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小さな熱い舌 2

「そう。そうしたら次にこの新しい砂を入れて」

 日比野に言われて、瑠衣はザラザラと音がする丸い灰白色のトイレ用の砂粒をケースに移した。


 彼のジャカルタ出張が迫り、今夜は日比野の部屋でマールの世話の仕方を教わっている。

「ペット飼うってやっぱり大変なんですね。色んな事に気を回さないといけないし」

「その分お前に癒されてるもんな」

 いつの間にかそばに来ていたマールの喉を日比野が撫でる。

 金茶色の目を細めたマールはゴロゴロと喉を鳴らして彼の脚に頭を擦り付け、足元にごろりと寝転んだ。

「お前甘えてるな。ちょうどいい、ブラッシングするか。その箱からブラシ取って」

 瑠衣がマール用のケアグッズの箱からブラシを渡すと、床に腰を下ろした日比野はマールの毛並みをブラッシングし始めた。

 マールはゴロゴロいいながら目を閉じ、されるままになっている。

「ふふ、気持ちいいんだね。私もやってみていいですか」

「いいよ、ほら」

 日比野からブラシを受け取り瑠衣もやってみると、マールの黒い毛並みに艶が増す気がして、ブラシを持つ手にはホワンと高い体温を感じる。

 マールの温もり、気持ちよくて落ち着く。

 そのうち私もペット飼いたいな。

「寂しいとこうやって甘えてくるかもな。余裕があったら構ってやって。箱におもちゃもあるし」

「はい」

「いっぺんに教えたから、分かんないことがあれば聞いてくれ」

「はい」

 そうしてチャットアプリのIDを交換している時、

「瑠衣、今日は元気なくないか」

そう言われて瑠衣は日比野を見上げた。

 尋ねてきた彼はさっきまでマールに見せていた笑顔ではなく真顔だった。

「え、私何か変ですか」

「まあお前と顔合わすのも一週間ぶりくらいか。これまでの疲れでも出たか」

 確かに母の病院に面会に行って以来、ずっと気持ちに針が刺さったみたいだった。

「そんな事ないです。でも日比野さん、私できるだけ早く住むところ見つけますね」

「何を焦ってる。期限なんてないって言っただろ」

「はい。でもちゃんとしなきゃ」

 日比野の真顔が少し険しくなり、そして「ちょっと手を洗って来い。落ち着いて話そう」と例のコーチみたいな口調で言った。

 私、また日比野さんをイラっとさせるスイッチを押しちゃったのかな。


 手を洗って戻ると、この部屋に違和感を醸し出すあの使い込まれた木製のダイニングテーブルに向かった日比野が「ここに座って」と言い、対面のベンチに瑠衣は腰掛けた。

「お前、何をそんなに思い詰めてるの」

 さっきと違って静かに聞かれた。

 そう言われても正直、この前の母とのやりとりは口にしたくもない。

 何から話せばいいのか迷って瑠衣は言葉を返せず日比野もしばらく黙っていたが、「話せる事だけ言えばいい。俺は別に誰にも言わないし、お前の言葉を信じるから」と言った。

 そうだ、なら知りたい事から聞こう。

 日比野さんがどういう人なのかをまず教えてもらおう。

「この前、入院中の母に火事のことを話したんです。日比野さんに助けられたことも。でも、母にあなたがどういう人なのか聞かれて私、ちゃんと答えられなかった。だから、あなたの事を教えてください」

