第09話 いなくなった兄【九条瑠亜視点】
正直、最初は少し面白かった。
家族会議の場で、兄があんなふうに言い返したのは初めてだったからだ。
父さんに真正面から言い返して、母さんの優しさを切り捨てて、姉さんまで黙らせた。
しかも僕に向かって、あんなことまで言った。
――兄が必要なんじゃない。見下せる相手が必要なだけだ。
思い出して、瑠亜は自室のベッドの上で小さく笑った。
「……本当、どうしちゃったんだろ」
天井を見上げながら呟く。
部屋の照明は落としてあるのに、目は冴えていた。
怒っているわけではない。
少なくとも、自分ではそう思っていた。
――むしろ気になるのだ。
いつもなら、あの場で兄はもっと下を向いていた。
違うと否定して、でも誰にも信じてもらえなくて、最後には黙るしかなくなる。
そういう流れだったはずなのに、今日は違った。
まるで別人みたいに、冷たかった。
怯えた顔もしない。
泣きそうにもならない。
僕を見ても、嫌そうにも苦しそうにもせず、ただまっすぐ見返してきた。
――あの目は何だったんだろう。
「成長期って、ああいう感じなのかな?」
くすりと笑う。
自分で言って、自分で少しだけ気味が悪くなった。
――違う、そんな軽いものじゃない。
兄は何かがおかしい。けれど、そのおかしさが何なのかはまだ分からない。
誰かに何か言われたんだろうか?
学校で?
外で?
それとも、やっと壊れたのかな?
そこまで考えて、僕は寝返りを打った。
スマホには、さっきから何件もメッセージが届いている。
海斗や玲奈たちからだ。
『大丈夫?』
『お兄さんやばくない?』
『またなんかあったら言って』
優しいな、と思う。
でも今は返す気になれなかった。
そういう慰めより、兄の事を考えていたかったからだ。
今日の兄は、変だったけど、嫌いな変化じゃない。
今までの兄はつまらなかった。
少し押せば黙るし、泣くし、言い返しても弱い。
壊れそうで壊れないだけの、面倒な置き物みたいだった。
けれど今日は違った。
ちゃんと目を合わせてきた。
僕に向かって言葉を返した。
あの瞬間だけ、兄は今までで一番【生きてる】みたいだった。
「……変なの」
自分の胸のあたりを押さえる。
少しだけざわざわしていた。
苛立ちに近いのに、同時に期待みたいなものも混ざっている。
僕の知ってる兄じゃなくなるのは嫌だ。
でも、このまま急に面白くなるなら、それはそれで見ていたい。
そんなことを考えながら、瑠亜はいつの間にか目を閉じていた。
翌朝、最初に違和感を覚えたのは、食卓だった。
母さんがいつものように朝食を並べ、父さんがニュースを流し見していて、姉さんは眠そうな顔で席についている。
いつもと変わらない朝。
ただ一つ違うのは、兄がまだ降りてきていないことだった。
「乃亜、また遅いの?」
母さんが少しだけ眉を寄せる。
でもそれだけだ。
いつものことだと思っている顔だった。
「放っておけばいいだろ」
父さんはそれ以上興味を示さない。
姉さんも視線を泳がせただけで、何も言わない。
僕は箸を持ったまま、ぼんやり階段の方を見た。
昨日のことがあっても、誰も兄の様子を見に行こうとしない。
そんな事、別に珍しいことじゃない。
これまでもそうだった。
兄が部屋にこもっていようが、具合が悪そうだろうが、誰かが本気で気にしたことなんて、ほとんどなかった。
だけど今日は、少しだけ引っかかった。
昨日の兄の事を考えた僕は、何事もなく朝を迎えるような気がしなかった。
「僕、呼んでくる」
そう言って立ち上がると、母さんが少し安心したように微笑んだ。
「お願い瑠亜。あの子、あなたにだけは変な意地を張らないから」
その言葉に、僕は曖昧に笑って返した。
階段を上がりながら、胸のざわつきが少しずつ強くなる。
兄の部屋の前に立つ。
いつもなら、ノックをすれば中で気配が動くのが分かる。
「兄さん?」
返事はない。
もう一度呼ぶ。
だけど返事がない。
いつもだったら部屋の鍵がかかっているはずなのに、鍵はかかっていなかった。
そっと開けると、部屋の中はしんっ、としていた。
「……あ」
最初に見えたのは、空っぽのベッドだった。
掛け布団は乱れている。
けれど、人が寝ていたあとの熱みたいなものがもうない。
窓際の空気も冷えている。昨夜のうちに出たのだと、なんとなく分かった。
僕は部屋の中へ一歩入る。
机。
床。
隅に寄せられた本。
それ自体は変わらない。
でも、よく見ると少しだけ足りないものがある。
スマホがない。
学校で使う鞄もない。
細々した私物も、一部だけ消えていた。
「……え」
喉から変な声が漏れた。
――逃げた?
