第二章 第三話 選んだ明日
翌朝。
博文館学園、一年A組。
奈々が教室へ入ると、自分の席の前に灯里が立っていた。
「おはよう、奈々」
昨日よりも少しだけ早い声かけだった。
誰かに教えられた挨拶ではない。
奈々を見つけたから、先に口から出た。
そんなふうに聞こえた。
「おはよう、灯里」
奈々が笑い返す。
灯里はその顔を見つめたあと、奈々の隣にいる優子へ視線を移した。
「おはよう、優子」
「うん。おはよう」
優子も笑う。
その後ろで、神一郎が足を止めた。
「俺には?」
灯里が神一郎を見る。
「おはよう、藤崎さん」
「……おはよう」
「神一郎、何でちょっと不満そうなの?」
「別に」
「自分だけ名字だったからじゃない?」
優子が言う。
「そんなことは気にしてない」
「では、神一郎と呼ぶ?」
「いや、それは」
「嫌なの?」
「嫌ではないけど」
灯里は少し考えた。
「奈々は神一郎と呼ぶ。優子は神一郎君と呼ぶ。私は、どちらにすればいい?」
「どちらでもいい」
「それでは分からない」
「篠宮さんが呼びやすい方で」
「神一郎」
迷いのない声だった。
神一郎が黙る。
「決まったね」
奈々が言うと、優子が小さく笑った。
「神一郎君、顔が赤くない?」
「朝倉さん」
「何?」
「怪我人をからかうな」
「怪我と関係ないでしょ」
「朝から疲れる」
神一郎は自分の席へ向かった。
歩き方は昨日より自然に見える。
それでも灯里は、神一郎の腹部を一度だけ見た。
「昨日より痛みが減っている」
神一郎が振り返る。
「どうして分かる?」
「歩幅が広くなった」
「篠宮さんは、人の歩き方をよく見てるんだな」
「観察するように教えられたから」
灯里は答えた。
奈々と優子の表情が、ほんの少しだけ固まる。
だが教室には、すでに多くの生徒がいる。
何を。
誰に。
何のために教えられたのか。
ここで聞くことはできない。
「長く休んでたなら、お医者さんに教わったの?」
優子が自然な声で尋ねる。
「そういうことにしておく」
「しておくって……」
「違うの?」
灯里は答えなかった。
代わりに、自分の席へ置いていた小さな紙袋を持ち上げる。
「奈々」
「何?」
「これを」
袋の中には、紙パックのミルクティーが三本入っていた。
「私に?」
「奈々と、優子と、神一郎に」
「どうしたの、これ」
「昨日、優子が私にくれた」
「同じものを探したの?」
「うん」
「買ってきてくれたんだ」
「友達は、何かをもらったら返すと本に書いてあった」
灯里は紙袋を差し出したまま言う。
「だから返す」
優子はすぐには受け取らなかった。
「灯里。無理に返さなくてもいいんだよ」
「どうして?」
「昨日のは、私が灯里に飲んでほしくて渡しただけだから」
「でも、もらった」
「うん」
「返さなければ、借りたままになる。それに昨日返すと言った。」
「友達同士なら、借りたとか返したとか、毎回考えなくていいの」
「では、これは必要ない?」
灯里の手がわずかに下がる。
奈々は紙袋へ手を伸ばした。
「いるよ。ありがとう」
「返さなくていいと言った」
「これは返してもらったんじゃなくて、灯里が私たちに飲んでほしくて買ったんでしょ?」
灯里が止まる。
「私は……」
奈々は袋の中から一本を取り出した。
「違った?」
「分からない」
「じゃあ、今決めたらいいよ」
「今?」
「うん。私たちに飲んでほしい?」
灯里は、奈々が手に持ったミルクティーを見る。
次に優子を。
最後に、少し離れたところから話を聞いている神一郎を見る。
「飲んでほしい」
「だったら、もらうね」
奈々は笑った。
優子も袋から一本を受け取る。
「ありがとう、灯里」
「うん」
灯里は残った一本を神一郎へ差し出した。
「神一郎も」
「俺にも?」
「三本買った」
「そうじゃなくて」
「必要ない?」
「……もらう。ありがとう」
神一郎が受け取る。
灯里の口元が、ごくわずかに緩んだ。
昨日、奈々の卵焼きを食べた時と同じ。
自分でもまだ名前を知らない感情が、表情だけに現れている。
奈々の胸の奥で、白い魔力が小さく脈打った。
黒い鼓動が応える。
一度。
それだけだった。
灯里は胸元へ手を当てなかった。
奈々も何も言わない。
神一郎だけが、二人の間で起きた変化に気付いたように目を細めた。
予鈴が鳴る。
教室へ担任が入ってきた。
「席に着け」
灯里が自分の席へ戻る。
その背中を見ながら、奈々は紙パックを両手で包んだ。
冷たい。
けれど、昨日優子から灯里へ渡されたものより、少しだけ温かい気がした。
*
一時間目が終わった休み時間。
神一郎は椅子から立ち上がらず、端末の画面を開いていた。
灯里のいる方向へ顔を向けないまま、奈々と優子へ短い文を送る。
『今朝、反応はあった?』
奈々の端末が震えた。
机の下で画面を確認し、返事を入力する。
『一度だけ。昨日より弱いよ』
『篠宮さんに変化は?』
『なかったと思う』
『思う、じゃなくて』
続けて届いた言葉に、奈々は頬を膨らませる。
『神一郎は細かすぎ』
『必要な確認だから』
『歩いて来ないでね』
『行かない』
そう返ってきた直後、神一郎が机へ手をついて立ち上がった。
「神一郎」
奈々が声を抑えて呼ぶ。
「何?」
「行かないって言ったよね?」
「トイレ」
「本当に?」
「それ以外にどこへ行くんだ」
「灯里のところ」
「授業が終わってから話す」
「約束だよ」
「分かってる」
神一郎が教室を出る。
奈々はその歩き方を最後まで確認してから、灯里の席を見た。
灯里は一人で本を読んでいる。
昨日、図書室で借りた小説。
ページをめくる手は止まっている。
視線だけが、窓の外へ向いていた。
「灯里」
奈々と優子が近付く。
灯里はすぐに本を閉じた。
「何?」
「本、面白い?」
「分からない」
「まだ分からないの?」
「昨日より分からなくなった」
「どうして?」
「この人は、友達へ嘘をついている」
灯里が開いていたページを指す。
物語の主人公が、親友へ隠し事をしている場面だった。
「友達なのに、どうして本当のことを話さないの?」
「話せないこともあるからじゃない?」
優子が答える。
「話せないなら、友達ではない?」
「そんなことないよ」
「でも、友達は信用するものだと書いてある」
「信用してても、怖くて言えないことはあると思う」
「嫌われるから?」
「それもあるかな」
灯里の指が、本の端を強く押さえた。
「嘘がバレたらやっぱり嫌われる?」
奈々はすぐに答えなかった。
昨日の図書室で、同じようなことを聞かれた。
灯里は、自分が何かを隠していると分かってほしい。
けれど、知られることを怖がっている。
その二つの気持ちの間で、まだ動けずにいる。
「嘘の内容によると思う」
「内容?」
「相手を傷付けるための嘘なのか。守りたくてついた嘘なのか。怖くて言えなかっただけなのか」
「違いはある?」
「あるよ」
「でも、嘘は嘘」
「そうだね。嘘をつかれたら悲しいし、怒るかもしれない」
灯里の瞳が揺れる。
奈々は続けた。
「でも、怒ったら友達じゃなくなるわけじゃないよ」
「嫌いになっても?」
「嫌いになるかは、聞いてみないと分からない」
「奈々は同じことばかり言う」
「だって、本当に分からないんだもん」
「分からないのに、怖くない?」
「怖いよ」
「それでも聞く?」
「灯里が話してくれるなら」
灯里は本へ視線を落とす。
「今は話せない」
「うん」
「聞かないの?」
「今は聞かない」
「どうして?」
「灯里が話せないって言ったから」
「それだけ?」
「それだけだよ」
灯里は納得していない顔をしていた。
