表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/15

第15話:溢出

 王城内に設けられている施療院の一室。そこは厚い石壁が外の喧騒を完全に遮断している。

「魔術というものは、起きたことをなかったことにするものではありませんぞ! 治すと一口に言っても、治癒という名の時間加速。本来の治癒過程を短縮するだけのもの。無理を強いれば、相応の代償が伴うものなのですぞ!」

 ずんぐりむっくりした黄色のカエルは腕組みをして、見た目の印象以上に難しい顔をしている。

「それでも、本当によろしいのですかな?」

「……ああ。よろしく頼む」

 ベッドの上で横になっているペルナは、ひどい顔をしている。それでも、声には覚悟がある。

 カエルは何とも言えない表情で頭を振り、その場で心配そうにしているグレイプとシトルーナを見た。副隊長と軍師の見解をうかがう。

 二人の反応は、本人の意思を尊重している。

「わかりました。どうなっても知りませんぞ!?」

 そう言って、カエルは椅子の上からベッドに飛び移り、小さな呟きの後、ペルナの胸の辺りに両手を軽く押し当てた。

 数秒の沈黙が続く――何も起こらない。

 これだけ? ペルナが思った途端、ドクンと心臓が大きく脈を打った。

「くっ……う……うわぁぁぁ!」

 次の瞬間、沈黙が悲鳴に変わる。激しい炎で焼かれながら、鈍器で骨を砕かれるかのような激痛が腹を何度も貫く。その逃げ場のない地獄に、ペルナの体は容赦なく蹂躙され、ベッドの上でのたうちまわる。

 そのあまりにも凄絶な光景に、シトルーナだけならず、グレイプですらも怯んで言葉を失った。

「ひとまず、外に出たほうがよろしいでしょうな。ペルナ隊長も苦しんでいる姿など見られたくないのでは?」

 カエルが促す。

 戸惑いながらも二人は、熟練した老齢の看護師を部屋に残して外へと出た。

「あれが……どれほど続くのですか?」

 グレイプは、外に出ても聞こえてくる叫び声に不安を隠せない。普段のクールな表情は皆無だ。

「約半日ですな! 苦痛は徐々におさまっていくはず。あれは、数字にすれば……だいたい120倍の時間加速。ペルナ隊長は、自分が耐えられるギリギリを望みましたからな! もっとも、それ以上は命が危険。どこまで耐えられるかを試してみたい! という好奇心がなかったかと言ったら、嘘になりますがね!」

「本当に大丈夫なんですか?」

 シトルーナが青ざめた顔で尋ねた。

「大丈夫かどうかは、ペルナ隊長次第としか……ん? んん? ん!?」

 言葉の途中で、カエルは突然首を傾げる。そして、シトルーナを見ながら指差し確認をし始めた。

「妙ですな。今まで、あまり接触する機会がなかったとはいえ……シトルーナ殿は頭がおかしい……」

「え? 頭が……キャッ!」

 いきなり自分の頭にピョコンと飛び乗ったカエルに、シトルーナは小さく悲鳴をあげる。

 しかし、カエルはお構いなしだ。シトルーナの頭を無遠慮に調べて、髪を乱している。

「何をしているんですか?」

 グレイプが見かねて、カエルをつかみ上げた。

「かすかではありますが、魔術の匂いが……この懐かしい感じは……まさか、お師匠様の?」」

 鼻をクンクンとさせながら、カエルは手足をじたばたさせる。


 その後、王城に隣接する建物――通称、魔術師の塔。その最上階に位置する王室魔術師長の研究室へと、一同は場所を移した。

「ふむ。やはり、これは……記憶を封印する魔術がかけられていますな!」

「え? 記憶? 封印……ですか?」

 カエルに再び頭を調べられて、シトルーナは怪訝な顔を返す。「頭がおかしい」と言われた時は、どうしようかと思ったが、まさか自分の記憶が封じられているだなんて思いもしなかった。

