第五十一話 長い一日の終わり
シエルが見せたアナンタの記憶の旅から戻ったナーガからは、今まで見せていた怒りの感情がすっかり消え失せていた。
俺がその中でクラリスと会ったように、ナーガもまた、在りし日のアナンタと話してきたらしい。
アナンタは当初、後世に無用な混乱を招かぬよう、自らの持つ竜の魂は継承しないつもりだった。
自らの死期を悟ったアナンタは、第二子であるクラリスを産むことを自らの最後の仕事と覚悟していた。
しかし今まさにクラリスを産み、自らが力尽きようとする時、その自らの持つ未来視の力は、将来娘に降りかかる苦難を感じ取ってしまったのだ。
生まれ来る娘の苦難の道を不憫に思ったアナンタは、クラリスに自分の持つ竜の魂を継承する事を決断した。
しかし十分な時間も準備もないままで施された力の継承は不完全であり、生まれ出たクラリスは、母から渡された竜の魂と力に長い間気付くことは無かった。
それが初めて目に見える形で具現化したものが、あの俺と出会う前に見たという繰り返される夢だったのだ。
ナーガはアナンタの思念から全てを聞き、そして「娘の望みを叶える手伝い」を願われた。
それを聞いたナーガにもう迷いはなく、改めてクラリスを蘇らせる事を決意したのだった。
さらにその後、クラリスの魂とも出会い、俺がいかに素晴らしい人間であるかという講義を小一時間されたらしい。
話を聞く限りだと、クラリスの中での俺は実物の百倍くらい美化されているようだ。
女の子に好かれる事自体はもちろん嬉しいのだが、クラリスの場合はそれが行き過ぎていないか少々不安になってくるな……
そして落ち着いたナーガと、ここに至るまでの経緯について色々話し合った。
ナーガに俺の居場所を教え濡れ衣を着せたのは、思った通りロシュフォーンの第一王女、イザベラだったようだ。
彼女は涙ながらに「妹の敵を取ってくれ」とナーガに懇願したらしい。まったく随分と役者な事だ。
「ノアよ、全ての事はアナンタ姉様とクラリスより聞いた。
どうやら間違っていたのは私の方であったようだ。済まなかった、深く詫びよう」
ナーガは立ち上がって俺に向き直ると、深々と頭を下げた。
先程からの変わりように驚きつつも、その潔さに高潔なものを感じ、感心する。
ナーガは地位的には雲の上の存在だ。恐らく対外的にはネルソンよりも上に置かなければいけない存在のはず。
それが俺のような道端に転がる石のごとき相手に、過ちを認め頭を下げるというのは誰でも出来ることではないと感じる。
何せこの世界の上位の人間は、たとえ自分が間違っていようと目下の人間に謝ることなどまず無いのだ。
「多少行き違いはあったが、誤解が解けて良かったよ」
こちらは勘違いで殺されかけたのだが、今ここでそれを蒸し返すのも大人げない。
幸いにも皆無事だったのだから、ここは俺も歩み寄るべきだろう。
「そう言ってもらえると助かる。他の皆にも迷惑をかけた、この償いは必ずさせて頂く。
今日来ていた王族には明日、私から事情を説明しておこう」
そう言って一人一人頭を下げて回る。
一番の問題であった王への説明はナーガが行ってくれるという事で一安心だ。
あの場には限られた人間しかいなかったが、龍が降りてきたところや、戦闘中のあの咆哮などは他に気付いた人間がいてもおかしくない。
妙な噂が広がる前に、何でも無かったと本人から言ってもらえればそれに越したことは無いのだ。
「フェリスよ、申し訳なかった。私の早とちりで貴殿の主人を傷つけてしまうところであった、許してほしい」
ナーガがフェリスに向かって頭を下げる。
フェリスは怒ったように目を細め、何かをこらえるように歯を噛み締めたが、ふっと気の抜けたようにため息を一つ付くと組んでいた腕を解いた。