命令なら、理由がある。
行動には目的があり、成功と失敗が決められている。
だが、奈々の言葉には明確な成果がない。
真実を聞き出すことも。
灯里を疑うことも。
無条件に信じることもしない。
ただ、灯里自身が話す時を待っている。
「奈々は、私が本当のことを話すと思ってる?」
「思ってる」
「どうして?」
「話したそうだから」
「私は、話せないと言った」
「うん。でも、話したくないとは言ってないよ」
灯里の目が大きく開く。
優子が隣で小さく笑った。
「奈々って、こういうところは鋭いんだよね」
「こういうところって何?」
「人の気持ち」
「神一郎のことは全然分かってないけど」
「神一郎君も、奈々のことになると分かりにくくなるから」
「何の話?」
「灯里にはまだ早い話」
「同じ年齢」
「そうだった」
灯里が二人を交互に見る。
「神一郎と奈々は、友達ではないの?」
「え?」
奈々の声が裏返った。
「二人はお互いを心配している。昨日、優子が言っていた」
「友達だよ」
「それだけ?」
「それだけって?」
「本の中では、相手を見る時の表情が違うと書いてある」
「ど、どう違うの?」
「奈々が神一郎を見る時と、私を見る時は違う」
「同じだよ」
「違う」
「違わないって」
「顔が赤い」
「赤くない」
「耳も」
「灯里、本を読みすぎじゃない?」
「まだ最後まで読んでいない」
優子が声を押し殺して笑う。
周囲の生徒が何事かと振り返り、奈々は慌てて自分の頬を押さえた。
「もう、この話は終わり」
「どうして?」
「授業が始まるから」
次の予鈴までは、まだ三分ある。
だが灯里は教室の時計を見たあと、素直に本を開いた。
「分かった」
「今のは分かるんだ……」
「奈々が話したくないと言ったから」
「言ってないよ」
「同じ意味だと思う」
「そういうことは分かるようになったんだね」
優子が言う。
灯里は少しだけ首を傾げた。
それから、もう一度本へ視線を戻す。
奈々も自分の席へ戻ろうとした。
その時。
胸の奥が熱くなった。
「……っ」
奈々の魔力が、心臓を内側から押す。
一度。
二度。
今朝とは違う。
強い。
奈々は机へ手をついた。
「奈々?」
優子がすぐに肩へ触れる。
「大丈夫。ちょっと、立ちくらみ」
近くにいる生徒へ聞こえるように答えた。
灯里は椅子に座ったまま動かない。
だが、その右手は制服の胸元を強く掴んでいた。
指先が白くなるほど。
息をしていない。
「灯里」
奈々が名前を呼ぶ。
灯里は反応しなかった。
胸の奥で、黒い鼓動が速くなる。
奈々には、その音が自分の身体を通して聞こえていた。
一度。
二度。
三度。
人工魔力核の出力が上がっている。
奈々の魔力が、それへ応えようとする。
「優子」
奈々は声を抑えた。
「灯里を保健室へ連れていこう」
優子は一瞬で意味を理解した。
「そうだね。顔色も悪いし」
周囲へ不自然に見えない声で言う。
「篠宮さん、立てる?」
灯里は答えない。
優子が灯里の腕へ触れようとした瞬間、その手が弾かれた。
目に見えない力。
ほんのわずかな空気の震え。
優子はすぐに手を引いた。
教室の窓が小さく鳴る。
明らかに魔力だ。
「風、強くなった?」
誰かが窓の外を見た。
「早く行こう」
奈々が灯里の前へ屈む。
「私の声、聞こえる?」
灯里の瞳が奈々へ向く。
「触らないで」
「どうして?」
「制御できない」
ほとんど声になっていない。
「ここでは駄目」
「分かってる」
「誰かを傷付ける」
「傷付けさせないよ」
「離れて」
「一人で歩ける?」
灯里は机へ手をつき、立ち上がろうとした。
足に力が入らない。
椅子が大きな音を立てて倒れた。
教室中の視線が集まる。
「篠宮さん、大丈夫?」
「先生呼んだ方がいいんじゃない?」
何人かの生徒が近付こうとする。
「大丈夫。少し前まで療養してたから、少し疲れただけみたい」
優子が間へ入った。
「私たちが保健室へ連れていくよ」
「でも」
「先生には私から伝えるから」
その時、教室の入口に神一郎が戻ってきた。
倒れた椅子。
灯里を囲む奈々と優子。
窓ガラスの細かな震え。
状況を見ただけで、神一郎の手が胸ポケットへ動いた。
「神一郎」
奈々が呼ぶ。
「灯里の具合が悪いの。保健室まで一緒に来て」
それだけで伝わった。
神一郎はツキカゲから手を離す。
「分かった」
倒れた椅子を起こし、三人へ近付く。
灯里が神一郎を見る。
「来ないで」
「篠宮さんを一人にはできない」
「あなたは怪我をしている」
「だから戦うつもりはない」
神一郎は声を落とした。
「歩くだけだ」
灯里は何かを言おうとした。
だが、黒い鼓動がさらに強くなり、言葉が途切れる。
奈々と優子が左右から灯里の身体を支えた。
今度は力に弾かれない。
灯里自身が、二人を傷付けないよう必死に出力を抑えている。
「大丈夫?」
クラスメイトが尋ねる。
「うん。保健室へ行けば平気」
奈々は笑って答えた。
普通の生徒が、体調を崩した友人を保健室へ連れていく。
誰の目にも、そう見えるように。
四人は教室を出た。
*
「保健室には行けない」
教室から離れたところで、灯里が言った。
「先生がいる」
「そうだな」
神一郎は周囲を確認する。
授業の始まる直前で、廊下にはほとんど人がいない。
「図書室の奥は?」
奈々が尋ねる。
「司書の先生がいるかもしれない」
優子が答える。
「旧校舎の音楽準備室」
神一郎が言った。
「今は使われていない。鍵は?」
「去年、壊れたままって聞いたことがある」
「そこへ行こう」
旧校舎へ続く渡り廊下へ向かう。
階段の前で神一郎が足を止めた。
音楽準備室は三階。
「神一郎は来なくていいよ」
奈々が言う。
「行く」
「階段は禁止」
「今はそれどころじゃない」
「今だからだよ。神一郎まで動けなくなったら、誰が連絡するの?」
昨日、椎菜から言われた言葉と同じだった。
神一郎が黙る。
「一階の外から準備室が見える位置にいて」
優子も続ける。
「何かあったら連絡する。私がいるから」
「でも」
「神一郎」
奈々が真っ直ぐに見る。
「任せて」
守ることと、信じること。
事件が始まってから、何度も突き付けられてきた言葉。
神一郎は灯里を見る。
顔色は悪い。
だが意識はある。
今すぐ誰かへ攻撃する意思もない。
何より、奈々と優子が自分で考えている。
「逐一連絡してくれ」
「うん」
「異常があれば、すぐに離れる」
「分かった」
「篠宮さん」
神一郎が呼ぶ。
灯里の視線が向く。
「奈々と朝倉さんを傷付けるつもりは?」
「ない」
「それは命令か?」
灯里が目を見て答える
「違う」
「分かった」
神一郎は階段から離れた。
疑っていないわけではない。
警戒を解いたわけでもない。
それでも、灯里自身の言葉をひとつだけ信じた。
奈々と優子が灯里を支え、階段を上がっていく。
神一郎は端末を取り出した。
椎菜へ緊急連絡をする。
学校周辺で人工魔力核と思われる反応。
一般生徒への露見なし。
発信源は篠宮灯里である可能性が高い。
そして、奈々がすぐ近くにいる。
送信してから、校舎の外へ向かった。
今の神一郎にできるのは、二人を信じながら、何かが起きた時に備えることだけだった。
*
旧校舎三階。
音楽準備室の扉は、言われた通り鍵が壊れたままだった。
中には使われなくなった譜面台と、古い楽器のケースが積まれている。
窓には厚いカーテン。
廊下側の扉を閉めれば、中を見られることはない。
優子が室内を確認する。
「誰もいない」
奈々は灯里を壁際の椅子へ座らせた。
「もう話しても大丈夫だよ」
「何を?」
