第85話 この家の大人たち
昼を少し回った頃、家の中はようやく落ち着きを取り戻していた。
理央たちはそれぞれ別の部屋や庭先へ散り、智明も祖父と何か話しているらしく姿が見えない。
家は静かだった。
人の気配はあるはずなのに、全く騒がしくない。
誰かが無理に空気を作らなくても、生活の音がちゃんと家の中を埋めている。
俺は居間の端に座ったまま、湯飲みのぬるくなりかけた茶を見ていた。
味はうまいのだが、熱さがないので入れ直してこようかなと考えていた時だった。
「ちゃんと飲んだ?」
不意に声をかけられて顔を上げると、そこにいたのは祖母だった。
手には小さな包みと水の入ったコップを持っている。
最初は何のことか分からなかったが、すぐに思い当たった。
確か、病院でもらった薬だ。
「……まだです」
「やっぱり……苦いのは分かるけど、後回しにしていいものでもないでしょう?」
そう言って、俺の前へ自然にコップを置いた。
笑顔でそのように言ってくる祖母の姿を見ながら、俺は体を少し上げる。
「飲みます」
「えらいえらい、って言う歳でもないわね、フフ
渡された薬を受け取り、口に含み、水で流し込む。
祖母はそれを見届けて、ようやく小さく頷いた。
そのまま台所へ戻るのかと思ったが、そうしなかった。
代わりに炊飯器の方へ向かい、しばらくして茶碗を一つ持って戻ってくる。
「はい」
差し出された茶碗には、ご飯が少し多めによそわれていた。
「食べられそう?」
「……少しなら」
「おにぎりにしましょうか……梅入れる?」
「出来れば、お願いします」
おにぎりを作った後、何故か今度は味噌汁までついてくる。
あまりに自然なので、断る隙がなかった。
「……お腹、あんまり空いてません」
「あら、そうなの?」
祖母はそんな事を言いながら笑って味噌汁を差し出す。
とりあえず一口、啜ってみると味噌の風味が美味しさを感じている。
そのまま美味しさを噛みしめながら、おにぎりを口の中に入れた。
「私ね、難しい話は分からないけどね……具合の悪い子を休ませるくらいはできるわよ」
「……そうですか?」
「ええ、そうよ。現にあなた、顔色まだ悪いわよ?」
「……そう、ですね」
その一言が、思っていたより深く落ちた。
祖母はそれ以上、何も聞かなかった。
ただ、本当の祖母のように、笑顔で隣に座り、俺の頭を優しく撫でてくれる。
まるで、嘗て自分の傍にいてくれた――。
『――ノア、いい子ね』
「……あさん」
「ん、どうしたの乃亜?」
「……あ、いえ、なんでもないです、すいません」
ふと、呟いてしまった。自分自身の”家族”を思い出してしまった。
もう、手を届く存在ではないのに。
祖母はそんな俺の顔をみて満足した顔をしているのに、気が付かなかった。
おにぎりを食べ終わった後、祖母はもう一度俺の顔に目を向けた後、そのまま台所の方に戻っていく。
残された俺は静かに息を吐きながら、またのんびりを開始する。
風を感じながら落ち着いて座っていると、廊下の向こうから祖父が姿を見せた。
「乃亜、少しいいか」
「あ、はい」
声をかけてきた祖父は先ほど祖母が座っていた場所い座る。
祖母のやわらかさとは違う、静かな圧がある感じがした。
「母さんのごはんはうまかったか?」
「はい、おにぎり美味しかったです」
「そうか……良いか、乃亜。お前の過去に難があったか、俺たちは知らん」
「はい」
そのように言うと、祖父はまっすぐこちらを見る。
「――この家にいるなら、隠し事をするな、いいな?」
声は低い。
だが、怒っているわけではない。線を引いているだけだ。
「それは――」
「……例え、君が私が知っている乃亜ではなくても、家族のようなモノだ」
「かぞく……」
「だから隠し事はなしだ、何があれば必ず私たちに言いなさい。いいな?」
そのように言ってくる祖父の姿は、真剣な顔をしていると同時、本当に俺を心配してくれているのだろうと理解した。
思わず何も言えなくなってしまう。
”久城家”ではない、優しい場所のように。
「……ちょっと、少しやりづらいですね」
思わずそう言うと、祖父はほんのわずかに口元を動かした。
「まぁ、そうだろうな」
「でも、嫌いではないですよ、俺」
「それなら結構だ」
笑いながら、そのように言ってきた。
そしてそのまま、乃亜の肩を軽く叩く。
温かい手が、俺の頬に触れるようにしながら、笑っていた。
もうちょっと怖いなと感じる祖父の姿がなかった。
そのまま祖父は立ち上がり、去り際に一度だけ足を止める。
「ここは久城家ではない」
「……」
「だからといって、何もかも許される場所でもないと思う」
「分かっています」
それだけ言って、祖父は廊下の向こうへ消えた。
そのまま、時間だけが過ぎていた。
▽
いつの間にか、夕方になっていた。
家の中が静まったあと、俺はふと縁側の方へ視線を向けるとそこに、白い月光の中にセレネが立っていた。
長い銀髪を夜風に揺らしながら、ただ黙って空を見上げている。
その横顔はいつものように穏やかだったが、どこか硬い。
――月を見ている。
いや――月の向こうにある、何か別の気配を探っているようにも見えた。
夜は静かだ。
けれど、その静けさの底に、まだ言葉にならない不穏が沈んでいる。
そんな気配が、確かにあったのかもしれない。
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