「主が良いと言うのなら……まあ良い、結果として大事にはならんかったからのう。
貴様が天族の犬ではないと言う事も分かった。だが完全に許した訳ではないぞ、主の為を思えばと我慢しておるだけじゃ」
「分かった、この件でノアの立場が悪くならないよう取り計らおう」
あの龍からの攻撃があった時。
間一髪でシエルの救援が間に合ったとは言え、直前までフェリスの心は絶望で埋め尽くされていたはずだ。
立場を逆にしてみれば分かる、俺だってフェリスが殺されるとなったら……きっと正常ではいられない、そんな事考えたくもない。
「それにしても、やり合うのは初めてだったが、さすがは名高いブラッディクィーンと言うべきか、私の攻めをあそこまでやり込めるとはな」
「ふん、竜族は噂通りの化物じゃったわ。殴り合いでも及ばぬとは……それとその二つ名は止めよ、もうそれは捨てた」
「そうなのか? 分かった」
そんな昔の同僚同士のような会話の後に、二つ名との決別をナーガに伝えるフェリス。
なんだか居心地が悪そうにソワソワしている、そんなに気にしてたのかブラッディクィーン(笑)かっこいいのに。
「ま、また主が妾を馬鹿にしておる! だから嫌なのじゃ、もう止め、止めじゃ、もう妾を二つ名で呼ぶでないぞ!」
半笑いの俺を見てプンプンと頬を張ってむくれるフェリスを見てほっこりする。
この調子なら完全に仲直りとは行かなくとも、すぐに仲違いするような状態ではないだろう、良かった。
「そう言えばフェリスと一緒にかかってきた人族がいたな、あ奴もなかなかの腕だったな。何という者なのだ」
「フラガ・シュトエリ、フェガロの千人長で、この国で一番強い男だって話だ」
「ほほう、後ろにいた連中も、姫すらも、逃げるどころか私に向かって来ていたようだし、面白い人材が揃っているのだなここは」
竜族に褒められるなんて、やはりフィガロ最強の名は伊達ではないという事なのか。
しかしあの戦いを振り返ると、人型のナーガだけならフェリスとフラガとあと一人くらい同じような強さを持った人間がいれば、もしかしたら勝てたかもしれない。
そう考えると竜族とは言っても、力の差がありすぎてどうにもならない……という程ではないように感じる。
もっとも、フェリスやフラガなどと同じレベルの実力者を三人集めるってのがもう現実的ではないが。
それに、人型のナーガだけならだ、あのでかい龍は空を飛ぶ以上、何人いようがどうにもならない。
「そう言えばナーガ、あのでかい龍は一体何なんだ? 過去の記憶を見た時も、竜族は皆でかい竜に人が乗っていたが、どっちが竜族なんだ?」
眼の前にいる人型がナーガなら、あの龍は何と呼べばいいのだろうか。
そう考えて質問すると、ナーガは訳が分からないといった顔をして答える。
「ナーガだ、水龍ナーガ、言っただろう」
「いやでもそれは目の前のあんたの事だろ」
そこまで言うと、ようやく合点がいったように一つ頷く。
「我々竜族というのは、この人型の体と竜の体、二つで一つなのだ。あの大型の龍は私の半身なのだよ」
つまりあの龍は個別に人格があるわけではなく、ナーガの体の一部……右腕などと同じ扱いのようだ。
ちなみに詳しく聞くと、人型の体がどちらかと言えば急所になっており、情報処理に特化した構造となっているそうだ。
大型の龍は、主にマナを処理、加工する為の炉のような構造をしており、活動の為のエネルギー処理や飛行能力の制御などを主に行うらしい。
竜族の一番の強さとは、他の種族では届かない上空から、大量のマナを使用した大火力で一方的に攻撃できるところにあるのだとか。
そりゃ恐れられるわけだ。歩兵しかいない戦場に戦闘機が乗り込んでくるようなものだからな。
でもそれって……
「ズルじゃん」
「ず、ズルではない! それが竜族なのだ!