「灯里の中で起きてること」
灯里は胸元を押さえたまま、呼吸を繰り返す。
「出力が上がっている」
「どうして?」
「分からない」
「今までにもあった?」
「何度も」
「どうやって止めてたの?」
「痛みを無視する。呼吸を一定にする。命令を繰り返す」
「どんな命令?」
「制御しろ。周囲を傷付けるな」
灯里は目を閉じる。
「廃棄されたくなければ、耐えろ」
奈々の表情が止まった。
優子の手が、わずかに握られる。
「誰に言われたの?」
奈々が尋ねる。
「話せない」
「その人たちは、灯里が苦しくても止めてくれないの?」
「制御できなければ、私の責任」
「違うよ」
「違わない」
「灯里が自分で欲しいって言った力じゃないんでしょ?」
「私の力」
「うん。今は灯里の力だよ。でも、苦しんでる灯里を助けない理由にはならない」
「助ける必要はない。自分で止められる」
鼓動が強くなる。
窓ガラスが震えた。
積まれていた譜面台の一本が、床へ倒れる。
大きな金属音が響いた。
「止められないでしょ?」
「止める」
「一人で?」
「今までは1人で制御できた」
「今は私たちがいるよ」
奈々が手を伸ばす。
「触らないで」
「昨日は治まった」
「今日は違う」
「どう違うの?」
「核が、奈々を求めている」
灯里が初めて、その事実を言葉にした。
「私の命令を聞かない。奈々の白い回路へ近付こうとしている」
「どうして?」
「分からない」
「私の魔力を取り込みたいの?」
「違う」
「じゃあ、何?」
「それも分からない」
灯里の声が強くなる。
「分からない。今まで、私の核は私の命令だけを聞いていた。痛くても、苦しくても、私が止めろと言えば止まった。でも奈々に会ってから、私の意思と関係なく動く」
呼吸が乱れる。
「これは私の力なのに」
黒い魔力が、灯里の制服の下から滲む。
煙のように細く。
光を吸い込むような色。
優子が右手の指輪へ触れた。
ここでリンクすることはできない。
アトランティスの騎士が人間界の学校にいると知られる危険がある。
それでも灯里が暴走すれば、素手で止めることは難しい。
規則を無視してリンクした上での対処が必要になる。
「優子」
奈々が呼ぶ。
「まだ大丈夫」
「でも」
「灯里は、私たちを傷付けないって言った」
「本人が止められなくなったら?」
「私が止める」
「奈々の身体に何が起きるか分からないんだよ」
「分かってる」
「分かってない」
優子の声が少しだけ強くなる。
「昨日、接触しただけで二人とも制御できなくなった。奈々が灯里の核へ引かれて、戻れなくなるかもしれない」
「でも、このままじゃ」
「奈々が代わりに傷付けばいいわけじゃない」
優子は灯里を見る。
「灯里。聞こえる?」
「聞こえている」
「奈々に助けてほしい?」
灯里の唇が止まる。
「私は、自分で止める」
「それは質問の答えじゃない」
「助けは必要ない」
「それも違う」
優子は灯里の前へ屈んだ。
黒い魔力が触れそうになっても、目を逸らさない。
「助けてほしいか、ほしくないか。自分で決めて」
「命令しないの?」
「しない」
「奈々へ触れろと言わない?」
「言わないよ」
「私は、どうすればいい?」
「灯里が決めるの」
「分からない」
「分からなくても、選ばなきゃいけない時はある」
優子の声は穏やかだった。
かつての自分へ話すように。
「私も、最初は分からなかった。命令がなければ、何を食べるかも。どこへ行くかも。誰の隣にいていいのかも」
「今は分かる?」
「全部は分からないよ」
優子が少し笑う。
「でも、分からないからって誰かに全部決めてもらうのはやめた」
「間違えたら?」
「怒られることもある」
「処分される?」
「されない」
「失敗しても?」
「失敗したくらいで、いなくなれなんて言う人はここにはいないよ」
灯里が奈々を見る。
奈々は伸ばした手を、そのままにしている。
触れようとはしない。
引っ込めようともしない。
「奈々」
「うん」
「助けて」
初めて。
灯里が、自分の意思で助けを求めた。
奈々はその手を握った。
白い魔力が溢れる。
同時に、灯里の黒い人工魔力核が強く脈打った。
一度。
二度。
二つの鼓動が重なる。
奈々の視界から、音楽準備室が消えた。
*
冷たい。
最初に感じたのは、背中の冷たさだった。
硬い台の上に寝かされている。
手も足も動かない。
胸が痛い。
自分の身体を、知らない誰かに開かれている。
『適合率、三十二パーセント』
男の声。
『低すぎる。このままでは次の起動に耐えられません』
『構わない。出力を上げろ』
『しかし、被験体の心肺機能が』
『代わりならいる』
黒い何かが、胸の中へ押し込まれる。
痛い。
苦しい。
やめて。
声が出ない。
誰も名前を呼ばない。
番号だけ。
『A-01、起動』
奈々は目を開けた。
白い光の中に、幼い灯里がいる。
今よりも小さな身体。
胸元には包帯が巻かれ、その中心が赤く染まっている。
少女は泣いていない。
泣けば痛みが消えると知らないから。
助けを求めれば、誰かが手を伸ばすかもしれないと知らないから。
ただ、命令を待っている。
『立て』
灯里が立つ。
『歩け』
一歩。
二歩。
小さな足が床を踏む。
三歩目で倒れた。
『失敗』
冷たい声。
『もう一度』
灯里は床へ手をつく。
胸の奥で、黒い核が脈打つ。
立たなければ。
命令に従わなければ。
必要のないものになる。
捨てられる。
「違う」
奈々は幼い灯里へ手を伸ばした。
「立てなくても、灯里はいなくならないよ」
少女は奈々を見ない。
過去の記憶。
もう終わった時間。
それでも奈々は近付く。
「今は、私がいるから」
白い魔力が幼い灯里を包む。
黒い回路が浮かび上がった。
心臓から全身へ。
身体を動かすため。
命令に従わせるため。
痛みを無視させるため。
奈々の白い回路とは違う。
似た形をしている。
けれど、向いている方向が違った。
沙耶の魔力は、奈々の命へ寄り添うように根を伸ばした。
人工魔力核は、灯里の命を囲い込むように回路を伸ばしている
黒い回路のさらに奥。
ひとつだけ、不自然な術式があった。
灯里自身の命令を受け取る場所ではない。
外から届く信号を受け取るための回路。
今、その術式が赤く光っている。
誰かが灯里の人工魔力核へ命令を送っている。
「灯里」
奈々は名前を呼んだ。
「聞こえる?」
幼い少女の姿が消える。
代わりに、今の灯里が現れた。
白と黒の魔力が交わる場所。
灯里は胸元を押さえ、苦しそうに立っている。
「これは、私の命令ではない」
「うん」
「外から、誰かが核を動かしている」
「止められる?」
「分からない」
「一緒に止めよう」
「どうやって?」
「灯里が止まれって言って」
「聞かない」
「私も手伝う」
「奈々が命令するの?」
「違うよ」
奈々は灯里の手を握る。
「灯里の声が届くようにする」
白い魔力を、黒い核へ流し込むのではない。
奈々が灯里を治すのでもない。
黒い回路を、白へ塗り替えるのでもない。
外からの命令と、灯里自身の意思。
二つを分ける。
灯里が自分の声を選べるように。
「これは灯里の力なんでしょ?」
「私の力」
「だったら、灯里が決めて」
灯里が目を閉じる。
赤く光る術式。
外から繰り返される命令。
『出力を上げろ』
『白色回路へ接続しろ』
『情報を取得せよ』
その声に重ねるように、灯里が口を開く。
「止まれ」
黒い核は脈打ち続ける。
「私の命令を聞いて」
一度。
二度。
「止まって」
赤い術式へ、白い光が触れた。
術式を壊すのではない。
外から届く命令だけを包み込む。
