第6話 王になると、口が勝手に喋り出す
翌日の午前9時、俺は一人で金山ダンジョンの前に立っていた。
藤堂には潜るとメッセージを入れてある。入退場の記録はどうせ残るし、黙って行くとあとで面倒なことになる。
装備を借りる。昨日と同じ、一番安そうな鉄の剣。
扉の前には、今日も人が並んでいた。家族連れもいる。小学生くらいの子供が、親にカードをかざさせてもらってはしゃいでいる。
平和だ。平和なんだが。
人がいる。
1階層に入っても、あちこちに探索者がいた。声もする。足音もする。壁の向こうから「そっち行った!」とか聞こえてくる。
この中で、俺は真顔で叫ばなければならない。
無理だろ。
結局、しばらくうろついた。
分かれ道を側道に入って、人の声が遠くなるほうへ。行き止まりの小部屋みたいな空間を見つけたのは、入ってから40分後だった。
入口は一つ。広さは教室の半分くらい。誰もいない。
耳を澄ましてみる。遠くで、誰かが笑っている声がする。こちらまでは届かない距離だ。
ここなら。
俺は剣を下ろして、深呼吸をした。
さて、問題はここからだ。
一昨日の夜、布団の中で学んだことがある。小声では駄目。照れても駄目。噛んでも駄目。
本気でやるしかない。
周りを見回す。誰もいない。天井も壁も、うっすら光る岩だけだ。
目を閉じる。
思い出せ。中学2年の教室。窓際の席。ノートの上に広がる、誰にも見えない宇宙。
あの頃の俺は、この名前を口に出すたびに、本気で背筋が伸びていた。
目を開けた。
「——我が名はカオス・テロス・クルヌギアス」
声が、岩の部屋に響いた。
続きは、もう口が覚えていた。
五行。一音も濁らず、一度も噛まず、最後まで言い切った。
画面が浮かんだ。
真名:カオス・テロス・クルヌギアス
職業:終焉ヲ統ベル深淵王
STR:8(+測定不能/解放率 ???)
来た。
同時に、体が軽くなった。
いや、軽いというのは正確じゃない。世界のほうが、少しだけ遅くなった。
足元の石を蹴ってみる。軸足だけで、石は壁まで飛んでいって、高い音を立てて跡を残した。
……うわ。
声に出さなくてよかった、と後から思った。
借り物の剣を振ってみる。昨日は両手でも重かったそれが、片手で、物差しのように動いた。
これが、解放率 ??? の実力らしい。
全部ではない。何割なのか、何分の一なのかも分からない。それでこの差だ。
ふと、視界の端に違和感があった。
自分の前髪だ。
少し、伸びている。
朝は眉にかかる程度だったのが、目にかかるくらいになっている。しかも、毛先のほうが妙に黒い。もともと黒髪だが、それよりさらに、光を吸うような黒だ。
剣の腹に顔を映してみた。
目の色が違った。
右目は黒。左目が、うっすら白い。
†王ノ書†の設定画そのままだった。髪は漆黒のロングで、右目が黒、左目が白。当時の俺が、何時間もかけて描いた顔だ。
全身が王になっているわけではない。光輪もないし、コートも翅もない。だが、確実に、寄っている。
(いや、待て)
これ、人前で名乗ったらどうなる。
髪が伸びて、目の色が変わる。その状態で「我が名はカオス・テロス・クルヌギアス」から始まる五行を叫んでいる高校生。
想像したら寒気がした。
フードだ。フードを買おう。今日の帰りに絶対買おう。
10分。
時間は10分しかない。
俺は走った。
岩の部屋を出て、通路を戻る。人の声が近づく前に、別の側道へ。
いた。
ゴブリンが一体、壁に背をつけて何かをかじっている。
向こうが気づいて、棒を振り上げた。
昨日は、これが避けられなかった。
今日は。
振り下ろされる前に、もう懐に入っていた。
剣を振る。
手応えが、あっけないほどなかった。昨日あれだけ硬かった皮が、紙みたいに切れた。
ゴブリンが崩れて、砂になって消える。
後には、牙が一本落ちていた。
……。
息を吐いた。
昨日、俺はこいつに吹き飛ばされた。脇腹に棒をもらって、背中から落ちて、肺の空気が全部抜けた。
その相手を、一撃で消した。
手のひらに、まだ感触が残っている。斬ったときの、抵抗のなさ。
楽しい。
自分でも驚くくらい、はっきりとそう思った。
「倒せた!」
言ってから、違和感があった。