「そういう事か」

 日比野は立ち上がると居間を出て、すぐに取って返した。

「お母さんにこれを渡してあげたらいい。はい、お前にも」そう言うと名刺をくれた。

 ええと、日比野グループ日比野地所開発都市再開発事業部事業推進課係長、日比野裕也。

 これが彼の勤め先と肩書き。

「日比野地所開発って、CM見たことあります」

「そうか。お母さんにしてみれば、得体の知れない男が娘に近づいたって心配したんだろうな」

 私を心配?そんな風には思えなかった。

「それで叱られたのなら悪かった。面会させてもらえるなら明日にでも挨拶に行く。出張に発つ前に」

「そんな、いいんです。いただいた名刺を母に見せます」

「顔を見せた方が早くないか。何の裏もないし心配いらないって分かれば……」

「心配なんかじゃない。母は私がお金持ちの男の人の世話になってるって疑ったんです」

 思わず日比野の言葉を遮ってしまった。

「世話に?ああ、そういう事。でも違うって言ったんだろ」

「言いました、違うって。それなのに」

 蓋をしていた気持ちが騒いで沸騰しそう。

「やっぱり俺が説明しようか、お母さんに」

 日比野さんはこういう人なんだ。

 でもそれを母が真っ直ぐに信じるだろうか。

 私に向けたような目で、日比野さんを見てほしくない。

 この人が差し出してくれた善意が汚れる気がして、それだけは嫌だ。

「私はもういいの。でも母が日比野さんに同じ事を言って嫌な思いさせるかも。それは嫌なんです」

「俺は別に傷つかない。慣れてるからそういうの」

「慣れてるってどういうことですか」

 彼の言う意味がわからない。

「瑠衣、俺がどういうやつかって言う話の続きをしていいか」

 確かにそうだった。


 日比野さんの父親は日比野(あきら)という財界人だと知った。

 その朗氏は、日比野グループという、商社や観光、IT事業など様々な分野で事業展開する複合企業体のトップに君臨する存在で、第一次大戦前から何代にもわたって続く日比野一族の本家の当主でもある。

「実家には父と義理の母と、(つかさ)って言う十歳年上の義理の兄がいる」

「義理のお母さんとお兄さん、ですか」

「そう。兄とは腹違いの兄弟なんだ」

「日比野さんのお母さんって」

「俺はもともとは外崎(とのさき)裕也という名で、ここで母親と二人で暮らしてた。瑠衣、俺の母は日比野朗の愛人だった」

 日比野さんのお母さんが愛人だったの。

 つまりこの人は。

 だからさっき、そういうのは慣れてるって言ったの。

 でも慣れてるって、そういう目で見られたり誰かに何度も言われてきたってことなんだろうか。

 愛人の子って。

「真っ当に生きてる人から見れば俺は穢れた存在なんだよ」

「違います、日比野さんは穢れてなんかいません。良い人です」

「ありがとな、瑠衣。お前がムキになるなよ」

「だって……」

「俺も高校くらいまでは考えた。自分は罪が形になっただけの存在だ、とか絶対に結婚なんかしないとか」

 そこまで話して日比野は立ち上がるとキッチンで煙草を吸った。


 自分は罪が形になっただけの存在、だなんて。

 そんなふうに悩むのは、酷く辛かっただろうな。

 煙草のついでに彼はお湯を沸かすと、ガラス製のティーポットをテーブルに運んできた。

 ポットの中の茶葉が花のように大きく開いて変わった香りがする。

「これ何のお茶ですか。葉っぱが面白い形」

「ジャスミン茶。工芸茶と言って、こういう形になるように細工してある。台湾のお茶だよ」

 香り高い熱いお茶は心を鎮めて温めてくれた。

「おいしい。お茶、好きなんですか」

「中国茶は割と好き。亡くなった母がお茶好きだった影響かもな」

「お母さん、亡くされたんですか」

「そう、俺が小六の時くも膜下出血で。夜中に親父と救急車に乗って運んだけど駄目だった。ここの二つの部屋は母から受け継いだものだ。瑠衣がいる部屋は母が華道教室をやってた場所なんだ」

 日比野さんの事がわかってきた。でもお家のこととか聞いて良かったのかなとも思う。

 私がモヤモヤしていると気付いたから、それを何とかしようとして話してくれてるの?

「日比野さん、個人的な事色々聞いてしまってすみません。これ以上は、もう」

「構わない。今言ったことはみんなお前のお母さんにも話していいから」

 カリカリと、離れた場所で何かの音がした。

「何か音がする」

「あれはマールが爪研ぎしてる音だな。瑠衣、少しは落ち着いたか」

 日比野がこちらを見て笑いかけた。

 白い歯が見えて、左眉の方が右側より少し上がる。

「はい」

 うなづくと確かに気分がすっきりしていた。

「お前は別に後ろめたい事はしてない。だから黙って傷ついていなくていい」

 そうだ。私、何も後ろめたい事なんかしてない。

「日比野さんはしばらく悩んで、それからどうやって乗り越えたんですか」

「結局は開き直った。生まれたなりに、俺は生きてくしかないって。親は選べないし、罪から生まれたとしても愛されて何が悪いってさ」

「そうですよね。親は選べない」

 でも日比野さんは、愛されたという思いがあるのだ。

 私は母に愛されてきたって思えない。

 物心ついた時から、母のためにできることをいつもいつも探して来た。

 けど、それすら母には伝わっていたのだろうか。

 日比野さんは自分を穢れた存在って言ったけど、それは絶対に違う。

 本当に穢れているのは私の方だ、と瑠衣は思った。

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