灯里の声が、人工魔力核の奥へ届く。
「私は、奈々を傷付けない」
黒い鼓動が弱くなる。
「優子も」
もう一度。
「神一郎も」
赤い術式の光が消えた。
最後に残った黒い鼓動が、ゆっくりと灯里自身の心臓へ重なる。
「止まった」
灯里が呟く。
「うん」
「私が止めた?」
「灯里が止めたんだよ」
「奈々の力で」
「私は少し手伝っただけ」
「でも」
「灯里が助けてって言わなかったら、何もできなかった」
奈々は手を離さない。
「だから、灯里が決めたの」
白い空間が崩れていく。
最後に見えたのは、泣かなかった幼い灯里だった。
今は、その頬を一筋だけ涙が流れていた。
*
「奈々!」
優子の声で意識が戻る。
音楽準備室。
古い楽器。
閉められたカーテン。
奈々は灯里の前へ膝をついたまま、その手を握っていた。
「優子……」
「大丈夫?」
「うん」
「三分も返事がなかったんだよ」
「そんなに?」
「神一郎君からも連絡が来てる」
床に置かれた奈々の端末が震えている。
優子は今にも騎士団へ緊急連絡を入れるところだった。
「灯里は?」
奈々が見る。
灯里は椅子へ座ったまま、目を閉じている。
胸元から溢れていた黒い魔力は消えていた。
呼吸も落ち着いている。
「灯里」
名前を呼ぶ。
ゆっくりと瞼が開いた。
「奈々」
「うん」
「戻ってきた」
「そうだね」
灯里は自分の手を見る。
奈々と繋がったままの手。
「私が止めた?」
「うん」
「命令に従わなかった」
「うん」
「処分される?」
奈々は息を止めた。
灯里は本気で尋ねている。
外から人工魔力核を動かした誰か。
灯里へ力を与え、命令に従わせている組織。
彼らに逆らった結果を、灯里は知っている。
「させない」
奈々が答える。
「どうして言い切れる?」
「灯里は、私の友達だから」
「それだけで?」
「それだけじゃ足りない?」
灯里は奈々を見つめる。
長い沈黙。
「分からない」
「じゃあ、これから分かればいいよ」
奈々は灯里の手を握り直した。
「でも、騎士団には話す」
灯里の身体が強張る。
優子は扉の前へ立ったまま、二人を見ている。
「灯里のことを捕まえるためじゃないよ」
「信用できない」
「うん。灯里にとっては、知らない人たちだもんね」
「奈々も昨日会ったばかり」
「それを言われると困るけど」
「でも、奈々は少し信用している」
「少しなんだ」
「まだ全部ではない」
「それでいいよ」
奈々は笑う。
「最初から全部信じなくてもいい。私も、灯里が隠してることを全部信じたわけじゃないから」
「それでも話す?」
「灯里を助けるには、私と優子と神一郎だけじゃできないことがある」
「外からの信号を止めること?」
「それも。灯里の身体をきちんと調べることも」
「身体を調べられるのは嫌」
「無理にはさせない」
「でも命令される」
「嫌だって言っていいよ」
「聞いてもらえなかったら?」
「私も一緒に言う」
「私も」
優子が加わる。
「中嶋先輩は、きちんと話を聞いてくれる人だから」
「神一郎は?」
「奈々のことになると少し面倒だけど、話は聞くよ」
「誰が面倒なんだ」
扉の向こうから声がした。
優子が振り返る。
「神一郎君?」
「五分経っても連絡がなかった」
「階段は禁止だって言ったよね?」
扉が開く。
神一郎は片手で腹部を押さえ、息を切らしていた。
「神一郎!」
奈々が立ち上がる。
「走ったの?」
「走ってない」
「嘘」
「途中までは歩いた」
「途中から走ったんでしょ?」
「連絡がなかったから」
「優子が返そうとしてたよ」
「三分も反応がなかったって聞いた」
「だからって」
「奈々」
神一郎が名前を呼ぶ。
怒っている。
それ以上に、怖がっている。
奈々が戻ってこないかもしれないと考えた顔だった。
「……ごめん」
「身体は?」
「大丈夫」
「本当に?」
「うん。灯里の中に、外から命令を受け取る回路があった」
神一郎の表情が変わる。
「詳しい話はここでするな」
「誰もいないよ」
「学校だ。いつ誰が来るか分からない」
「そうだね」
奈々は灯里を見る。
「立てる?」
「立てる」
灯里は椅子から立ち上がった。
今度は足元も揺れない。
「どこへ行くの?」
「学校を出る」
神一郎が答える。
「人に聞かれない場所で話そう」
「私を連れていく?」
「嫌なら、無理には連れていかない」
「神一郎君?」
優子が驚いたように見る。
神一郎は灯里から目を逸らさなかった。
「ただし、篠宮さんの中にあるものは、また外から操作されるかもしれない。ここに残れば、他の生徒を巻き込む危険がある。それだけはさせない」
「脅している?」
「事実を話してるんだ」
「私を信用していない?」
「していない」
奈々が神一郎を睨む。
「でも」
神一郎は続けた。
「今、篠宮さんが奈々と朝倉さんを傷付けなかったことは事実だ」
灯里の瞳が少しだけ見開かれる。
「それから、俺が来るまで暴走を止めようとしたことも」
「奈々が止めた」
「奈々だけじゃ無理だったはずだ」
「どうして分かる?」
「奈々は、誰かの意思を無視して魔力を使わない」
神一郎は奈々を見る。
「篠宮さんが助けを求めたんだろ?」
「うん」
「だったら、それは篠宮さんが選んだことだ」
灯里は自分の胸元へ手を当てた。
黒い鼓動。
今は静かに、灯里自身の命を繋いでいる。
「行く」
「本当に?」
奈々が尋ねる。
「奈々が一緒なら」
「うん。一緒に行く」
「優子も」
「もちろん」
「神一郎は?」
「俺も行く」
「怪我をしている」
「もう階段を上がったあとだからな」
「だからいいわけじゃないよ」
奈々が神一郎の隣へ移動する。
「肩、貸すから」
「一人で歩ける」
「さっき走った人の言うことは信用しません」
「誰かさんが連絡しなかったから」
「ごめんって言ったでしょ」
いつもの言い合い。
灯里は二人を見ている。
「友達は、怒っても一緒にいる」
小さく呟いた。
「何か言った?」
奈々が振り返る。
「本に書いてあったことが、本当だった」
灯里はそれだけ答えた。
*
四人は担任へ、灯里と神一郎の体調が悪化したと伝え、早退の許可を得た。
嘘ではない。
ただ、理由をすべて話していないだけだ。
一般生徒や教師へ、アトランティスや騎士団の存在を知られることは許されない。
校門を出たところで、騎士団人間界支部の車が待っていた。
外見は、ごく普通の黒いワゴン車。
運転席の騎士も、人間界のスーツを着ている。
灯里は車の前で足を止めた。
「騎士団?」
「ここでは、その言葉を口にしないで」
奈々が声を抑える。
「誰が聞いているか分からないから」
「分かった」
四人が乗り込む。
扉が閉じると、車内に遮音術式が展開された。
神一郎は運転席との間にある術式も確認してから、端末を開いた。
椎菜の姿が画面へ映る。
背後には解析室の青白い光。
『無事か』
「今は全員無事です」
『篠宮灯里も一緒か』
灯里の身体が強張る。
奈々は隣で、その手へ自分の手を重ねた。
「はい」
『本人と話せるか』
「灯里」
奈々が呼ぶ。
灯里は画面を見る。
『中嶋椎菜だ』
「知っている」
椎菜の眉がわずかに動く。
『私の記録を見たことがあるのか』
「答えられない」
『そうか』
「聞かないの?」
『答えられないと言った相手へ、同じ質問を繰り返しても意味はない』
灯里が奈々を見る。
「同じことを言った」
『奈々くんが?』
「うん」
『なら、少しは信用してもらえるか』
「分からない」
『それで構わない』
椎菜の声は変わらない。
人工魔力核を持つ可能性が高い相手。
奈々へ近付くために用意された経歴。
