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小さな熱い舌 3

 日比野の部屋のダイニングテーブルに彼から預かった合鍵がある。

 あれから数日後、彼がジャカルタ出張へと旅立つ日の朝にチャットアプリでメッセージが来た。

「おはよう。これから出掛けます。二週間マールのことをよろしく頼みます」

 瑠衣はその日から朝と晩に日比野の部屋に行ってマールの世話をし、今朝も立ち寄ってから出勤するところだ。

 最初は瑠衣が部屋に入ると廊下に現れて遠巻きにこちらを伺っていたマールは、数日経つと瑠衣のそばに来ておとなしく座っていたり、フードの缶詰を開けていると脚に身を擦り寄せて甘えるようになった。

 日毎に少しずつマールが慣れてきてくれるのが嬉しい。

 今朝も瑠衣が新しく入れ替えたばかりの水を小さく音を立てながら飲んでいる。

 主人がいない部屋にポツンと過ごすマール。

「お仕事終わったら早く帰るから、待っててね」

 そう声を掛けて瑠衣はブルーのストラップ型のキーリングが付いた合鍵を手に取った。


 ある日海斗から電話が来た。

「キョウっていう俺の仲間が瑠衣に会いたがってるんだ。ちょっとうちに来れない?」

「仲間ってクリエイターの人、どうして私に」

「瑠衣のフォトブログやD化粧品のCMを見てて会いたいんだって」

「そうなの、いいよ」

 時間を合わせて海斗の住居兼撮影部屋を訪ねると、初めて会うほっそりとした子が待っていた。

 身長は瑠衣と海斗より十センチくらい高いとても綺麗な子で、セミロングの茶髪を巻き髪にしてカラコンを入れた瞳は大きく見える。

 メイクも上手だし私よりちょっと年上なのかな。

 脚も細いし、同系色のベルトでウエストマークしたラベンダー色のニットワンピが可愛い。

 この服はうちのショップでも置いてる物じゃないかしら、と瑠衣は思った。

「キョウです、初めまして瑠衣ちゃん。ねえ海斗、実物めっちゃ可愛いー、僕感動した」

 ピョコンとお辞儀してそう言ったキョウの声は意外にトーンが低かった。

 それに、僕って言ったよね。

「江島瑠衣です。キョウさんこそ、そのワンピとても似合って可愛いです」

「瑠衣、キョウ可愛いだろ」

「うん。でも今、僕って。それともまた海斗の悪戯」

「ちげえよマジだって、本物のキョウだよ」

 海斗がそう言いキョウも目の前でニコニコしながら「そうだよ瑠衣ちゃん。僕、男なんだ」と言った。

「キョウさん本当に?」

「キョウ、でいいよ。僕も瑠衣って呼ばせて。僕、君に頼みがあって来たんだ」

「私に出来ることですか」

「君さえよければ、なんだけど。瑠衣ちゃんに僕の動画チャンネルに出て欲しいんだ」

「え、動画に」

「ウエーい。いよいよ瑠衣もこっち側になるか」と海斗がソファの上で飛び跳ねる。

 びっくりした、でもどうして私なの。

 モデルの私を知ってるから?それにしても。

 それからキョウは自分のことや動画で何をしたいかを話してくれた。

 キョウは二十一歳の男の子。

 幼い頃から可愛いものが大好きで、スカートとかワンピースとか女の子の格好で居るのが自分自身にとって自然な事だった。

 小学校、中学校と成長するにつれてその気持ちは強くなるばかりで、周りにからかわれたり悪口を言われても止めることはできなかった。

 動画投稿は高校生の頃から始めた。

「僕、性同一性障害なんだよ。瑠衣ちゃんはすっごく可愛いから女の子として憧れてる。僕のこと気持ち悪くない?」

「気持ち悪くなんかないよ。キョウ、私より全然メイクも上手だし綺麗だよ」

 それにキョウはいい匂いがして動作も女の子らしくて違和感がない。

「ありがとう。意識すると高い声も出せるんだよ。お金貯めていずれは体も直したいと思ってるの」キョウはさっきよりも高い声で話して聞かせてくれた。

 デザインの専門学校を卒業したこと。

 ファッションやメイクが好きで服も自分で作ったりするし、今は美容系やファッションの動画を挙げていること。

「それで僕が瑠衣とやりたい事はね、動画で見るファッション誌を作りたいんだ。時々瑠衣と一緒にお洒落したりヘアメイクしたり、お洒落な場所や面白そうな場所に行って紹介したり。時々、自作の服でファッションショーもしたいね。フォトブログにも挙げたいと思ってる」