「どうしますかな? 解放してみますかな?」

「い、痛いですか?」

「まさか! ただ……どんな記憶が出てくるかはわかりませんぞ?」

「……どんな記憶が?」

 シトルーナは、グレイプを見た。しかし、何も言わない。その顔は自分で決めることを促している。

 どうしよう? と悩む。だが、迷っている場合ではないとも思う。

「お、お願いします!」

 もしかしたら、父上のことかもしれない? でも、違うかもしれない……。シトルーナは首を縦に振った。たった今、ペルナの逃げない姿を目の当たりにしたばかりだ。だから、それに倣うことにした。

「かしこまりましたぞ!」

 カエルは弟子の手のひらの上に乗り、指示を出す。そして、シトルーナの顔の高さに自身の目線を合わせ、そのまま歌うように節をつけて小さく何か唱えてから指を額に軽く当てた。

 ふわりと風が吹き抜けたように感じた――刹那、シトルーナは目を大きく見開いた。黙ったまま棒立ちになる。

 ふと、脳裏に懐かしい光景がよみがえった。それは、シトルーナ自身が経験した幼い頃の記憶だ。

「……は……母上? え? いや……いやぁっ!」

 小さく声が漏れたかと思うと、途端に呼吸が乱れて、苦しそうに胸を押さえた。洪水のように押し寄せる記憶に押しつぶされそうになる。見開かれた目から涙が溢れて、頬を流れ落ちた。

「大丈夫と言いませんでしたか!?」

 崩れ落ちそうになるシトルーナのことを、グレイプは慌てて支えた。それから、近くの椅子に座らせる。

「それは……痛くないという意味ですぞ」

 カエルも少しは動揺しているのか、やや声が小さい。

「母上の体が氷みたいに透明で……窓からの光に反射してて……そうだ……私が、最初に見つけたんだ」

 ぽつり。ぽつりと、シトルーナはわき上がる記憶を言葉にする。それは自分の意思ではない。勝手に声になる。

「あの日……父上とピクニックに行く日……なかなか、母上が家から出てこなくて……呼びに行ったら……台所でバスケットの準備を……母上が……あれは、今起こってる水晶化と……同じ?」

 口元に手をやり、焦点の合わない目を床に向け、体を小刻みに震わせている。何度も首を振り、何が起きたのかわからないという混乱を自分の中に抑え込む。

「シトルーナ殿の母上が……水晶化? あ……ああ! なるほど! あれは、ヴェシメロニ殿のことだったのですな!? 何年か前に見つけて、ずっと気になっていたのですよ!」