騎士団の情報を持ち、組織と繋がっている少女。
警戒すべき理由はいくつもある。
それでも椎菜は、灯里を敵と決めつける言葉を口にしなかった。
『神一郎。何が起きた』
「授業の合間に、篠宮さんの人工魔力核が出力を上げました」
『やはり、本人が核を持っていたか』
「はい。奈々が篠宮さんへ接触し、出力は低下しました」
『奈々くんの状態は』
「本人は大丈夫だと言っています」
『その申告は信用できない。支部へ到着後、二人とも検査を受けろ』
「私も?」
奈々が尋ねる。
『当然だ』
「痛くない検査?」
『検査内容は本人へ説明し、同意を得てから行う』
椎菜は灯里を見る。
『篠宮灯里。君も同じだ。こちらの判断だけで身体へ触れることはしない』
「命令ではない?」
『違う』
「断ってもいい?」
『構わない。ただし、もう一度同じことが起きた時の危険は説明する。その上で自分で決めろ』
灯里は黙った。
『それから、奈々くんとの接触時に何を見た』
「外部から信号を受け取る回路です」
奈々が答える。
「誰かが灯里の核へ命令を送ってました。出力を上げて、私の回路へ接続しろって」
『信号の発信元は』
「分かりません」
『術式の形は覚えているか』
「たぶん」
『解析術師へ伝えてくれ。こちらでも同時刻の反応を記録している』
「学校で?」
『学校周辺だけではない』
椎菜が別の画面を開く。
黒い波形が三つ。
ひとつは灯里。
ひとつは、治療区画で眠るカイル。
そして、もうひとつ。
『帝都北区で捜索中の人工魔力核も、同時に出力を上げた』
「エマさん?」
神一郎が尋ねる。
『そう考えている。三つの核が、同じ外部信号を受けた可能性が高い』
「灯里」
奈々が見る。
「他にも、灯里と同じ核を持ってる人がいるの」
「知っている」
「エマさんを?」
「名前は知らない」
「人工魔力核を埋め込まれた人が他にもいることは知ってた?」
「うん」
「どこにいるか分かる?」
「分からない」
「灯里を作った人たちと同じ人が、エマさんを?」
「答えられない」
奈々の手に力が入る。
灯里はそれを感じ、目を伏せた。
「話したら、処分される」
車内が静かになった。
『誰に』
椎菜が尋ねる。
「答えられない」
『君へ命令を出している組織か』
「答えられない」
『組織は、君の人工核を外から操作できる』
灯里は答えない。
『そして命令に逆らった君を、処分できると教えている』
「違う」
『何が違う』
「教えられたのではない」
灯里の声が低くなる。
「実際に、いなくなった人を知っている」
奈々が息を呑んだ。
「灯里と同じような?」
「同じではない。完成しなかった」
「その人は、どうなったの?」
「ある日、部屋からいなくなった」
「それだけ?」
「それだけ」
「灯里は、処分されたと思ってるの?」
「他にいなくなる理由がない」
奈々は何も言えなかった。
簡単に大丈夫だとは言えない。
灯里の恐怖は、想像だけで生まれたものではない。
命令に従えなかった者。
人工魔力核へ適合できなかった者。
必要とされなくなった者。
彼らが消えるところを見てきた。
『篠宮灯里』
椎菜が名前を呼ぶ。
『今すぐすべてを話せとは言わない』
「それでは、どうする?」
『まず、君を外から操作する信号を止める』
「できるの?」
『できるとは言い切れない。だが解析する』
「失敗したら?」
『次の方法を探す』
以前奈々が神一郎へ言った言葉と同じだった。
灯里は画面の中の椎菜を見る。
『それから、君を処分させない』
「どうして?」
『君から情報を得るためだ』
あまりにも迷いのない答えに、奈々が目を見開く。
「椎菜さん」
『それだけではない』
椎菜は続けた。
『だが、今の君に綺麗な言葉を並べても信用しないだろう』
「信用しない」
『なら、私たちの行動を見て決めろ』
「監視すればいい?」
『好きにしろ』
灯里の口元が、ごくわずかに緩んだ。
奈々がそれに気付く。
「今、笑った?」
「笑っていない」
「少し笑ったよね」
「笑っていない」
『神一郎』
椎菜が呼ぶ。
「はい」
『支部へ着いたら、お前も診察を受けろ』
「俺もですか?」
『息が切れているようだが?』
「階段を上がっただけです」
『走ったな』
「途中から少し」
「やっぱり!」
奈々が神一郎を見る。
『藤崎副隊長。負傷中の命令違反として、到着後は医療区画から出るな』
「篠宮さんの話は」
『私が聞く』
「でも」
『守ることと信じることの違いを学んだのではなかったか』
神一郎の言葉が止まる。
『奈々くんと朝倉くんを信じろ。篠宮灯里が自分で選ぶこともだ』
「……分かりました」
通信が切れる。
車内に、走行音だけが残った。
「神一郎」
奈々が呼ぶ。
「何?」
「支部に着いたら、ちゃんと診てもらって」
「分かってる」
「勝手に医療区画を出ないでね」
「分かってるって」
「信用がない」
灯里が言った。
神一郎が灯里を見る。
「篠宮さんにまで言われたくない」
「日頃の行いだと、優子が言っていた」
優子が吹き出した。
「もう覚えたの?」
「使い方は合っていた?」
「完璧」
「朝倉さん、余計なことを教えないでくれ」
奈々も笑う。
灯里は三人の表情を順番に見た。
自分が笑わせた。
命令ではなく。
観察のためでもなく。
ただ覚えた言葉を使っただけで、三人の間に同じ感情が生まれた。
胸の奥で、黒い人工魔力核が脈打つ。
今度は奈々の白い回路へ手を伸ばさない。
外からの命令にも従っていない。
灯里自身の心臓と、ほとんど同じ間隔で脈打っていた。
*
人間界支部へ到着すると、灯里は医療区画ではなく、遮音術式の施された面談室へ通された。
白い壁。
丸い机。
向かい合う四脚の椅子。
身体を拘束する物も、魔力を封じる術式もない。
ただし、廊下には二人の騎士が待機している。
扉の上には、室内の魔力変化を検知する術式が置かれていた。
灯里は椅子へ座らず、部屋の中央に立ったまま周囲を見た。
「これは、捕まえたことになる?」
「まだ何もしていない」
壁面の通信術式に映った椎菜が答える。
「君が危険ではないと判断したわけでもなければ自由に帰していいと判断したわけでもない。まずは話を聞く」
「帰りたいと言ったら?」
「外部からもう一度核を動かされる危険を説明する。その上で帰ると決めるなら、少なくとも今は力ずくで止めない」
「どうして?」
「君は人間界の学生だからだ」
灯里の目が細くなる。
「作られた記録でも?」
「それでも、博文館学園へ通っている篠宮灯里は存在する」
「組織が用意した」
「用意した者が誰であろうと、今日学校へ行くと決めたのは君だろう」
灯里は答えなかった。
奈々が隣の椅子を引く。
「座ろう、灯里」
「奈々も残るの?」
「残るよ」
「赤坂奈々さんには、先に検査を受けてもらいます」
部屋へ入ってきた医療術師が告げた。
三十代ほどの女性。
白衣に似せた人間界用の上着を着ている。
奈々は灯里へ向き直った。
「ごめんね、すぐ戻ってくるから」
「どこへ行く?」
「隣の検査室」
「一人で?」
「私も行くよ」
優子が答える。
「灯里は中嶋先輩と話してて」
「二人とも、戻る?」
「戻る」
奈々は迷わず答えた。
「約束する」
灯里は奈々を見る。
命令ではない言葉。
必ず守られると保証されたわけでもない。
それでも灯里は、ゆっくりと椅子へ座った。
「分かった。待つ」
奈々と優子が医療術師に続いて部屋を出る。
神一郎は残ろうとする。
「お前は別室だ」
椎菜の声が飛ぶ。
「篠宮さんの話を」
「私が聞くと言ったはずだ」
「でも」
「藤崎副隊長」
職務上の呼び方。
反論を許さない時の声だった。
