第31話 月曜日、俺だけが何も知らなかった
月曜の朝、背中の痛みで目が覚めた。
昨日、オークに殴られた場所だ。起き上がろうとしたら「うぐ」と変な声が出た。
だが、それよりも先に確認することがある。
ステータスを開く。
```
Lv:90
```
「っしゃ!」
布団の中で拳を握った。
夢じゃなかった。昨日の朝は74だったのが、一日で90だ。Lv100まで、あと10。次のスキルが、もう手の届くところにある。
何が解放されるのかは分からない。分からないのがいい。この頃の俺が書いた何かが、また一つ本物になる。考えただけで、背中の痛みがちょっと引いた気がした。
気がしただけだった。起き上がったら普通に痛かった。
枕元のスマホに手を伸ばして、そこで止まる。
昨日、配信を切ったあと、俺はスマホの通知を全部オフにした。コメントも、SNSも、何も見ないと決めた。
理由は一つだ。
何百人の前で、「集え、光。宿れ、我が刃に」と叫んだ。
二行。真顔で。
あのあとのコメント欄は、見たら恥ずかしさで溶ける。溶けて布団に染み込む。そうなったら学校に行けない。なので見ない。以上。
スマホを、画面を見ないまま鞄に放り込んで、俺は階段を下りた。
---
「おはよー」
「おはよ」
リビングでは、聖奈が先にトーストをかじっていた。朝練の日らしく、もうジャージだ。
聖奈が、トーストを咥えたまま俺を見て、目をまん丸にした。
「兄さん!?」
「おはよ。どした? 顔になんかついてる?」
「今日、学校行くの?」
「行くだろ。月曜だぞ。なんで休む前提なんだよ」
「へ、へえー……そっかー……」
聖奈の目が、明らかに泳いだ。
「なんだそのリアクション」
「べっつにー!」
聖奈はトーストを飲み込むと、ぱっと身を乗り出してきた。
「てか昨日の配信、見たよ!」
「お、どこまで?」
「最後まで!」
「まじで、全部? いやー、昨日の俺、がんばったよな。トラップ部屋だぞ、トラップ部屋。九十体だぞ」
「『集え、光! 宿れ、我が刃に!』」
聖奈がバターナイフを天井に掲げて、無駄に決めポーズを取った。
「やめろ!」
「『影も形も残さず、終わらせろ!』」
「全部覚えてんじゃねえか」
「キモーーい! あははは!」
聖奈は椅子の上で足をばたつかせて笑い転げた。
「知ってる。本人が一番知ってる」
ひとしきり笑ってから、聖奈は鞄を掴んで立ち上がった。朝練があるらしい。
玄関で靴を履きながら、顔だけこっちに向ける。
「兄さん!」
「ん? どした?」
「がんばってね!」
「何を?」
「色々! 行ってきまーす!」
ドアが閉まった。閉まる直前まで、まだ笑い声が聞こえていた。
なんだあいつ。朝からテンション高いな。
さては、昨日の俺のかっこよさに気づいたか。詠唱はともかく、剣を振ったところはかっこよかったからな。あれは自分でもかっこよかったと思う。
トーストを口に突っ込みながら、俺は一人でうんうんと頷いた。
---
学校までは、自転車で20分。
四月の朝の風が気持ちいい。背中はまだ痛いが、ペダルを漕ぐ足は軽かった。Lv90の足だ。坂道が坂道じゃない。
校門をくぐったあたりで、ちょっと妙な感じがした。
スマホを見ながら歩いている奴が、いつもより多い。しかも、見ている画面がだいたい同じ色をしている。暗い部屋に、白い光が走る動画。
「千種の……」
「壁って……」
「十五歳で……」
すれ違いざまに、そんな単語が耳に入ってくる。
千種。昨日、俺が潜ってたところだ。
何かあったのか。そういえば配信の最後、コメント欄に「壁」という単語が流れていた気がする。あのときは「聖剣じゃん」と「詠唱した」の二つで頭がいっぱいで、他を読む余裕がなかった。
まあ、いいか。どうせ昼休みには誰かが教えてくれる。
昇降口で靴を履き替えて、階段を一段飛ばしで上がる。
一年三組の扉に手をかけたところで、扉が内側から勢いよく開いた。
「一ノ瀬くん!!」
矢野だった。
目が据わっていた。
「お、おはよう矢野。朝から元気――」
「ちょっと来て!」
「え?」
「いいから来て! 座って! そこ! 座って!」
---
腕を引っ張られて、自分の席に座らされた。
座った瞬間に、囲まれた。
矢野。堀口。西野。後ろの席の久住と的場。それ以外にも、クラスの半分くらいがなんとなくこっちを見ている。
「え、なに? 俺、誕生日じゃないけど」
「これ見て!」
矢野が、スマホを俺の目の前に突き出した。
画面の中で、顔にぼかしの入った男が、白銀の剣を構えていた。
知っている。
知っているというか、俺だ。
『――集え、光。宿れ、我が刃に』
教室に、自分の声が響いた。
「うわああああああ!」
「これ、一ノ瀬くんでしょ!」
「ち、違う」
「違わないでしょ!」
「違う違う違う。誰だよそいつ、知らない人だよ。すごいな、かっこいい剣だな、じゃあ俺はこれで」