 呆然としていたカエルが、不意に何かを思い出したようにピョコンと飛び上がった。そして、壁を埋めるようにして並んでいる書架から羊皮紙の束を引っ張り出した。

 弟子が手伝い、魔術書や実験器具が散乱している机の上に羊皮紙を広げる。その上に、カエルを置いた。

「ふむふむ。そう! これですぞ――奥方が水晶化したと相談を受ける。悲しむ姿を見ているのがつらいとのこと。ご息女の記憶を封印する」

 カエルは小さな眼鏡をかけてから、読み上げる。

 グレイプは、シトルーナを気づかいながら耳を傾けた。

「水晶化から元に戻す方法を共に探す。見つからない。古くから存在する儀式に関係があるかもしれない」

 その内容は、前王室魔術師長の手記だ。経過記録というよりも、抱えきれない秘密を書き出したかのようにも読める。

「今朝、水晶となった奥方が光の中に溶けて消えたとのこと。何も解決できず、無念。彼の心に及ぼす傷は魂の髄まで凍てつかせることだろう」

 淡々と読み上げられる内容を聞きながら、シトルーナは顔を手で覆った。

「最近、彼の様子が少し変わった気がする。だが、誰が責められるだろうか――と、ここで終わっていますな」

 最後まで読み終えると、カエルは「なんともはや」と呟いたきり黙り込んだ。


 ――ミュルキス国。戦術会議室には、いくらかの明かりはあれど薄暗い。ひんやりとした空気は、天気のせいでもある。

「妻は世界に二度殺された」

 ヴェシメロニは静かに言った。

 湿った風が窓を叩く。

「故に……私は、犠牲の上に成り立つ安寧――世界の理など認めない」

 ろうそくの炎が重い空気に小さく揺れる。

「それは、何と……私から理由をお尋ねしておきながら……言葉もありません」

 聞くべきではなかった……。メロニエルは言葉を詰まらせた。私らしくない。そう思うのに、自分の心の中に芽生えようとしている同情心にあらがえない。

「それでかまわない。邪魔さえしなければな」

 それだけ言うと、ヴェシメロニは感情をつかませない顔で重い扉を後にした。

「いつものように無言を通せばよいものを……さて、どうする?」

 メロニエルは机の上に肘をつき両手を組んだ。そして、その手に憂いを含んだ唇をつけた。


 翌日の午前中。タイヴァス王国は薄曇りの空を広げ、陽の光が拡散して王城の輪郭を少しだけぼやけさせている。

 施療院の個室、そこではペルナがパンを頬張っていた。半日苦しみ、半日眠り、今さっき目覚めたところだ。

「リスか?」

 グレイプは安心すると同時に、小動物のように頬を膨らませているペルナの姿に面食らった。

「行儀が――」

「元気そうで何よりじゃないか!」

 ルピッツァが何かを言う前に、シニエが口を挟む。

「ふぉにふぁく腹ふぁ減ってふぁ」

「食べ終わってから話せ!」

 ペルナがモグモグと口を動かしながら言えば、ルピッツァは怒鳴った。

「わざわざ、三人揃って見舞いか?」

 改めて、ペルナは口の中のものを飲み込んでから尋ねる。

「いや……まあ、そうなんだが。少し違う」

 言いにくそうに、グレイプは眉をひそめた。

「話があるって呼ばれたんだ。俺とルピッツァも」

 この場に、シニエたちを呼んだのは理由がある。昨日のこと――ヴェシメロニとシトルーナに起こった出来事についてを話さなければならない。

 グレイプが目配せをすると、何も言われずとも察した様子で老齢の看護師は部屋を出ていった。


 ――午後になり、空を覆う雲は重く厚みを増した。

「今度は何なんだ!」

 騎士団寮の自室からペルナは飛び出した。洗ったばかりの髪から冷たい水滴が落ちる。

 城の中の階段を駆け上がり、廊下を走り、王座の間の扉の前に着いた頃には、すっかり息があがってしまった。怪我は完治しても、体力は完全ではないのかもしれない。とはいえ、昨日までの痛みが全然ないのは不思議な感覚だった。

 ロングベストのボタンを留め直してから、深呼吸をする。ルシッカからの緊急の呼び出しを受けて、ここまで来たが、内容は聞いていない。評議会の延長か? わからないまま扉を開いた。

 広い部屋の中、玉座の前にはルシッカとシトルーナ。そして、先ほど顔を合わせたばかりの三人がいる。

 予想していた感じとは違う。ヴェシメロニとシトルーナの話か? 顔ぶれを見る限りでは、そう思えた。

「もう体は大丈夫なのか?」

 不意に背後から声をかけられて、ペルナはハッとする。振り向けば、ルパレが立っていた。

「ああ……もう平気だ。ひどい目にあったけどな」

 ルパレは「そうか」とだけ返して、自分を待つ者たちのもとへと向かう。

 何なんだ? そういえば、あいつ……戦場にいたよな? ペルナは自分の前を歩く司祭服の背中を見ながら、ミュルキスの魔術師だったランドと対峙した時のことを思い出す。

「ペルナ! もう大丈夫なのですか?」

 ルシッカは、ペルナを見るなり表情を明るくした。魔術的な治療の話は聞いている。だから、元気そうな様子に安心した。

「おかげさまで。ご心配いただき恐縮です」

 ペルナは笑顔で頭を下げる。

 だが、顔を上げて目に入ったシトルーナの顔に、言葉を失った。顔色は悪く、くぼんだ目は視線を落とし、一切の表情がない。

 今朝のグレイプの話は、あまりにも重かった。ルピッツァはともかく、シニエでさえ頭を抱えて一言も発せなくなっていた。それが、当事者ならば心痛は計り知れない。俺だって……正直、知りたくなかった。そう、ペルナは思わずにはいられない。