「命令だ。診察を受けろ」
「……了解」
神一郎は灯里を見る。
「すぐ戻る」
「神一郎も?」
「ああ」
「約束?」
「約束だ」
灯里が頷く。
神一郎は部屋を出た。
扉が閉じる。
室内には灯里と、通信術式の向こうにいる椎菜だけが残された。
『怖いか』
「分からない」
『身体が震えているぞ』
言われて、灯里は自分の手を見た。
指先がわずかに揺れている。
「これが怖い?」
『私は医療術師ではない。感情の名前まで診断できない』
「奈々なら、怖いと言う」
『そうだろうな』
「神一郎は隠す」
『よく見ている』
「観察するように作られたから」
『では、観察した上で答えて欲しい』
椎菜は灯里を真っ直ぐに見た。
『奈々くんたちと過ごした時間も、すべて命令だったのか』
「奈々を観察するよう命令された」
『昼食を一緒に食べたのも?』
「観察に必要だった」
『ミルクティーを三本買ったのも?』
「信頼を得るため」
『命令へ逆らったのも?』
灯里の言葉が止まる。
『答えられないか』
「違う」
『何が違う』
「それは、命令ではない」
灯里は胸元へ手を当てた。
「奈々を傷付けたくなかった」
『朝倉くんと神一郎もか』
「うん」
『なら、君が自分で決めたことはすでにある』
「でも、私は奈々を騙している」
『そうだな』
「友達のふりをして近付いた」
『最初はそうだったのかもしれない』
「今も、組織へ報告している」
『それを奈々くんへ話せるか』
「話したら嫌われる」
『その可能性はあるな』
椎菜は否定しなかった。
優しい嘘で安心させることもしない。
『だが、話さなければ、奈々くんが君を信じるための材料も与えられない』
「信じてもらうには、全部話さなければならない?」
『今すぐすべてを話す必要はない。君が話せば命を狙われる情報もあるだろう』
「では、何を話す?」
『自分で決めろ』
「分からない」
『分からないなら、考えろ。誰かに決めてもらおうとするな』
灯里の指先の震えが止まる。
命令に似た言葉だった。
だが、何を選べとは言われていない。
従った先に用意された正解もない。
灯里自身が考えなければ、答えには辿り着けない。
「中嶋椎菜は、私をどうする?」
『君が組織から離れると決めるなら保護する。組織へ戻ると決めるなら監視する。こちらへ危害を加えるなら拘束する』
「騎士にする?」
『しない』
「私には、騎士と同じ力がある」
『力があることと、騎士であることは同じではない』
「なら、私は何?」
『それも君が決めろ』
灯里は俯いた。
「難しい」
『生きるというのは、たぶんそういうものだ』
「中嶋椎菜にも分からない?」
『分からないことばかりだ』
「強いのに?」
『強さは答えを知っていることではない』
灯里は初めて、画面の中の椎菜を警戒する相手ではなく、自分と同じように答えを探す人間として見た。
*
隣の診察室。
神一郎は寝台へ横になり、腹部の包帯を外されていた。
傷口は閉じている。
だが、その周囲には暗い紫色の痕が残っていた。
人工魔力核を持つ騎士と接触した時に入り込んだ、異質な魔力。
医療術師が術式を重ねる。
「やはり、治癒が遅いですね」
「悪化してますか」
「傷そのものは悪化していません。しかし、周囲の回路が治癒術式を拒んでいます」
「人工魔力核の影響ですか」
「断定はできません。ただ、通常の残留魔力とは性質が違います」
腹部へ触れられるたび、鈍い痛みが走る。
神一郎は顔に出さないよう天井を見た。
「痛い?」
奈々の声がした。
神一郎が顔を向ける。
検査を終えた奈々と優子が、診察室の入口に立っていた。
「ノックくらいしろ」
「したよ。返事がなかったから入ったの」
「聞こえなかった」
「痛いのを我慢してたからじゃない?」
「違う」
「三段階悪く考えると、すごく痛いってことだね」
「その基準をいつまで使うつもりだ」
優子が扉を閉める。
「傷、まだ治ってないんだ」
「表面は閉じています」
医療術師が答える。
「ただ、異質な魔力が治癒を妨げています。無理を続ければ再び開く可能性があります」
「さっき走ったからかな」
奈々が告げ口をする。
「走ってない」
「途中から走ったって自分で言ったよ」
「どのくらいですか」
「校舎の二階から三階まで」
「奈々」
「何?」
「正確に報告しすぎだ」
「隠すよりいいでしょ」
医療術師は呆れたように息を吐いた。
「今日はこのまま宿泊区画で安静です」
「篠宮さんの…」
「神一郎」
奈々が遮る。
「灯里のことは椎菜さんに任せたんでしょ」
「任せたけど、話を聞かなくていいとは」
「守ることと信じることの違いを学んだんじゃなかったの?」
椎菜と同じことを言われた。
「二人で相談したのか」
「してないよ」
「だったら余計に腹が立つ」
「怒ると傷に響くよ」
「誰のせいだ」
神一郎が上半身を起こそうとする。
腹部に力が入り、暗い紫色の痕が脈打った。
「っ……」
「神一郎!」
奈々がすぐに寝台へ近付く。
伸ばされた手に、神一郎は反射的に自分の手を重ねた。
白い魔力がわずかに漏れる。
その光が傷へ触れた瞬間、紫色の痕が細く浮かび上がった。
「待ってください」
医療術師が奈々の手元を見る。
「今の状態を維持できますか」
「できます」
「出力は上げないで。そのまま、触れているだけで」
奈々は頷く。
白い光を神一郎へ押し込まない。
治そうともしない。
ただ、傷の中にあるものへ耳を澄ませる。
灯里の黒い回路へ触れた時と同じ。
神一郎の身体が、自分の力ではないものに動きを妨げられている。
「見える」
「何が?」
神一郎が尋ねる。
「傷の周りに、細い糸みたいなものがある」
「人工魔力核の回路ですか」
「回路じゃないと思います。命令の残りみたいな……神一郎の身体へ、治るなって言っているような」
医療術師が解析術式を重ねた。
白い光に照らされ、傷の周囲へ絡み付いた暗い糸が術式の上にも映る。
「残留魔力ではなく、阻害術式」
「外部信号と同じですか」
「構造の一部が似ています」
優子が息を呑む。
「カイルさんと戦った時に入ったの?」
「おそらくは。人工魔力核の魔力が傷口から侵入し、藤崎さんの回路へ定着したのでしょう」
「取り除けますか?」
奈々が尋ねる。
「今まで位置を特定できませんでした。ですが、あなたの魔力が触れている間なら」
医療術師は奈々を見る。
「赤坂さん。治療を手伝ってもらえますか」
「はい」
奈々は即答した。
「待て」
神一郎が止める。
「奈々の身体に負担は?」
「あります。量は予測できません」
「なら、他の方法を」
「神一郎」
「駄目だ」
「まだ何も言ってない」
「奈々がやると言うのは分かってる」
「だったら聞いて」
「傷は時間をかければ治る」
「本当に?」
奈々は医療術師を見る。
「断定できません」
神一郎の表情が硬くなる。
「阻害術式が残る限り、治癒には時間がかかります。活動を続ければ、藤崎副隊長の魔力回路そのものに損傷が残る可能性もあります」
「だったら、私がやる」
「奈々」
「私のことを守りたいのは分かってる」
奈々は重ねた手を離さなかった。
「でも、私は神一郎を助けたい」
「そのために奈々が倒れたら意味がない」
「倒れるまでやらない」
「自分で止められるのか」
「止めるよ」
「前にもそう言って」
「今は一人じゃない」
奈々は医療術師を見る。
「見ていてくれる人がいる。優子もいる。神一郎もいる」
「俺が?」
「私が無理をしてたら止めて」
「それは」
「神一郎が決めるの」
奈々は真っ直ぐに神一郎を見る。
「私に任せるか。それとも、また何も選ばせずに遠ざけるか」