 キョウは自分のラップトップを開くと、過去の動画や自作の服なんかの沢山の写真を見せてくれた。

 キョウの話にはすごく興味を惹かれた。

 でも動画に出演するって事は簡単じゃない。

 CMよりもっと長い時間顔を見せるっていう事だし、撮影するには時間も必要だし、キョウが納得いくものにできるかなと心配になる。

「それに、私が出て評判が悪かったらキョウに迷惑がかかるでしょう」

「瑠衣、僕もプロだから色んな声があるのはわかってる。今だって女の子の格好でチャンネルやってて相当エグい事も書き込まれたりしてる。変態、とかさ。僕と活動する事で瑠衣が何か言われることもある。だからよく考えて決めてね」

 キョウは海斗が前に言っていたのと同じことを言った。

 自分と繋がりのない数えきれない人の視線、自分が何者か特定されない場所に吐き出される言葉。

 釘みたいな刃物みたいなガラスの破片みたいな言葉。

 瑠衣は再び自分を傷つけた言葉を思い出した。

 でも、今度はもう一つ、全く別の言葉が胸のうちに蘇った。


『生まれたなりに生きてくしかない』


 キョウは自分を活かして生きていこうとしている。

 確かに怖さもある。けれど私も、傷つけてくる言葉に負けないで自分を活かしてみたい。

 瑠衣はキョウと活動してみることに決めた。

 色々話し込んでいたせいで外はもう暗くなり、帰り道はキョウが送ってくれた。

 女の子同士連れ立って歩いているようにしか見えないけどキョウは「僕、これでも一応空手習ってたんだよ」と言った。

「瑠衣はどこに住んでるの」と聞かれて、S町に暮らしている事とその経緯(いきさつ)を話した。

「日比野裕也さん、知ってる。海斗の実家で遊んだ時に会ったことがあるよ。日比野グループのスーパー御曹司でめっちゃカッコいい人でしょう」キョウの瞳がキラキラ輝いた。

 スーパー御曹司。

 この前聞いた日比野さんの家の話を思い出す。

 華やかな場所で会ったことはないけど、日比野さんは間違いなくセレブだよね。

「瑠衣、これはちょっと内緒だけど僕、日比野さんすごくタイプなんだ。あの人、彼女居るのかなあ」

「それは私もわかんない」

 彼女が居たらマールの世話を私に任せたりしないか。

 いや、居たとしてセレブのお嬢様でペットの世話をさせるような人ではないのかも。


 その夜もまたマンションのエレベーターを十階で降りると合鍵を回した。

 玄関灯を点けると「ミャオウ」と啼き声がしてマールが三和土のところに来ていた。

「マール、ただいま」と言うと「ミャオウ」と答えるように啼く。

 瑠衣はその場に屈みこんで背中の毛並みを撫で、喉を撫でた。

 目を細めたマールはゴロゴロ喉を鳴らす。

 いつものようにトイレをきれいにして、新しいフードを開けてやる。

 でもお皿にはフードがいつもより残っていた。どうしてだろう、飽きたのかな。

 ここで一緒に食べようと思ってコンビニで買った晩御飯をレンジで温め、瑠衣も食事しながらマールを眺めていたが、具合が悪そうには見えない。

 日比野さんが出掛けてからもう一週間以上になる。

 そんなに人懐こくはないけど、猫も寂しいって感じるのかしら。

 食事を終えた後もマールはそばの床に座って毛づくろいしていた。

「ねえマール、パパが居なくて寂しくなったの」

 床に横坐りしてブラッシングしてやりながら話し掛けたら金茶色の目が瑠衣の姿を捉えた。

 パパって言ってしまったけど、日比野さんはパパって感じじゃない。コーチだ。

 そう思って可笑しくなったら足に重みを感じて、横坐りした膝の上にマールがよじ登ってきた。

 わ、こんなの初めて。

 喉を撫でようとした指先をマールに舐められ、小さくザラっとした感触が走った。

 熱い舌。湿った鼻先。

 膝の上に丸くなったマールの体温と重さを感じる。

「やっぱり寂しかったんでしょう」そう言ってみたけど知らん顔された。

 可愛いけど、どうしたらいいんだろう。

 膝を占領された瑠衣は、そのまましばらく動けずにいた。


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