声が、低い。
いや、それだけじゃない。喉の奥で、言いかけた言葉が別のものに差し替わっている。
試しに、もう一度口を開いてみた。
「——他愛もない」
言うつもりはなかった。
「やばい強い」とか、そういうことを言おうとしたはずだ。それが、口から出るときには「他愛もない」になっていた。
背筋が寒くなった。
中学の俺は、王の口調も設定していた。当然だ。設定しないわけがない。一人称も、語尾も、句読点の打ち方まで決めていた。
それが、降りてきている。
試しに、意識して普通に喋ろうとしてみた。
いや待てよこれ普通に喋れないやつじゃん、と言うつもりだった。
「——是非もなし」
言えなかった。
もう一度試す。やばい、と言おうとした。
「——ふむ」
駄目だった。
どれだけ意識しても、口から出る瞬間に変換される。頭の中では「やばい」と思っているのに、声になると「ふむ」になる。
心の中では、普通に考えられている。それだけが救いだった。
(落ち着け。落ち着け一ノ瀬朔。これは口だけの問題だ)
「——狼狽えるな。我は我である」
うるさい。
(黙れ)
「——沈黙もまた、王の選択である」
こいつ、黙るのすら格好つけてくる。
つまり、こういうことだ。
王になっている間、俺は普通に喋れない。
誰だこんな仕様にした奴は。
俺だ。
その瞬間、目の前に別の表示が出た。
Lv:1 → Lv:2
※獲得経験値は半分です(王の力を使用中)
「半分?」
読み直して、俺は岩壁に顔を押しつけた。
つまり、王の力で倒すと、経験値が半分になる。素のまま倒したほうが、強くなるのは早いということだ。
昨日の俺は、ゴブリン一体に吹っ飛ばされた。
素で倒せと。本気か。
いや、落ち着け。半分でも入る。入るだけましだ。
そう自分に言い聞かせて立ち上がったとき、画面がもう一枚浮かんだ。
条件を満たしました。
スキルを解放します。
【孤高ナル王ハ、独リデ立ツ】
見覚えのある文字列だった。
見覚えがあるどころではない。俺が書いた。
†王ノ書†の、中二の秋ごろのページだ。確か、友達と喧嘩した翌日に書いた記憶がある。
説明文を開く。
【孤高ナル王ハ、独リデ立ツ】
「王に背を預ける者は要らぬ。我が背後にあるのは、常に終焉のみである」
効果:単独行動時、王の力の解放率が上昇する
※他者と行動している間は効果を失います
岩の部屋で、俺はしばらく動けなかった。
中学2年の俺は、これを「孤高の王は仲間など頼らないからかっこいい」という理由だけで書いた。友達と喧嘩した直後だったから、たぶん言い訳も兼ねていた。
そして今、同じ人間が、友達に見られずに潜る口実を探している。
中学の俺。お前、未来が見えてたのか。
いや、違う。
俺が、変わってないだけだ。
10分が過ぎて、王のステータスが消えた。
体が重くなる。剣が重くなる。世界の速度が戻ってくる。
前髪を触ってみると、長さも元に戻っていた。
地面に座り込んで、俺は天井を見上げた。
入学式のあとは、五人で潜る約束だ。
その場になったら、このスキルは効果を失う。しかも、四人の前で真顔に名乗らなければ、そもそも王にもなれない。
つまり、五人で潜ったら、俺はSTR8の高校生のままだ。
どうするんだ、これ。
だが、不思議と絶望はなかった。
入学式まで、まだ時間がある。
それまでに、使えるものを全部使えるようになっておけばいい。
帰りにフードつきの上着を買おう、と思いながら、俺はもう一度息を吸った。
「——我が名はカオス・テロス・クルヌギアス」
五行を、最後まで。
この日、俺は1階層でゴブリンを四十一体倒した。
十分の王を三回。そのあいだ、ひたすら走り回って、見つけたら斬った。
強さは、もう問題じゃなかった。
王の拳も、王の振る剣も、ゴブリン程度なら触れた瞬間に終わる。何体来ようが同じだ。抵抗というものがない。
問題は、探す時間のほうだった。
十分。
この十分をどう使うかで、倒せる数が決まる。強さではなく、移動距離が上限になっている。
贅沢な悩みだな、これ。
誰にも見られていないと思っていた。
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