「では、よろしいですか? 早速ですが、本題に入らせてもらいます」

 ルパレは普段通りの口ぶりで言う。その表情や口調が、これから話される内容をまるで想像させない。

「が、その前に……この顔ぶれで間違いはありませんか? 以前よりも増えている気がしますが」

「は、はい! 私が呼びました。儀式のことは、もう話しました。だから、これからの話も聞いてもらわなければなりません」

 ルシッカは大きく頷いた。

 ああ、だからか。ペルナは納得する。シトルーナ以外も、午前中以上に沈痛な面持ちをしている。ルピッツァとシニエは朝から連続して理解を超えるような話を聞かされたのだから、さぞ剣も盾も壊れた気分だろう。

「わかりました。では、本題に入りましょう。儀式を完成させる方法がわかりました」

 先ほどと変わらぬ調子で言い、ルパレは手に持っている書物を開いた。

「本当ですか!?」

 ルシッカの声が明るく響く。

「はい。命です」

 そのあっさりとしたルパレの返事に、何を言われたのかわからないと言ったように、ルシッカは口を開けたまま表情を固めた。

 それは、他の面々も変わらない。時間が止まったかのような沈黙が、数秒ほど続いた。窓の外から聞こえてくる日常の音が、遥か遠い世界の音のように響く。

「ルシッカ国王には前にも話しましたが、今回は一度失敗しています。だから、血ではなく――命が必要になります。それが理の側の要求です」

「ちょ、ちょっと待て! 命って……そんな簡単に言うなよ!?」

 ペルナは思わず、ルパレの肩をつかむ。その拍子に書物が手から落ちた。

「何を、どう言おうと、内容は変わらない」

 二人の視線が鋭くぶつかる。

「文句があるなら、人ならざる者と契約を結んだ人間に言ってくれ。今回、一人の命で済むのも、理の側に貸しを作った……ある者のおかげだ」

「お前、何者なんだ?」

「オレが何者でも関係ない。今、起こってる出来事を見てもわかるだろう? 本当なら、世界の半分の命を求められてもおかしくないくらいだ。この国の王家は、そういうものと契約を交わしたんだ」

「だからってな……」

 こいつも納得してるわけじゃないのか? ルパレの苛立った表情に、ペルナは違和感を覚えた。冷たいことを言っているようにも聞こえるが、その瞳の奥には何か違うものに対する怒りがある。だから、それ以上は何も言えなくなってしまった。

「続けます」

 足元に落とした書物を拾い上げて、ルパレはページをめくる。

「さらに、介添人にはシトルーナを指名させてもらいます」

 そして、やはり変わらぬ口調で告げた。

 その瞬間、息が詰まるような静寂が王座の間を包み込んだ。あまりのことに、誰もが沈黙に口を塞がれている。

 高い位置にはめられた窓の外で、鳥が休んでいる。

「それが、理の側の選択であり、条件です」

 ルパレの口調に、わかりにくい程度の呆れがにじんだ。儀式を妨害した父親。ルシッカへの淡い想い。どちらの理由をとっても、シトルーナにとっては非情以外の何ものでもない。

「私が?」

 長い沈黙の後、シトルーナは呟いた。ルパレを見る目は虚ろだ。今、やっと理解が追いついた。そんな顔をしている。

「ば、馬鹿馬鹿しい! そのような戯言、荒唐無稽にもほどがある! ルシッカ国王も、シトルーナ殿も聞く耳をもつ必要なんてありません!」

 ルピッツァが声を荒らげた。王座の間の高い天井に怒りが響く。

「仮に、今の話が本当だとしても……すぐに決められる話では……だから、落ち着いてから……改めて話し合いの場を設けては?」

 グレイプは冷静になろうとするが、簡単にはいかず、言葉に詰まってしまう。昨日の話を上回ることなどないと思っていた。

「他にも方法が――」

「ない。これほど簡単で、これほど難しいことが他にあると思うか?」

 やっとの思いで、シニエは口を開いたが、ルパレに容赦なく否定された。

「駄目だ! そんなの絶対に駄目だ。俺の命を……俺が代わりになるから……」

 ペルナは言うが、ルパレの顔を見れば答えは聞かずともわかる。


 ……僕の命? ルシッカは目の前で怒ったり、動揺している者たちを見る。それら全てが自分のためだと思うと、少しだけ不思議な気がした。かつての王族の過ちを誰も責めない。国王が犠牲になることを誰も当たり前としていない。その事実が、目の前の男たちから痛いほどに伝わってきた。

