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「なにか」
公爵がノックに応えると、「失礼します」と公爵家の家令が扉を半開きにした。
「伯爵家の侍女が、廊下で泣き崩れまして」
「セリカ?」
ミレディアが戸口に駆け寄ると、セリカを伴って戻ってきた。家令のことばどおり、セリカは声を殺して泣きじゃくっている。
「今の話を聞いていたか」
セリカは激しくうなずいた。
「私たちに伝えたいことがあるのだな」
「カサンドラ様が、こんな目に…あわされる…ないです!」
「おまえの知っていることを、推測でもよい、話しなさい。心配ない。必ず調べるから」
公爵の落ち着いた声に、セリカも激高を抑えたようだ。
「セントクレア様が、実家の男爵家からお連れの、従僕、セオと名乗っている方です。あれは女です。男のなりをさせていますが」
カサンドラは心底驚いた。無口な亜麻色の髪の青年。たしかに背も高くないし骨格も華奢だったような気がする。でも、女性?
「セオは、ダンもですが、セントクレア様の従僕として、ほかの使用人とは別扱いになっていて、部屋もそれぞれ頂いていて、それが、セントクレア様のお部屋の近くです」
「それは、私も承知しています」
カサンドラはやっと声を出した。
「セオはしばらく前、厨房のメイドに言い寄られて、自分は旦那様の恋人だ、と言いました。その話を聞いた使用人は、セントクレア様の、つまり、男色なのかと笑いました。カサンドラ様とは結婚なさっているので、それはありえない。セオの出まかせだろう、と」
「でも、侍女のメグがお休みで実家に帰った時、セントクレア様と町娘が、手をつないで宿から出てくるのを見かけたと」
「そういう『宿』なのだな」
公爵の問いにセリカが肩を怒らせてうなずいた。
「女は頭にスカーフを巻いていたそうで。メグはセントクレア様の外套を見知っておりましたので、さりげなく回り込んで顔を見たそうです。それがセオだったそうです」
「その日は、セントクレア様がご同僚の方の送別会で外泊したはずの日でした」
公爵はミレディアに目配せした。自身怒りに震えていたミレディアは、夫の合図で我に返り妹を見た。目はうつろのまま一点を見つめ、頬は青白く唇は土気色。まとったドレスがカサカサ音をたてるほど、体は細かに震え続けている。あわてて手を握るとまるで氷のようだ。
「カサンドラを寝かせます」
「そうしておあげ。侍女の方はこちらで」
姉の声だけが、まるで小さい子どもの時のように、枕元で聞こえる。両親が出かけた夜、風の音がこわくて、ふとんをかぶって泣いていた時、ミレディアが小さい母のように、ずっと話しかけふとんに手をいれてとんとんと叩いてくれた。コリンが生まれるより前。二人きりの姉妹だったころ。
眠ったのか気を失ったのか、はっきりしない翌朝。太陽はすでに高く、ぼんやり起き上がると、公爵家の侍女が温かい紅茶を運んできた。寝床で飲む贅沢な起き抜けの紅茶は、香りたかく、さわやかだった。かいがいしく起こされ、湯あみして、手触りのよい楽な昼着をまとう。髪はていねいに櫛けずられ、おろされたまま、ゆるくリボンで結ばれる。
まるで幼い少女のころに戻ったように。
鏡は見たくない。顔色の悪い、やせた、隈のできた、うつろな目の、馬鹿な女の顔など。
公爵家のお庭はすばらしい。そのお庭に面したテラス席で、美しい姉が待っている。
「おはよう、カシー。その色よく似あっていてよ」
好きな色は青。バラ色は地味娘には似合わない。滑稽だ。
「おなかがすいたでしょう。パンケーキを召し上がれ」
かわいらしいキツネ色のパンケーキ。まっ白なクリームの上にはキラキラ輝くイチゴ。
「トースト、ください」
「いいのよ、カシー。あなたがパンケーキを好きでいいの。ピンク色のリボンを好きでいいのよ」
姉はこよなくやさしい笑顔で甘やかす。
「いいのよ、大丈夫。安心していいの。好きなものを好き、嫌いなものをキライと言っていいのよ」
カサンドラはリボンをひっぱるのをやめた。パンケーキの上のイチゴはとても美しかった。
「おはよう、カサンドラ。よい天気だ。秋バラが見ごろなので、自慢のアーチをお目にかけたいな」
「公爵様」
「いやいや、オスカー義兄だよ」
「オスカー義兄様、お姉様……私、泊めて頂いて、ありがとうございます」
「カシーはとても疲れていたのよ。だから、しばらくはうちでのんびりしてほしいの」
「そうだね、カーレオンの家のことは心配しないで、私が責任を持ってあなたの代行を務めるから」
「お父様、お母様…コリン」
「大丈夫だ、みなさんつつがない」
「セリカ、セリカはどこですか」
「あとで呼んでくるわ。セリカも、とても疲れていたのよ」
「ああ、セリカはいつだって、私をかばって……家令のジョンストンも家政婦のアメリアも秘書のトマス、侍女のサラ、メグ……わ、私が不甲斐ない、情けない……」
「いいえ、あなたは頑張ったの。頑張りすぎて疲れたのよ。ね、少し休みましょう。私が前に言ったこと覚えていて?『どんなに強い人間にも弱る時はある』って。あなたには私がいるわ。オスカーも」
カサンドラはさめざめと泣いた。