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(九)八王子城

(九)八王子城

 大広間に集まった重臣たちは、一様に視線を床に落とし、不安げな表情を隠すことが出来なかった。

上座には誰もいない。ただ一畳の畳が置かれている。板敷で胡坐をかいた男たちは無人の畳の前で、誰一人として口を開くことはなかった。

横地監物もその一人だ。上座の一番近くに座して、眉間にしわを寄せて腕組をしたまま思索を巡らしている。

やがて大きな足音が聞こえてきた。この城の主、北条氏照である。駆けるような速足で畳に上がると、勢いよく座についた。重臣たちは一斉に拳を床に着けて平伏する。

「関白の軍が押し寄せて来る。軍勢は二十万を超えるという」

氏照は開口一番、挨拶もなく本題に入った。

「殿。ご案じ召されるな。成り上がりの猿関白なんぞ、追い払ってみせまする」

「そなたらの心意気は嬉しい。心強いぞ。なれど大坂に行った者は口をそろえて言っておる。時代が変わった、とな。秀吉の城は見たことがないほど大きく、誰もが度肝を抜かれているようじゃ」

「殿。弱気もほどほどにしていただきたい。城の大きさが何ほどのものでありましょう。大きい、というなら、御本家の小田原城も負けてはおりませぬぞ」

 重臣たちは頼もしい。だが中央の情勢に鈍感な意識があるのは否めない。氏照は言って聞かせねばならなかった。

関東惣(そう)無事令(ぶじれい)を知っておるか」

「存じております。猿めの寝言でござりますな」

「かつて、それぞれの地で覇をとなえ自立していた英雄豪傑どもが、今ではことごとく関白に臣従して、手先となって我らを攻めにやって来る。三河の徳川、九州の島津、四国の長曾我部(ちょうそかべ)

 そこまで言って氏照はやや沈黙し、一呼吸おいてから次の言葉を続けた。

「そして、越後の上杉も」

「上杉め。偉そうな事ばかりぬかしおったくせに、さっさと長いものに巻かれたか。情けない奴らめ」

「そうじゃ、そうじゃ。上杉は言ってる事とやってる事が違うではないか。何が関東管領だ、何が天下の仕置きだ」

「して、小田原の御本家は、いかがするおつもりでござりますか」

「今日みなを集めたのは、それじゃ。小田原から文が来た」

 氏照は、兄氏政からの文を重臣たちの前で広げた。さっきまで口角泡を飛ばしていた重臣たちが、一斉に沈黙して神妙な顔で氏照の顔を凝視した。

北条氏政、氏直親子は、秀吉に臣従する意思はなかった。小田原からの文は、援軍の要請だった。

「小田原が落ちれば関東の安全はない。今はまず、何が何でも小田原の御本家を守ることである」

「して、いかほどの兵を出すのでござりますか」

 横地監物が問いただす。

「四千じゃ」

 重臣たちは顔を見合わせた。

「八王子を空にせよ、と小田原は申しておられますのか」

「いかにも」

 しばしの沈黙が座を支配した。八王子城の兵力が手薄になることは、単純に不安を覚える。それに、小田原の本家は小田原のことしか考えていないのではないか、という不満もある。

だが、ここに居並ぶ者どもは、みな戦国を戦い抜いて来た猛者どもである。小田原の戦略の意図は十分理解できる。防御線を小さくまとめて兵力を集中することであろう。御本家の方針がそうである以上は、従うしかなかろう。

「ついては、わし自らが兵を率いて小田原へ入る。その間、この城の城代を横地監物に命ず。監物、わしの留守を頼むぞ」

「ははっ」

  ※

その夜、氏照は正室の比佐(ひさ)の方と夫婦の交わりを持った。これが今生での最後の契りになるかもしれない、と思うと、切なく、愛おしく、しかし涙を見せたくない氏照は、言葉少なげに妻を抱いた。

日が昇れば別れねばならない。最後の別れになるかもしれない。その気持ちは比佐にも痛いほど伝わった。夫婦は羞恥心をかなぐり捨てて、激しく何度も求め合った。

 この夜、二人は一睡もできぬまま、東の空が白み始めた。

荒い呼吸を整えながら、比佐の髪をゆっくりと撫でている氏照の耳に、無情にも一番鶏の鳴き声が聞こえた。

「ご武運を…」

比佐の言葉に、眼差しで感謝を現した氏照は寝床を出て身支度を整え始めた。その目には、再び武将としての鋭い光が戻っていた。

  ※

城門が開いた。

まず侍大将が、その後を長槍を担いだ足軽が、続いて鉄砲組が、弓組が、荷駄の車が、長い列をなして延々と続いていく。兵たちの足取りは力強く、しっかりと大地を踏みしめて歩を進めていく。

そして総大将の氏照が姿を現すと、場の空気が一気に晴れやかになった。馬標を立て、栗毛の名馬に颯爽と跨り、漆黒の甲冑に身を固め、悠々と駒を進めていく。その雄姿に誰もが目を奪われた。

出陣を見送る比佐の頬には、朝日が差して紅潮した横顔をさらに赤く染めた。きりりと結んだ口元には、御台所として夫の留守を守りぬく意志の強さが見てとれた。

出陣を見送る横地監物の目には、刺すような鋭さを宿し、城代として防戦の指揮を一手に担う責任の重さを噛み締めていた。殿の不在、何としてもこの城を守らねばならぬ。

出陣を見送る椿丸の胸には、命の恩人である監物の力になりたい、という強い思いが湧きあがっていた。そして親の仇である直江が寄せ手としてやって来るかもしれないと思うと、高揚する気持ちを抑えきれないでいた。

出陣を見送る竜次の毒牙には、やがて来るであろう直江兼続と三宝寺勝蔵への復讐の念が宿っていた。全身を覆う鱗は朝日を浴びて乱反射し、怪しい光を放っていた。



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