元はと言えば飛行型の天族にも対応できるようにこういう形に作って頂いたのだぞ。
まあ、地上で戦ったところで人族などに遅れは取らんがな」
「でもさっき苦戦してたよね?」
「きさまぁ、何が言いたいのだ!」
少しだけ余裕が出てきたので、試しに減らず口を叩いてみると、予想に反してナーガが乗ってきた。
多少苛ついてはいるが、こちらを無下にしている訳でもない。
ロシュフォーン王家の奸計に乗ってしまい、無関係な人間を攻撃した事への罪悪感があるのだろう。
茶番と分かっていてもそれなりに対応してくれてる、こちらに対してもう敵意は無いと言うのは本当のようだ。
「あ、あの、ナーガ様」
俺とナーガがじゃれ合っていると、その横から恐る恐るといった感じでカーナが声を挟む。
「うん? お前は確か……」
「か、カーナ・スローウェルと申します。ラギウス教会“聖浄なる血”の一団に所属しております」
「おお、聖団の人間であったか。スローウェルというと……帝国貴族の?」
「は、はい! ご存知でございましたか」
「うむ、そなたの父君と何度か話した事があるので覚えていた。貴族のご息女だというのに聖団で外回りとは感心だな」
「……ありがとうございます」
家の話が出た辺りでカーナの表情が少しだけ曇ったが、すぐに真剣な顔に戻り、ナーガに嘆願を続ける。
「ナーガ様に申し上げさせて頂きます。この度の件、聖団には全く関係の無い事でありますので、どうか処罰は私だけに……」
「……うん?」
目の前に来て膝を付き頭を垂れるその姿を見て、ナーガは首を捻った。
どうやらカーナが何を言いたいのかよく分かっていないようだ。
それが素なのか、とぼけているだけなのかは分からないが。
「わ、私は、ナーガ様に反逆を……」
「あの時の戦闘は忌々しい事になかなか忙しかった。視界の端でこの国の王女達の一団が“避難”しているのは見えたが、それがどうかしたか?」
「ナーガ様……」
「それにだ、此度の件は全ては私の勘違いから始まった事。謝罪すべきは私の方だ。
せっかくこの国で活動をし、教会の信用向上に努めていたそなた達の邪魔をしてしまったようだな、すまん」
どうやらナーガは全て分かっていたようだ。
カーナに対して頭を下げると、今度は別の意味でカーナが慌てだした。
「そんな! いけませんナーガ様、お顔を、お顔をどうかお上げください!」
「カーナよ、私はこの通り万能ではないし手も足りぬ。
これからも私に代わり、その力を人の善き事の為に使ってくれ」
「は、はい!」
ナーガが激励を行うと、カーナはまるで宝物を貰ったかのように目を輝かせ、何度も頷いた。
ラギウス帝国の人間にとって、竜族とは指導者であり守護者でもある。
絶対的なカリスマというのだろうか、カーナの態度を見ているとその存在の大きさが窺える。
……うっかり竜のくせにな。
「じゃあ、俺達はとりあえず帰るぜ」
「お邪魔しました。ナーガ様、皆様、失礼致します」
それから一通り必要な話もしたという事で、ガドラスとカーナが帰る事になった。
ガドラスは下町の宿にカーナを送り届けてから兵士用の宿舎に戻るらしい。
「ああノア、今日はちょっと遅くなっちまったから、例の話は後でな」
帰る際にガドラスがそんな事を俺に耳打ちしてくる。
今日は色々と世界の仰天真実を聞いたと言うのに、結局はそれが一番気になるらしい。
豪胆というかマイペースというか、まあガドラスらしいと言えばガドラスらしい。
「大変な事は分かったけどよ、そっちの話は正直俺じゃどうにもならねえよ。
せいぜい軍の中で顔広くして、何かあった時に動けるようにする程度だ」
「俺はそっちの人間関係的な能力はゼロだから、頼りにしてるよ……」
「任せとけ、ああそうだ、ロックの奴がなんか女にプレゼントするのにいい店無いかって言ってたぞ」
「何だって? あいつそういうの得意そうに見えるのに意外だな」
「奴の中でノアは人生の先生みたいなもんだからな。美人の嫁を何人も作ってるって感じで」
「俺の人生は誰の参考にもならないってのに……」
大の男二人でヒソヒソ話をしながら今後の予定を立てていたところ、帰宅の用意が済んだカーナに訝しげな目で見られたのでその場は解散となった。
男同士の話は気を使わなくて済む分楽だ。
以前はガドラスみたいなタイプは最も苦手な部類だったのだが、今や一番何でも話せる男仲間になっている。
人生とは分からないものだ。
ガドラス達を見送り、家の中に入って伸びをする。
今日は朝から色々ありすぎていささか疲れた、さっさと風呂にでも入って寝てしまおう。
そんな事を考えていると、フェリスが静かに寄ってきて俺の隣にくっついた。
腕に手を絡め、ぴったりと体を付けて来る、どうしたと言うんだ?
