第75話 祖父母の家
車が緩やかに速度を落とし始めた頃には、窓の外の景色はもう完全に街中のものではなくなっていた。
低い住宅の間に畑が混じり、道の脇には古い石垣や生け垣が見え、ところどころに背の高い木が立っている。
空は相変わらず白くぼやけていたが、その下に広がる景色には、病院の周辺や学校の近くにはない静けさがあった。
「よし、そろそろ着くぞ」
智明がそう言って、車を細い道へ入れる。
膝の上ではミュールが丸くなったまま、尻尾の先だけをゆっくり揺らしていた。
車に乗ってからしばらくして落ち着いたのか、今は喉を鳴らすこともなく、ただ静かにこちらへ体重を預けている。
黒猫の姿のままだが、その賢すぎる目は時々細く開き、窓の外を眺めていた。
ふと、ミュールが俺の顔に目を向けて問いかける。
「ノア、きんちょーしてる?」
「少しな」
「……だいじょうぶ。ノアも、もうひとりの”のあ”もおちついているから、だいじょうぶ」
「え……」
そのように言ってきたミュールはそのまままた欠伸をしながら俺の膝を堪能している。
その意味を理解出来ないまま、俺は首を傾げる事しか出来なかった。
やがて車は、一軒の家の前で止まった。
母方の祖父母の家――乃亜の記憶の奥に、断片だけ残っていた場所だ。
大きすぎるわけではないが、古さと手入れの行き届いた落ち着きのある家のように見える。
広めの庭先には季節の草木が植えられていて、玄関までの石畳もきれいに掃かれており、派手さはない。
車が止まり、エンジンが切れる。
その瞬間、妙に深い静けさが車内へ落ちる――ここから先は、また別の空気だ。
「降りるぞー」
智明が言って、先に運転席のドアを開けた。
俺もシートベルトを外すと、その動きに合わせて、膝の上のミュールがするりと立ち上がった。
黒猫の身体がしなやかに伸び、車の外へ出る前に、ちらりとこちらを見る。
「ミュール、いるつもりなら喋るなよ?」
「そのつもり~」
小さく言うと、ミュールは細い目をさらに細めた。
そして緩い返事をしながら俺の後をついていき、同時に尻尾を一度だけ揺らした。
車を降りると、空気が少しだけひんやりしているのを感じる。
病院の周辺よりも乾いていて、土と草の匂いがする。
都市の中にあったざわつきが、ここまで来るとずいぶん遠い。
後部座席から理央たちも降りる。
理央は欠伸をしながら背を伸ばし、透花、花宮の二人も身体を軽く動かし、伸ばしていた。
俺はそのまま玄関の方へ視線を向けると、すでに人影があった。
――祖父と祖母だ。
二人とも外まで出てきていたらしい。
祖母は柔らかい色合いの服を着ていて、年齢なりの落ち着きがある。
祖父は背筋の伸びた老人で、無駄な動きがない。
どちらも乃亜の記憶に“いる”顔だ――だが、今こうして自分の目で見ると印象はかなり違った。
祖母はまず智明を見て、それから俺へ視線を移した。
その目は優しい。優しいが、ただ柔らかいだけではない。
数秒で顔色や立ち方を見ているような目だった。
「いらっしゃい――あらあら、理央くんと透花ちゃんも久しぶりね。元気にしてた?」
「……ご無沙汰してます」
「は、はい、お世話になります」
透花と理央の二人は元々”乃亜”の幼馴染だ。
小さい頃、あった事があるのだろう――微かな記憶で出てきた幼い乃亜の記憶を頼りにしながら、俺は二人に目を向けた。
「ただいま、母さん、父さん」
「おかえり智明……乃亜も久しぶりね」
「あ、ああ……はい、今日はお世話になります」
あらあら、他人行儀になっちゃって……とにかく、まず中に入りなさい。外で立ち話するような話でもないでしょう?」
フフっと笑いながら答える祖母に対し、その視線は俺の顔から少しも逸れなかった。
心配している。だが同時に、見ているように見えたのだ。
表情の薄い部分や、立ち方の癖や、乃亜本人との細かな違いを。
祖父はもっと露骨で、そんでもって無口だ。
最初に智明を見て、次に理央たちをひと通り見て、最後に俺を見る――そこでほんの一瞬だけ、目が止まった。
何も言わない――だが、その短い沈黙だけで十分だった。
もしかして、乃亜じゃないって気づいている?
少なくとも“何かが違う”ことには、もう気づいている顔のように見えた。
玄関へ向かう途中、ミュールが俺の足元へ静かに寄ってきた。
さっきまで膝の上にいたのに、今はただの黒猫らしく、すり、とズボンの裾へ体を寄せるだけだ。
「あら、猫?」
祖母が少し目を丸くする。
「連れてきたの?」
「あー……乃亜が狩ってる猫なんだ。離れなくてついてきた」
「あらあら、そうなのね、かわいいわー……乃亜、名前はなんていうの?」
「ミュール、です」
「ミュールちゃんねー」
祖母は驚きより先に、足元のミュールを見て笑いながら挨拶をしてくれた。
「可愛いわねー」
そのように言っただけで、先に玄関の扉を開ける。
ミュールは当然のように一緒についていった。
家の中へ入ると、木と畳と、洗いたての布の匂いがした。
病院の白さとはまるで違う。人が生活している家の匂いだ。
「靴、そこにおいてね。荷物はあとでいいから、まず座って。顔色の悪い子を玄関に立たせたままにしたくないわ」
「っ……」
その言い方に、少しだけ息が抜けた。
多分顔色が悪いのは、俺の事だろう――色々と考えていたから、なのかもしれない。
祖父は何も言わないまま、俺たちの後ろに立っていた。
だが、その視線だけはまだこちらを外さない。
俺は廊下へ一歩踏み出す。
叔父の家とも、病院とも違う空気だ。
俺にとって、ここが安全かどうかはまだ分からない――だが少なくとも、久城家ともまた違う。
「……」
ふと足元を見ると、ミュールが廊下の端に座っていた。
何も喋らず、ただ金色の目で静かに家の中を見ている。
その姿は完全に猫だ。
だが、こいつなりに周囲を見ているのが分かる。
祖母が客間へ通そうとする。
祖父は少しだけ遅れてついてくる。
その途中、すれ違いざまに祖父が俺へだけ聞こえるくらいの声で、小さく言った。
「――なるほど」
ただ、その一言だけだった。
祖父はそれ以上何も言わなかった。
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