜったいなる。
この太郎のいい話を聞いたあとで、優ちゃんの気持ちを知ったあとで、この異常な叔母退治を任せられるくらいなら、いくらでも逃亡するから。
で、私、すっとぼけて立ち上がろうとした。
ホテルマン、それは違うと、目で合図してきます。
必死の形相で、ここ冗談にするところじゃありませんからと。
「優ちゃん、お母さんの気分が悪いようね」
オババが口を挟んでくれた。
ホテルマンがほっとした表情を浮かべた。
もう、あんたみたいな役立たずに用はないと、見る目がなかったと、速攻でオババに顔を向けた。
「申し訳ないですね。お騒がせしました。暑さで、持病の発作が出たんだと思います」とオババ。
どんな持病の発作ですか。ダメ出し持病って、そんな病名、聞いたこともないですが。
「勝江(仮名)!」
と、その時、オババがするどく叔母の名前を怒鳴った。ホテルマン、また青ざめた。その声、レストランから、おそらく外まで響いた。
彼、自分の見る目のなさに、再度、後悔したにちがいない。
あはは、常日頃の私の苦労を思い知ったか、ホテルマン。これはな、君の長いホテル生活でも、最大級の厄介な人物たちだ。
さて、怒鳴ったオババに話を戻そう。
低く断固とした声に、叔母はぎょっとした表情をうかべて、口元を抑えた。
その顔は奇妙にゆがみ、普段の優しげな表情は微塵もなく、シワが寄った顔は一気に10年ほど老けた。
息も乱れている。
ロッキーの連打を受けて耐え切ったような、そんな表情。
「ママ?」という無邪気な声に、叔母が優ちゃんの手を掴んだ。
「ママ、痛い」
「勝江、ここにいたいの。それとも、出て行きたいの」と、オババ。
叔母はぜいぜいと息を吐き、それから、咳き込んだ。やっぱ、オババの妹だ。ヒャッハーだ。
落ち着かせようと、恐る恐る私が水を差し出してみた。それを、一息に飲みこみ、ドンっとテーブルに置いて、それから、椅子に腰を下ろした。
「もう大丈夫です」と、オババがホテルマンに伝えています。
「お客様、ご気分が悪いようでしたら、すぐに……」
「ご心配をおかけしました」
納得していないだろう。しかし、ホテルマンは慇懃な笑顔をみせた。次はないぞってな顔だ。最後に私を見て、確認のサインを送ってきた。
なんで、私よ。
そうして……、
周囲のレストランにいる観客たちも、恐る恐る何事もなかったかのように、それぞれの会話にもどった。おそらく自宅に戻って、「今日ね今日ね」みたいな噂するだろう。今は黙して、それぞれの食事をしている。
(つづく)
【米国ドラマ『逃亡者』】
1963年放映の米国ドラマ。のちにリメイク版が1993年に制作。
妻殺しの濡れ衣を着せられたエリート医師リチャード・キンブル。犯人を突き止めるために、警察の追跡を逃れながら全米を旅する物語。
主演:ラリー・ハグマン