神一郎は答えられなかった。
守ること。
信じること。
昨日から何度も突き付けられた言葉。
灯里が自分の核へ命令することを、奈々は手伝った。
奪わず。
代わりに決めず。
本人の意思が届くように。
今、奈々も神一郎へ同じことを求めている。
「条件がある」
神一郎が言う。
「何?」
「医療術師の指示に従ってくれ。少しでも異常があれば止める。無理に傷を完全に治そうとしなくていい」
「最後のはどうして?」
「奈々は全部やろうとするから」
「神一郎に言われたくない」
「だから、お互いにだ」
奈々は少しだけ目を見開いた。
それから笑う。
「うん。約束」
「任せた」
短い言葉。
だが神一郎にとって、それは剣を握るより難しい選択だった。
自分を守るために。
奈々を危険から遠ざけるためではなく。
奈々の力を信じ、奈々自身の判断へ預ける。
医療術師が神一郎の腹部へ解析術式を展開する。
「始めます。赤坂さんは、見えている糸を一本ずつ外してください。藤崎さんの回路へ魔力を流し込みすぎないように」
「はい」
奈々は目を閉じた。
神一郎の手を握る。
白い魔力が、淡く二人を包んだ。
*
神一郎の傷は、暗い部屋の中にある裂け目のように見えた。
その周囲へ、細い紫色の糸が幾重にも絡み付いている。
『動け』
『戦え』
『壊れるまで止まるな』
言葉ではない命令が、糸の一本ずつに刻まれていた。
カイルが自分の意思で神一郎へ残したものではない。
彼自身も、人工魔力核に同じ命令を与えられていた。
兵器として動き続けるための命令。
その一部が、剣を交えた神一郎の傷へ移った。
「神一郎」
奈々は呼ぶ。
「聞こえる?」
「ああ」
すぐ近くから声が返る。
「今から、傷の周りにあるものを外すね」
「頼む」
「痛かったら言って」
「分かった」
「本当に言ってね」
「分かってる」
奈々は最初の糸へ触れた。
白い光が指先から広がる。
紫色の糸が抵抗する。
神一郎の身体を縛ることで、自分の役目を果たそうとする。
「これは、神一郎のものじゃない」
奈々は言った。
「もう、戦わなくていい」
糸がほどける。
一本。
次の一本。
白い光で焼き切るのではない。
神一郎の回路と、外から入り込んだ命令の境目を見つける。
触れて。
確かめて。
違うものだけを外していく。
灯里の核に触れたことで、奈々は初めてその違いを知った。
誰かの意思へ寄り添う力と。
誰かの意思を押さえ込む力。
形は似ていても、同じではない。
「奈々」
神一郎の声が少し遠くなる。
「何?」
「息が乱れてる」
「まだ大丈夫」
「本当か?」
その一言で、奈々は手を止めた。
すべての糸を外したい。
傷を完全に塞ぎたい。
神一郎から痛みをなくしたい。
それでも、約束した。
「あと一本だけ」
「奈々」
「……分かった。止める」
奈々は白い魔力をゆっくりと戻した。
暗い空間が消える。
*
目を開けると、診察室の天井が見えた。
奈々は寝台の横へ立ったまま、神一郎の手を握っている。
優子が背中を支えてくれていた。
「奈々、大丈夫?」
「うん。ちょっと疲れただけ」
医療術師が解析結果を確認する。
「阻害術式の大部分が消失しています」
「全部じゃない?」
「一本だけ残っています。ただ、これなら藤崎さん自身の治癒力と通常の治癒術式で処理できます」
「傷は?」
「今、閉じていきます」
暗い紫色の痕が薄くなる。
その下で止められていた神一郎の魔力回路が、本来の流れを取り戻していく。
鈍い痛みが消えた。
代わりに、傷口が塞がる時の熱だけが残る。
「どう?」
奈々が尋ねる。
「痛くない」
「三段階悪く考えると?」
「本当に痛くない」
「違和感は?」
「少しだけ」
「やっぱりあるんじゃない」
「傷が治る途中なんだから、それくらいはある」
医療術師が頷いた。
「明日の朝まで安静にすれば、傷口は完全に閉じるでしょう。ただし、魔力回路が戦闘に耐えられるまで三日は必要です」
「三日」
「短いと思ってください。赤坂さんが阻害術式を見つけなければ、数週間はかかっていました」
神一郎は奈々を見る。
「ありがとう」
「うん」
奈々は嬉しそうに笑った。
「でも、次からはもっと早く言って」
「何を?」
「痛いって」
「今回は言っただろ」
「途中からね」
「少しは進歩したと思ってくれ」
「自分で言う?」
優子が笑う。
「二人とも進歩したんじゃない?」
「私も?」
「奈々も、途中で止められたから」
「それは神一郎が止めたから」
「止められて、ちゃんと止まったでしょ」
奈々は少し考えたあと、頷いた。
「そっか」
「俺も止められた時は止まってる」
神一郎が言う。
奈々と優子が同時に見る。
「何だよ」
「どの口が言うのかなって」
「傷が治ったなら、もう一度開けてあげようか?」
「朝倉さん、怖いことを言うな」
優子が笑い、奈々もつられて笑った。
神一郎は息を吐き、寝台へ背中を預ける。
誰かへ頼ること。
誰かに任せること。
どちらも、守ることを諦めるのとは違う。
一人では届かない場所へ、手を伸ばすために必要なことなのかもしれない。
*
一時間後。
灯里は面談室で、奈々たちが戻るのを待っていた。
扉が開く。
最初に奈々。
その後ろに優子。
最後に、腹部へ新しい包帯を巻いた神一郎。
灯里は椅子から立ち上がった。
「戻った」
「約束したから」
奈々が答える。
灯里は神一郎の歩き方を見る。
「痛みが減っている」
「分かるのか」
「歩幅が朝より広い」
「傷を治してもらったからな」
「奈々に?」
「ああ」
「神一郎は、奈々に助けてもらった?」
「そうだ」
神一郎は迷わず答えた。
「任せた」
灯里は奈々を見る。
「奈々は、神一郎の力を自分のものにした?」
「してないよ」
「では、どうやって治した?」
「神一郎の身体に残ってた、神一郎のものじゃない力を外したの」
「私と同じ?」
「少し似てた」
「なら、やっぱり私たちは同じ」
灯里の声には、昨日までとは違う強さがあった。
自分と奈々を繋ぐものを、ようやく見つけたような表情。
奈々はすぐに頷かなかった。
「似てるところはあるよ」
「同じではない?」
「うん」
「どうして?」
「灯里の力は、灯里を生かすために埋め込まれた。でも、灯里へ命令するためにも使われてる」
奈々は自分の胸元へ手を当てた。
「私の力は、沙耶さんが私を生かすために残してくれた。誰かが私を動かすための命令は入ってない」
「与えられた力であることは同じ」
「それだけならね」
「何が違う?」
「受け取ったあと」
奈々は答えた。
「灯里は、今日、自分の力に止まれって言った。私は、神一郎を治すって決めた。でも、神一郎が止めたら途中で止まった」
「なぜ?」
「私の力だからって、何をしてもいいわけじゃないから」
「自分の力なのに?」
「相手がいることなら、相手にも選ぶ権利があるでしょ」
灯里は神一郎を見る。
「神一郎は、奈々に任せると決めた」
「ああ」
「奈々は、神一郎が止めろと言ったから止めた」
「うん」
「二人で決めた?」
「そういうことになるね」
灯里はしばらく考えた。
組織から与えられた力。
組織から与えられた命令。
灯里はそれを、すべて自分のものだと考えていた。
自分の身体の中にあるから。
十年以上、自分を生かしてきたから。
だが、自分のものにするというのは、誰の言葉も聞かずに使うことではない。
誰かへ従うことでもない。
自分で考え、相手の意思を聞き。
その上で、どうするかを選ぶ。
「難しい」
「うん。難しいよ」
奈々は笑った。
「私も、まだよく分かってないから」
「でも、奈々は選べる」
