(十)高尾山
(十)高尾山
敵の数は五万と聞いて、城兵たちが動揺しないはずはない。
「この城は武州一の堅守じゃ。これほどの山城は、そう簡単に落とされるはずはなかろう」
城代の横地監物は、鷹揚な口調で言い続けた。意識して余裕の表情を見せながら、一方で防戦の準備を急がせた。
未曾有の大軍を引き連れた天下人秀吉は、小田原城を包囲したが、持久戦の構えをとり、積極的な攻勢には出てこない。
一方で、前田利家と上杉景勝の北陸勢は、中山道から関東へ軍を進めている。北陸勢は小田原城攻撃には参加せず、関東に点在する城の攻略が命ぜられており、当然八王子城も視野に入れているだろう。
監物は、さきに小田原へ向かった四千の軍勢を戻してくれるよう氏照に要請の文を出した。八王子が落ちれば、前田と上杉の大軍は相模川沿いに南下して小田原攻撃に加わるだろう。何としても武州の西の端で北陸勢を止めなければ北条に明日はない。
しかし、小田原からは色よい返事は来ない。
監物は、顔では余裕を見せて、城兵の前では悠々と振る舞っていたが、内心は薄氷を踏む思いだった。
出来ることは全て手をうった。後は神仏にすがるしかない。敵襲を前にして薬王院で戦勝祈願を行うことになった。
※
出発は早朝であった。高尾山に登る監物に、椿丸も同行する。身支度を終えた椿丸のもとに、いつものマムシがやって来た。
「お前も一緒に行くか」
椿丸が問いかけると、マムシは首を縦に振ったように見えた。
「いつも思うんだが、お前は人間の言葉が分かるのかね」
竜次は息子の言葉が嬉しかった。親子だとは名乗れなくても、心は通じている。人間の体を捨ててでも、記憶を残して生まれかわった選択を、これで良かったと心から思った。
「よし。一緒に行こう。守り神さん」
誘いを受けて、竜次は椿丸の佩刀の鞘に絡みついた。
出発の触れが聞こえて、椿丸は草鞋の紐を締めた。
気持ちのいい朝である。神域であり樹木の伐採が厳しく制限されている高尾山の山道は、共存する広葉樹と針葉樹が鬱蒼と生い茂り、時折木陰から差す朝日が細い光の帯となって甲冑の金具に反射して小さく輝いた。椿丸は登るほどにすがすがしい気持ちが湧いてきて、何やら目に見えない大きな力を得たような気持ちがした。
やがて山頂近くの薬王院に着いた。山門をくぐると静寂の中に言い知れぬ厳かさと安らぎを感じさせる何かがあった。
薬王院で一行を出迎えた山伏たちの中に、了雲の姿があった。了雲は、椿丸の佩刀に竜次が絡みついていることに気づいて頬を緩めた。
了雲は、竜次が父であったことを椿丸には言っていない。ただ「守り神」であるとだけ伝えた。椿丸はそれ以上詮索せず、ただこのマムシをかわいがって身辺の近くに置いていた。今回の戦勝祈願にも、当然のように連れて来た。
が、竜次は深い考えと、ある意図を持って、ここまで来たのであった。竜次は刀の鞘から地面に降りた。するすると地を這って了雲の足元までまっすぐに進むと、足に絡みつき、遡上して了雲の顔の横にやってきた。
「了雲殿、折り入ってお願いがござる」
竜次は了雲の耳元でささやいた。普通の人間には聞こえないが、修行を積んだ山伏の耳には聞こえる。
「北条家を守るため、椿丸を守るため、親の仇を討つため、どうしても今、やらねばならぬ事があるのです。お頼み申す」
「まさか。竜次殿」
「そうじゃ。覚悟は出来ておる」
「十に一つも成功せぬぞ」
「もとより承知」
「分かっておるか。失敗すれば命は無いぞ」
「閻魔にもらった二度目の命。それも畜生の体。死んだとて惜しくはない。」
「苦行に耐えられるか」
「当たり前じゃ。今、我らには五万の敵が迫っている。座して死を待つわけにはゆかぬ。尋常な手段では勝ち目がない。わしがやるしかないではないか」
了雲は慈悲の目を持って竜次を見詰めた。蛇の体になっても、なお息子を案じ、親の仇を狙う竜次の執念に、抗うことが出来なかった。
「分かった。命懸けの行。やろう」
「かたじけない」
※
竜次は、すっとこの時を待っていた。この日から竜次は椿丸の側を離れ、高尾山の了雲のもとに身を寄せた。
椿丸は守り神のマムシがいなくなったのを寂しく思ったが、あのマムシが了雲という不思議な山伏と関係がある事は分かっている。了雲のもとに行ったのなら、何やら事情があるに違いない、と自らに言い聞かせて帰路についた。
城に戻れば、いよいよ戦さである。敵は関白秀吉の大軍、そこには宿敵の上杉、そして親の仇の直江兼続と三宝寺勝蔵がいる。命の恩人横地監物に報いるためにも、敵に一泡吹かせてやりたい。
椿丸の目には、静かな闘志がみなぎっていた。




