掠めとる愛 1
出張が終わりジャカルタから日本に帰国したその夜、死んだ母の声を夢で聞いた。
『裕也、お父様に今夜は一緒に寝ましょうってお願いしてね。ご本を読んで下さいって、そう言ってね』
母はそう言っていたから、幼稚園の頃の記憶が夢になったのだろう。
ダイニングテーブルには昨晩江島瑠衣から返された合鍵がある。
「日比野さん、お帰りなさい」
そう彼女に言われたことも、今朝の夢を呼び寄せるきっかけになったのかも知れない。
『朗さん、お帰りなさい』
『ただいま。二人とも変わりはなかったかい』
母の出迎えを受けて夜に三つ揃いのスーツ姿で帰宅する父は、子供心にも格好良く見えた。
父をとても好きだったけれど毎日会えるわけではなかった。
一緒に風呂に入って、木のベンチがあるダイニングテーブルで夕食をとる。
いつもは母と二人差し向かいの食卓には食器の数が増えて賑やかだ。
メニューも大人向けのものだしビール瓶や徳利も並ぶ。
物珍しくビールの泡を眺めると、グラスを持つ笑顔の父と目が合う。指で掬って舐めてみたビールの白い泡が苦いと知ったのもこの頃だ。
ある時父は俺に言った。
『裕也の名前はな、父さんの一番大切な友達の名前を貰ったんだよ』
「じゃあその人も裕也」
『そうだよ』
「その人と今も遊ぶ?お仕事するの」
『今はもういないんだ。だからもう遊べない。二十歳の時に海で亡くなったんだよ』
「もう遊べないの?じゃあ遊びたい時は僕といっぱい遊ぼう。お父様、ご本を読んで」
別段、母の差し金でなくともそう言った。
『裕也が好きなのを持っておいで』
相好を崩した父は布団の横に寝そべって、好きな絵本を読み聞かせてくれる。
気に入った本を何度も「もう一度読んで」とせがんでも無下にせず応じてくれた。
週末には動物園に連れて行ってくれたり、公園でボール遊びをしたり自転車の乗り方を教わったこともある。
父は愛人の子の俺を溺愛していた。
でも、夜に隣で『おやすみ』と言ってくれたはずなのに朝起きると姿がない事も多かった。
母に「ねえ、お父様は」と尋ねると『もうお出掛けしたわ、お仕事よ』と言われるのが常で、そんな時は母の目が赤くなっていたのを覚えている。
今はわかる、あれは泣いていたせいだ。
亡くなった母は綺麗で涙脆い女だったけれど、子供の俺にあんな入れ知恵をしたのだから強かな面もあったのに違いない。
父が本宅で待つ家族と分け合うはずの時間を奪っていたのだから。
携帯が鳴り、目覚めて最初の煙草を吸いながらの追憶はそこでシャットダウンした。
兄の司からだ。
「おはよう裕也。今夜はこっちで夕飯にしないか。遥も来るし、母さんと二人で料理するって言うからさ」
今日はこちらでの仕事の後に都内で父と合流する予定だった。
「あー、あいにく今日は用事が済んだらすぐ戻るつもりだったから、またそのうちに。すみません兄さん」
「そうか、ならまた今度。お前も忙しい体なんだし、ちゃんとした物食べろよ」
遥が来る、か。
堂本遥は兄の司の婚約者で、司より八歳年下。
俺よりは二歳年上で父親は実業家。
家同士の付き合いがあって彼女は高校くらいからの俺を知っていた。
お互いの家ではここ数年来、司との婚約フラグが立っていた相手だけど、正式に話が動き出したのはごく最近のことだ。
でもそんなフラグが見え隠れしだした、俺が大学三年の夏。
夏休みでたまたま実家に居た時に遙が訪ねてきた。
なぜあの時に顔を合わせたのかは覚えてないけど、庭の片隅で彼女に聞かれた。
『裕也くん、今度の花火大会は誰かと観に行くの?』
「いや、今のところ花火観る予定もないな」
『情緒ないこと言って。それじゃあTホテルの最上階の部屋で一緒に観ない?夜景の上に花火が上がるのが見えるわ、素敵だと思わない』
スカイツリーも臨めるラグジュアリーなTホテル。
そこの部屋を押さえてパーティピープルが集合っていう流れかな、花火が打ち上がるたびにシャンパンを開けてキャアキャア騒いで。
「パーティとかするの、僕はそういうの苦手。司は付き合ってくれないの?」
『違うわ、パーティじゃない。私と裕也の二人だけ。司さんには言ってないわ』
その頃にはもう、遥は長男の司と結ばれるべき相手という暗黙の了解があることを遥自身が知っていたはずだった。
「無理」
『裕也お願い、一度だけ』
「無理だって」
『どうして、前にキスしたじゃない。それだけじゃないよね』
それはまだ俺が高校生で遥が女子大生だった時の事で、その時は夏休みに二人で花火大会に出かけた。
花火を見て、明滅する光と轟音と歓声の中でキスして。その後彼女と寝た。
「覚えてない」
『嘘つき。私、もうこの先裕也を引きずるつもりなんかない。恋愛はしても結婚は家同士のこと。一人では決められないってわかってる。今度だけ、それでもう忘れるよ』
微かな風に庭の赤い夾竹桃の花が揺れる。
毒喰わば皿まで、そうならないように、と言うみたいに。
「遥さん、自分が何言ってるかわかってる?愛人の子の俺なら話に乗るとでも思ったのか。あんた、馬鹿か」
『馬鹿だよ。裕也を好きなだけの、ただの馬鹿な女だよ』
「勝手な理屈並べるな、俺は帰る。今の事はもう忘れた」
その場で踵を返し実家を後にした。
遥の両目が潤むのに気づいても、暴言を並べてできる限り冷たく全身で拒否した。俺にできる事はその程度だったから。
あの日から暫くの間、俺は遙と顔を合わせる機会を避けてきた。
遙は賢い女だから、あれっきりプライドを捨てるような真似はしなかった。
高校の頃の俺は周りなんか見えてなくて、出自や周囲の噂にコンプレックスを感じるただの弱っちいガキだった。
司と母と、二人の悲しみを知らなかった。
今はもう違う。日比野の家族から愛情を掠めとるのはもう嫌なんだ。