「灯里も選んだでしょ」
「命令に逆らっただけ」
「私たちを傷付けないって決めた」
「それだけ」
「最初は、それだけでいいと思う」
灯里は俯いた。
胸の奥で黒い人工魔力核が脈打つ。
一度。
二度。
今は外からの命令を受けていない。
「奈々」
「何?」
「話すことがある」
灯里は顔を上げた。
「私は、奈々を観察するために学校へ行った」
神一郎の表情が変わる。
優子も笑みを消した。
奈々だけは、灯里から目を逸らさなかった。
「うん」
「組織から命令された。奈々の力を調べて、報告するため」
「うん」
「昨日も報告した」
「何を?」
「奈々の魔力が私の核へ反応したこと。触れた時に、出力が変化したこと」
「他には?」
「奈々が私を警戒していることは、隠した」
「どうして?」
「分からない」
灯里は一度、言葉を止めた。
誰かに用意された答えではなく。
自分の中にあるものを探す。
「奈々たちを、傷付けてほしくなかった」
奈々の目がわずかに潤む。
「友達だと言ったのも、命令?」
「最初は、そうする方が観察しやすいと思った」
「今は?」
「分からない」
灯里は正直に答えた。
「でも、明日も学校へ行きたい」
「観察するため?」
「違う」
「どうして?」
「奈々が卵焼きを持ってくるから」
奈々の唇が震える。
「それだけ?」
「優子に、別の飲み物も渡したい」
「俺には?」
神一郎が尋ねる。
「神一郎は、傷が治った祝い」
「またミルクティーか?」
「嫌?」
「嫌じゃないが」
「なら、買う」
灯里の口元が、ほんの少しだけ緩む。
「それから、図書室の本の続きを読みたい」
「うん」
「奈々が、私をまだ友達と呼ぶのか知りたい」
奈々は灯里の前へ立った。
「呼ぶよ」
「騙していたのに?」
「嫌だったよ」
灯里の表情が止まる。
「最初から本当のことを話してほしかった。私のことを調べて、知らない人へ伝えてたのも嫌」
「では」
「でも、今話してくれた」
「全部ではない」
「全部じゃなくても、灯里が自分で話すって決めたことは分かる」
「許す?」
「すぐ全部なかったことにはできないよ」
奈々は手を伸ばす。
昨日と同じ。
ただし、今日は灯里がその手を取るまで待った。
「これからは、隠す前に考えて。私たちに話せることなら話して」
「嫌われるかもしれない」
「そうだね」
「怖い」
灯里は初めて、自分の感情へ名前を付けた。
奈々が笑う。
「私も、灯里に本当のことを聞くのは怖いよ」
「奈々も?」
「うん。でも、怖いまま話せばいいと思う」
灯里は奈々の手を見る。
命令はない。
手を取れとも。
取るなとも言われていない。
灯里が自分で決める。
右手を上げる。
奈々の手を握った。
「明日も学校へ行く」
「うん」
「自分で行く」
「待ってる」
灯里は奈々の手を握ったまま、椎菜の映る画面を見る。
「私は、今日は組織へ戻らない」
『自分で決めたのか』
「うん」
『なら、人間界支部で保護する。ただし監視は付ける』
「信用していないから?」
『それもある。ただ外部から再び核を操作される危険もある』
「分かった」
『学校へは通えるよう手配する。一般人へ事情は知らせない。君はこれまでどおり、療養から復学した一年A組の生徒として過ごせ』
「騎士団のことは?」
『学校では口にするな。魔力も使うな。君が人造騎士であることを、一般の生徒や教師へ知られる行動は避けるべきだ』
「奈々たちと同じように?」
『そうだ』
「私は騎士ではない」
『今はな』
「いつか、騎士になる?」
『それを決めるのは私ではない』
灯里は小さく頷いた。
与えられた名前で。
与えられた制服を着て。
用意された学校へ通う。
外から見れば、昨日までと何も変わらない。
それでも明日、校門をくぐる理由だけは違う。
命令ではない。
観察だけでもない。
篠宮灯里が、自分で選んだ明日だった。
*
その夜。
人間界支部の宿泊区画。
灯里に用意された部屋には、必要最低限の家具しかなかった。
机。
椅子。
寝台。
昨日まで暮らしていた部屋と、よく似ている。
けれど机の上には、三つの物が置かれていた。
奈々が持ってきた卵焼きの入った小さな容器。
優子が選んだ新しい文庫本。
神一郎から渡された、人間界支部の連絡端末。
『困ったことがあれば連絡しろ』
そう言って渡された。
誰かを監視するための端末ではない。
命令を受け取るための物でもない。
灯里が助けを求めるための物。
机の端には、組織から渡された端末も置いてある。
画面は何度も点灯していた。
『定時報告を実行せよ』
『現在位置を送信せよ』
『A-01、応答せよ』
灯里は端末を見つめる。
今までなら、考える前に指を動かしていた。
報告する。
命令に答える。
それが篠宮灯里の役割だった。
灯里は端末へ手を伸ばした。
画面を開く。
入力欄に、短い言葉を打つ。
『私は、篠宮灯里』
送信はしない。
そのまま電源を切った。
組織から与えられた番号ではなく。
実験台でもなく。
奈々を観察するための道具でもない。
まだ、自分が何者なのかは分からない。
何をしたいのかも。
誰を信じていいのかも。
それでも。
「明日も学校へ行く」
声に出す。
胸の奥で、黒い人工魔力核が脈打った。
一度。
二度。
その音が、自分の心臓なのか。
与えられた兵器の鼓動なのか。
灯里には、まだ区別できない。
けれど、その力をどう使うのか。
誰の言葉を聞き。
誰の手を取るのか。
それはこれから、自分で決められる。
窓の外には、人間界の街の明かりが広がっている。
そのどこかに、奈々たちの家がある。
朝になれば、同じ制服を着て。
同じ教室へ向かう。
灯里は寝台へ横になる。
明日を待つ。
誰かに与えられた明日ではない。
自分で選んだ明日を。
*
同じ夜。
アトランティス帝都北区。
窓のない地下施設で、白衣の男が二つの波形を見つめていた。
黒い人工魔力回路。
白い治癒魔力回路。
記録の中央には、赤い警告が残されている。
『A-01 外部制御信号遮断』
「A-01からの応答は?」
「ありません。位置情報も途絶えました」
「騎士団に保護されたか」
「回収しますか」
「必要ない」
男は白い波形を拡大する。
「A-01は役目を果たした」
「赤坂奈々の能力確認ですか」
「あれは人工魔力核を安定させるだけではない。宿主の意思と、外から与えられた命令を識別できる」
「治癒魔力に、そのような機能は」
「本来はない」
男の口元が歪む。
「だから価値がある」
別の画面が開かれる。
冷たい台の上へ固定された少女。
エマ・クラウス。
胸元の傷はまだ塞がっていない。
その奥で、黒い人工魔力核が弱く脈打っている。
『E-02 適合率四十パーセント』
「次の段階へ進める」
「この状態では、起動に耐えられません」
「耐えさせる必要はない」
「では」
「赤坂奈々が、どこまで救えるのかを確認する」
男が操作卓へ指を置く。
「E-02を人間界へ送れ」
「暴走した場合、計画の存在が露見します」
「一般人には事故として処理できる場所を選べ。騎士団には、こちらから見つけさせる」
「A-01も現れる可能性があります」
「それでいい」
画面の中で、エマの指がわずかに動いた。
「自分で選ぶことを覚えた試作品が、壊れかけた同類を前に何を選ぶのか」
白衣の男は笑う。
「第三段階を始めよう」
黒い人工魔力核が脈打つ。
一度。
二度。
まだ、その痛みは奈々へ届かない。
白い力を持つ少女と、黒い心臓を持つ少女。
二人は、それぞれの意思で明日を選んだ。
だが、選ぶことさえ許されなかった少女が、暗闇の中で次の夜を待っていた。