「主よ、おつかれであったの……それでのう、あ、主よ」
そう言って俺を見上げる目は僅かに潤んでいる。
それを見て俺は全てを悟った。これは間違いない、YES、NOで言うところのYES状態だ。
今日は激しい戦闘があった上に、絶望的な場面もあった。
無事に終わったとは言え、こういう日は体をくっつけあって生の喜びを感じていたいのだ。
なんだかそう考えたら俺もすごく感じたくなってきた、生の喜びをな!
俺は素早く周囲を確認し、状況を確認する。
ナーガとユミナが座って何かを話しており、シエルは後片付けが終わって夜食をメイアがいる離れに持っていっている。
「ナーガ! 今日はどうするんだ?」
「ん? なんだ突然……そうだな、明日フィガロ城に行くので、今日はどこかに泊まらんとな」
「じゃあ部屋開いてるから泊まっていくといい、風呂もあるぞ」
「なに! 風呂だと!? い、良いのか?」
「ああ、ついでにユミナと一緒に入ってもらえるか? ユミナ、ナーガを風呂に案内してやってくれ」
「はーい」
初対面みたいなものだが、特に物怖じした様子もなくユミナがナーガを風呂に案内する。
ナーガはユミナと何を話していたのだろう……まあいい、仲違いしているのでなければ無問題、今はそれよりもフェリスだ。
「じゃあフェリス、ユミナ達が出たら俺達も入ろう」
「う、うむ……」
そう言って腕に抱きつく力を強めるフェリス。
とてもいい、しかも今は偽装もしていないので金髪だ、俺の大好きな髪なのだ。
今日は大変な事になる……この後メチャクチャ夜戦してしまう、そう期待を膨らませていた俺達のところに、夜食を持っていったシエルが戻ってきた。
そしてフェリスの前に来ると、深々と頭を下げ――
「フェリス様、大変申し訳ございませんが、本日ノア様と寝所を共にすることをお許し頂きたいと思います」
それを聞いたフェリスの頬が引きつるのが見えた。
「……シエルよ、お主は昨日、主と寝所を共にしたはずじゃ。それを分かった上で言うておるのか」
「はい、誠に申し訳ございません」
表情は変わらないが、幾分苛立ちを含んだ声がフェリスから発せられる。
通常、シドー家では妻の序列に関わるような話は誰もしない、うちは貴族じゃないのでそこまで考える必要もないし、何より俺がそういった揉め事を望んでいない事を皆が知っているからだ。
しかしそれを保つには見えないルール、いわゆる“お約束”というものを皆が遵守しなければならない。
抜け駆けや、一人を優遇する、こういった事は家庭の秩序を乱すタブーなのだ。
しかし、シエルがそういった事を進んでするとも思えないが。
フェリスはそのまましばらくシエルを睨んでいたが、やがて諦めたように唇を尖らせると「フン」と鼻から息を出した。
「分かった、好きにするが良い」
「ありがとうございます、フェリス様」
シエルの正体が知れた今でも、家の中ではフェリスが第一婦人である事は変わりない。
そこはフェリスも譲る気は無いし、シエルも異論は無いようだ。
そこまで弁えているシエルがどうしてもというのであれば、何か理由があるのだろう。
事情も聞かずにシエルに譲ったのは、フェリスなりのシエルへの信頼の証なのだと思う。
そんな訳で、今日、俺は再びシエルの部屋で就寝することになった。
「……しかしメイアはほんとここで寝ないよな」
せっかくの高級綿ベッドだというのに、メイアは滅多に本宅では寝ない。
曰く「メス臭くて気が散る」だそうだが、メイアも十分メスの匂いが出ているのは黙っておこう。
「申し訳ございません、メイアは自分のやりたい事をやる……そういう約束でございますので」
「いや、別に気に入らないって訳じゃない、ただ昼も夜も離れに篭りきりで不健康じゃないかなと思っただけだよ」
「そうですね、たまには外に連れ出してあげると良いかもしれません」
なんだか犬猫の取扱を相談しているような気分になってくるが、気のせいだろう。
そんな事を考えていると、シエルはベッドの上で居ずまいを正しこちらに向き直り、深々と頭を下げる。
「ノア様、本日はご無理を聞いて頂きありがとうございます」
「いや、そこまでする事じゃないだろ、フェリスだって言うほど気にしてない……何か俺に話があるんだろ?」
「はい」
頭を上げ、しばらく俺の目をじっと見据えていたシエルは、ゆっくりと話しだした。