その言葉が頭に浮かぶ。
けれど、すぐには実感が湧かない。
兄が自分から家を出るなんて、考えたこともなかったからだ。
だって兄は、ずっとここにいた。
苦しくても、辛くても、結局はこの家の中で黙っていた。
僕たちに何かを言われても、完全にはいなくならなかった。
それなのに――僕はゆっくりと部屋を見回した。
昨日の兄の顔が、脳裏によみがえる。
静かな目。
諦めたようでいて、でもどこか決まっていた声。
――乃亜は諦めたんだ。
――お前たちに信じてもらうことを。家族として見てもらうことを。求めることを、もうとっくに諦めたんだよ。
「……どこに行っちゃったの?」
呟いた声は、自分でも驚くくらい頼りなかった。
嫌だった。
怒り、ではない。
悲しい、でもない。
もっと落ち着かない、居心地の悪い感覚だった。
兄がいなくなるなんておかしい。
だって兄はここにいるものだった。
僕の兄で、久城家の失敗作で、何かあるたび比べられて、泣いて、黙って、それでもここにいるものだった。
勝手にいなくなるなんて、困る。
そう思った瞬間、自分の胸の内側がひどく冷たいことに気づく。
「瑠亜?」
下から母さんの声が聞こえた。
瑠亜は慌てて振り向く。
「兄さん、まだ?」
「……いない」
階段の下で、母さんが怪訝そうな顔をした。
父さんもようやく新聞から目を上げる。
「いないって何だ?」
「部屋に、いない。荷物も少しなくなってる」
一瞬だけ、家の空気が止まった。
けれどその沈黙は、心配というより困惑に近かった。
まるで置いてあった物がなくなった時みたいな、そんな反応だ。
父さんが舌打ちする。
「くだらん真似を……」
「家出、ってこと?」
「大げさよ……どうせその辺にいるでしょう」
母さんはそう言ったが、声にわずかな揺れがあった。
姉さんは青い顔をしている。
僕はそれを聞きながら、部屋の入口に立ち尽くしていた。
家族は誰も、兄がいなくなった事をちゃんと理解していない。
いや、理解したくないのかもしれない。
だって本気で考えたら困るからだ。
どうして兄がいなくなったのか、何を思って出ていったのか、自分たちが何をしてきたのかを。
でも僕だけは、昨日の兄の顔を知っている。
あれはただの反抗じゃない。
ただ怒っただけでもない。
切ったのだ――兄の方が、この家を。
その事実が、ひどく気に入らなかった。
兄は僕の知らないところへ行ってはいけない。
僕の見えない場所で変わってはいけない。
僕の知らない顔を、外で作ってはいけない。
じわりと胸の奥に広がったのは、初めて味わう種類の苛立ちだった。
「……探さなきゃ」
誰にともなく、僕は小さく呟いた。
その声は、家族に向けた【心配】のようにも聞こえただろう。
けれど本当は違う。
心配なんかじゃない。
ただ、確かめたかった。
昨日から急に変わってしまった兄が、今どこで、どんな顔をしているのか。
そして、ちゃんとまだ――僕の知っている兄のままなのかを。
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