第010話 観察の日課
六歳になったリュカは、濡れた布を抱えて厨房の裏口に立っていた。
絞ったはずの布から水が一滴落ち、靴のつま先に染みを作った。
「坊ちゃん、抱え込まないで、端を持ってくださいな」
ローザが布の向こう端を持ち上げ、リュカは抱えていた布の手前の端をつかんだ。
二人で広げると、布はリュカの背丈より長かった。
リュカは端を持ったまま、届く高さの物干しに掛けるのを手伝った。
兄に注意されたあの夜から、リュカは魔法の話を家の外では口にしなかった。
一人で火を使うこともやめ、二本残ったマッチの箱は部屋の机に置いたままだった。
今はローザの手伝いをしながら、身の回りの物を調べていた。
布や籠を運べば、書房で本を読むだけでは分からないことに気づけた。
干したばかりの布は日に照らされているのに、触ると冷たかった。
先に干されていた布はもう軽く、触っても指に水がつかなかった。
同じ日差しを受けているのに、濡れた布の方が冷たい。
リュカは二枚の布を見比べた。
周りを漂う薄い光は、濡れた布のすぐそばで細かく揺れていた。
乾いた布の縁にも魔素は見えたが、濡れた側とは揺れ方が違った。
日陰のせいかと顔を横へ動かしてみても、濡れた側の細かな揺れは変わらなかった。
「乾くまで持っているつもりですか?」
リュカは布から手を離した。
「まだ冷たかったから」
「干したばかりですもの」
ローザは当たり前のことのように答え、空になった籠を腕に掛けた。
濡れた布が冷たいことは知っていたが、その周りの魔素まで見たのは初めてだった。
「次は薪を運びますよ」
厨房脇の薪置き場では、ローザが積まれた薪の内側から細い物を抜いた。
リュカが手前の一本を持ち上げると、湿った樹皮が指に冷たく貼りついた。
「それはまだ使いません」
「こっちにあるのに?」
「昨日、雨が吹き込んだんです」
リュカは湿った薪を元へ戻し、ローザから乾いた薪を受け取った。
乾いた薪は握っても手のひらが湿らず、リュカは二本まとめて抱えた。
湿った木の匂いが、まだ鼻に残っていた。
木ならどれでもいいわけではなく、火に入れる前に乾いているかも確かめる必要があるらしい。
リュカが薪置き場を振り返っていると、戸口で待つローザが名前を呼んだ。
——俺が止まると、薪も厨房に届かないんだよな。
リュカは足元へ目を戻し、二本の薪を抱えて厨房へ向かった。
◇ ◇ ◇
昼過ぎ、井戸のそばで桶を洗うローザの横で、リュカは布をすすいでいた。
小さなたらいの水の中で布を両手で押すと、布の間から泡が出た。
布を持ち上げた拍子に水が跳ね、井戸の縁の石へかかった。
石の色が濃くなり、薄い光が濡れた場所の上で揺れた。
リュカは布をたらいに戻し、石へ手を置いた。
水のかかった所では指先が冷えたが、隣の乾いた部分は日を受けて温かかった。
初めは、冷たい井戸水がかかったのだから当然だと思った。
ローザが桶を二つ洗う間に何度か触っても、濡れた所は隣より冷たかった。
石を横切る光の揺れは、朝の濡れ布のそばで見たものに似ていた。
布でも石でも、濡れていると冷たさと周りの魔素の動き方が違うらしい。
水そのものが冷たいせいなのか、濡れていることに別の理由があるのかは分からなかった。
リュカは石から手を離し、たらいの布をもう一度引き上げた。
「今度は何を見つけました?」
ローザが桶を伏せながら、リュカの濡れた袖を見た。
「布と石が、同じだった」
「まあ、どちらもびしょ濡れですねえ」
「冷たいところも」
ローザは笑い、袖が落ちてこないように肘まで折り上げてくれた。
「本当に、変わった坊ちゃんですこと」
リュカは袖を直してくれるローザの手を見た。
火の説明をした時の兄とは違って、ローザは笑っていた。
リュカの手から布を取り上げることもなく、続けて声をかけてくる。
「ほら、変わった坊ちゃん、そっちの端をお願いします」
「はい」
リュカが端をつかむと、ローザは反対側から布を絞り始めた。
変わった子だと言いながらも、いつもどおり仕事を任せてくれる。
そんな呼び名なら、悪くなかった。
流れ落ちる水へ目を向けかけ、リュカは今度こそ布をしっかり握った。
◇ ◇ ◇
夕方に裏庭を抜ける途中で、リュカは素振りをする兄を見つけた。
兄は足を踏み出し、頭上から木剣を振り下ろしていた。
リュカは少し離れた石段に座り、次の一振りを待った。
初めは剣の先を追っていたが、兄が構え直すたびに足を動かすのが気になった。
次の一振りでは、剣より足元を見た。
後ろの足が土を押し、前の膝が曲がってから木剣が振り下ろされた。
もう一度見ると、腕だけでなく腰も少し動いていた。
全身が一緒に動いているようでも、よく見れば先に動く所があった。
「何を見ている」
木剣を下ろした兄が、額の汗を腕で拭った。
「兄さんの足」
「剣を見ろ」
「足が先に動いてたから」
兄は自分の足元へ目を落とし、靴を少し引いた。
「足が決まらないと、振ったあとに体がぶれる」
兄は踏み出す所だけゆっくり見せ、それから木剣を振った。
振り終えても、両足はしっかり地面についていた。
リュカはうなずいた。
剣の動きばかり追っていたら、その前に足を置き直す理由には気づかなかっただろう。
朝のローザも、火を使う前に乾いた薪を選んでいた。
リュカは石段の脇へ手を伸ばし、落ちていた茶色い葉を拾った。
指で曲げると縁が欠け、小さなかけらが膝へ落ちた。
次は同じような葉をそろえ、乾いたままの葉と濡らした葉を比べたい。
その次は葉の置き方だけを変え、空気の通り道による違いを確かめたい。
葉と空気の通り道を確かめてから、火のきっかけを与えてみよう。
火がついた瞬間だけでなく、その前に何をしたかも見ておきたかった。
「兄さん」
リュカが呼ぶと、兄は木剣を振るのを止めた。
「今度、乾いた葉と濡れた葉を比べたいんだ」
「燃やすのか」
「うん、だから見ていてほしい」
兄は葉を持ったリュカの手を見て、しばらく黙っていた。
「俺が見ている時だけだぞ」
「分かった」
リュカは葉のかけらを膝から払い、拾った葉を石段の端へ戻した。
兄が構え直したので、今度は木剣が上がる前から、その足元を見た。