「一度魔界に戻ろうと思います」
――実家に帰らせて頂きます。
という話では無い。
今日一日で俺の周囲を取り巻く環境は大きく変わり、シエルを含め、いよいよ魔族であるという事を隠しておくのが難しくなってきた。
まだそこまで致命的な相手に露見はしていないが、真相を知る人間が増えれば、どこからどう漏れるか分からない。
幸い、ナーガの理解を得られたことで、しばらくはその威光で事を有耶無耶にも出来るだろうが、帝国所属のナーガがいつまでもフィガロに留まっている訳にはいかない。
それに、元々彼女はアナンタを助ける為にセシルの元に降った為、アナンタが亡くなり、その娘が陰謀に巻き込まえているとなれば、もはやナーガが帝国に縛られる理由は無くなる。
しかし今、帝国から離反して行動するのはリスクが高すぎる。
指し手を誤れば、セシルや他の竜族が動くかもしれない。
シエルはそれらの情報を元に、暗黒竜本体と今後の方針を協議し、シエルに課せられた行動制限の緩和を試みたいのだそうだ。
「この先、事態が急激に動く可能性があります。その場合、今の権限だけでは対応できなくなる恐れがあります。
万一に備え、ノア様をサポートできる権限の付与を行いたいのでございます」
魔界と呼ばれる特殊な世界に穴が空いたことで、暗黒竜本体も現在大幅な機能制限を受けている。
そして、こちらの世界を理解するために自身の下位存在であるシエルを作る際に、暗黒竜はシエル自身が世界に影響を与えすぎないように、様々な制限を設けたのだそうだ。
他の生命を攻撃できないというのは、その大きな制限の一つだ。
「私はこの二〇〇年の間メイアとともに旅をし、この世界のあり方はそれなりに理解できました。
そしてここに来て、ノア様と人としての生活を営むことで、人としてのあり方と言うものを理解しようとしております。
まだ理解を初めて日が浅く、不明な部分も多いのですが、それでも私は、この天族によってバランスの取られた世界が崩壊しているとは思えないのです。
世界の安定とは何か……私は今まで漠然と、外敵と戦うことで安定を保っていると考えておりましたが、今回の情報収集でその考えに疑問が浮かびました。
それを私の本体と協議したい、そう考えております」
シエルは熱心に自分の仕事について説明をしてくれるが、正直なところ俺にとってはピンと来ない話ばかりで理解出来ているとは言い切れない。
しかし何となく分かった事もある。
シエルは今日、この世界は天族によって歪になってしまったので、消去しなくてはならないかもしれないと言った。
だが今の話では、どうもシエルは今のこの世界を消したくないと考えているようだ。
「この世界を残したいのか?」
「はい」
俺の問いかけに即座に応えたシエルの目に迷いは無かった。
普通に考えればシエルのような超常の存在が何かしようとする際に、俺に同意を求める必要などあるはずがない。
何せこっちはシエルの言っていることが半分も理解できない無能者なのだ。
だがシエルは律儀に俺に同意を求めてくる。
あくまで人間という枠の中に自身を置いて、俺に接してくる。
俺にはそれがたまらなく誇らしく、そしてどうしようもなく嬉しかった。
それは俺のような凡百な人間が持つ、独占欲とか、支配欲とか、そういったモノをシエルが満たしてくれているからなのだろう。
シエルが成そうとしている事に比べたら何と安っぽい、取るに足らない事か。
だが良いじゃないか、実際に俺はその安っぽい人間で、人間というものはそういうモノなのだから。
シエルは俺に、神のような振る舞いなど求めていないのだから。
「戻ってきてくれるんだろ?」
「はい、必ず」
壮大な話はどうでもいい、ただシエルが消えてしまうのだけは勘弁ならない。
俺にとってシエルはいつの何かそういう存在になっていた。
これは独占欲だ……矮小な人間が持つ、どうしようもなく分不相応な独占欲。
俺はこの良く分からない経緯で一緒に暮らすことになった変なメイド嫁を……好きになっていた。
「シエル、愛しているよ」
「愛というものはまだ理解しきれておりません。ですのでどうかこれからも、ノア様の持つ全てを私に教えて下さいませ」
神の如き相手にせめてもの抵抗として放った言葉は、まったくもってシエルらしい返しで叩き落されたのだが
不思議と嫌な気分では無かった。