 ふと、隣で呆然としているシトルーナを見て、申し訳ない気分になる。こんなことに巻き込んでしまって、ごめん……でも。

 ルシッカは、その場の者たち一人一人をゆっくりと見る。見終わると、目を閉じた。

「僕は決めたよ」

 それから、静かに目を開く。

 怒鳴り声が、ぴたりと止まる。再び耳が痛くなるような静寂が落ちた。

「そんなの……いけません」

 それまで、石像のように固まっていたシトルーナが、誰よりも早く反応した。否定に首を横に振っている。涙を溜めながらも必死に泣くのを我慢している目は、うさぎのように赤い。

「今回は逃げません」

 ルシッカは笑う。笑いたいわけではないが、自然と穏やかな気持ちになった。僕は、この人たちが好きだ。この国が好きだ。それだけで、この国の王になった意味があるんだ。

「こういう時は逃げてもいいんだよ」

 ペルナは困り顔を返す。

 もはや、誰も何も言えない。ただ、国王の決断を受け止めるしかない。


 シトルーナだけが、ただただ首を横に振っている。まるで、小さな子どもが何もかもを拒絶するかのようだ。

「シトルーナ」

 そのルシッカの声に、シトルーナの目からボロボロと涙がこぼれ落ちる。奥歯を噛みしめて必死に泣くのを堪えるが、涙は止まらない。こんなことのために……王様になってほしかったんじゃない! 優しいあなたが作る、優しい国を、優しい未来を――ただ、それが見たかっただけなのに! 心の中で叫ぶ。

「僕のために泣いてくれてありがとう」

 そう言って、優しく微笑むルシッカの目にも僅かに涙がにじんでいる。

 シトルーナの顔は、ぐしゃぐしゃだ。酷いなどというものではない。それでも、うつむくことも、顔を手で覆うこともしない。まっすぐに前を向いて、体の両端で手を強く握り、崩れないように自分を立ち上がらせている。

 たまらず、ペルナはシトルーナを片手で抱き寄せた。そうやって、顔を隠してやる。

「お前も嫌ならやらなくていいんだぞ」

「わ、私……私だって逃げません」

 声にならない声が、小さな嗚咽と共に吐き出された。

「決まりだな」

 絶望を静かに受け止めて、ルパレは書物を閉じる。


 それから、その場は重苦しい空気をそのままに解散となった。

 騎士たちは、それぞれ自分の中に答えを探す。しかし、すぐには見つからない。目の前で下された決断は、あまりにも現実離れしていて、切実で、尊い。

「ペルナ」

 廊下を歩きながら、グレイプは深刻な顔をする。

 ペルナは返事の代わりに目だけを向けた。

「どさくさにまぎれて女性を抱きしめるとはな」

「はあ!?」

 思いもしないことを言われて、ペルナは素っ頓狂な声を出す。

「べつに他意とかはねえよ! っていうか、こんな時に言うことか!?」

「こんな時だから言うんだ」

 不意、グレイプは足を止めた。

 同じように数歩先で足を止めて、ペルナは振り返った。まっすぐに向けられているグレイプの視線に、思わず表情を硬くする。

「お前は憎しみに堕ちるな。国王を殺したミュルキスに、裏切った副団長に、世界の理とやらに……どれだけ怒ってもいい。怒りは原動力になる。でも、憎しみは足枷にしかならない」

 続けて、冷静な声は静かに戒める。

「……ああ。わかってる」

 多分、本当はわかっていない。ペルナは頷きを返すが、言われて初めて自分がどんな顔をしていたのかわかった気がする。でも、どうすれば? 俺は何のために剣を握ってる?

 ペルナは窓の外に目を向けた。曇天の下を黄緑色の鳥が羽ばたいている。その自由な羽ばたきを目で追いかけながら――自分が今どんな顔をしているのか、再びわからなくなった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