「逃げないで!」
立ち上がりかけたところを、的場に肩を押さえられた。小柄なくせに力が強い。
「『ダンジョンさんぽ』」
矢野が、一音ずつ区切って言った。
「千種のD級。十五歳。Dランク」
指が一本ずつ立っていく。
「一ノ瀬くん、先週の月曜、何て言った?」
「えーと。今日もいい天気だね、とか?」
「千種に潜るって言った! Dランクだって言った! 十五歳なのは知ってる、同じクラスだから!」
「いやー、偶然ってあるよなあ」
「偶然で三つ揃う?」
「揃うこともあるって。宝くじだって当たる人いるし」
「ないよ!」
矢野の声がでかい。廊下を歩いていた他のクラスの奴が、扉の外で足を止めた。
「……てか、調べた」
前の席の堀口が、スマホから顔を上げた。
「ギルドの公開データ。ランク別の登録者数、地域と年齢で絞れるやつ」
「え、そんなのあるの?」
「ある。探索科の奴が進路調べるのに使うやつ」
堀口が、画面をこっちに向けた。
「名古屋市、十五歳、Dランク」
表の一番下に、数字が一つだけあった。
1。
「一人しかいない」
「その一人が、実は別人っていう可能性は?」
「一人しかいないって言ってるだろ!」
「ですよね」
ぐうの音も出なかった。
そうだ。探索者登録は中学卒業後だ。四月の今、十五歳でDランクということは、登録して一か月も経たずにDまで上がったということになる。そんな奴、普通はいない。
いるとしたら、俺だけだ。
いや、改めて数字で見ると、俺けっこうすごいな?
ちょっと嬉しくなってしまった。そういう場面じゃないのに。
「あと声がさあ!」
的場が、俺の肩を押さえたまま言った。
「一ノ瀬そのまんまじゃない? カラオケで散々聞いたし」
「似てる声なんて、世の中にいくらでもいるだろ」
「……同じ」
低い声がした。
久住だった。背の高い、口数の少ない、この前のカラオケで俺と三曲ハモった男。
「ハモったから分かる。高いところで、ちょっと息が抜ける癖。同じ」
「久住、お前だけは味方だと思ってたのに!」
「……ごめん」
「謝るくらいなら言うなよ」
「……でも、同じだから」
全員が、うんうんと頷いた。
終わった。完全に詰んだ。データと耳で、両側から挟まれた。
「一ノ瀬くん」
矢野が、ゆっくり言った。
「配信、やってないって言ったよね?」
「言いました」
「やってたら教えるって言ったよね?」
「それも、言いました」
「嘘つき!」
「ごめん!」
勢いよく頭を下げた。
ここは言い訳しない。先週、確かに嘘をついた。そこは素直に謝る。
「ほんとごめん。言いづらくてさ」
「言いづらいって何が!」
「いや、だって」
顔を上げた。
「あれ見ただろ? 二行叫んでたの」
「見たけど」
「あれを同じクラスの奴に見られるの、恥ずかしすぎて無理だったんだよ。『集え、光』だぞ? 真顔で? 何百人の前で? 俺が矢野の立場だったら、一週間はそれでいじる自信あるもん」
沈黙があった。
矢野が、ぽかんと口を開けた。
「……え?」
「え?」
「……そこ?」
「そこだろ。他に何があるんだよ」
また、沈黙があった。
矢野が、堀口を見た。堀口が、西野を見た。西野が、的場を見た。的場が、久住を見た。久住は、天井を見ていた。
「一ノ瀬くん」
西野が、恐る恐る手を挙げた。
「あの……壁のことは」
「壁?」
「……」
「ああ、ニュースのやつ? 千種で何かあったんだろ。朝、校門のとこでみんな話してた。いやー、俺も昨日あそこにいたのに全然気づかなかったわ。誰がやったんだろうな。見てみたかったなあ」
教室が、静まり返った。
矢野の手から、スマホが落ちかけた。的場が慌ててキャッチした。
「……一ノ瀬くん」
「え、なに?」
「ほんとに、分かってないの?」
「何が?」
「壁に傷付けたの、一ノ瀬くんだよ!」
「は?」
矢野が、動画を巻き戻した。
白い線が、部屋を横切る。オークが順に消えていく。
そして、線が壁まで届いて、そこで消えた。
矢野が、そこで止めた。
拡大した。
壁に、まっすぐな溝が一本、走っていた。部屋の端から端まで。
「あ」
思い出した。
確かに、線は壁まで届いた。届いて、消えた。俺はそれを見ていた。見ていたが、そのあとすぐにドローンのほうを向いて固まったので、壁のほうは見ていない。
ダンジョンの壁。
小学校で習う。どんな攻撃を当てても傷一つ付かない。爆薬も重機も大型魔術も通用しない。記録上、傷が付いた例は一件もない。
一件も。
「え、俺?」
「そうだよ!!」
クラスの半分が、同時に叫んだ。
「え、うそ。まじで? 俺? え、すご」
「すごいとかじゃなくて!」
「いや、すごいだろこれ。壁だぞ、壁。世界初だぞ!」
「なんで本人が一番テンション上がってるの!?」
「上がるだろ。え、待って、じゃあ朝のニュースも俺?」
「そうだよ! 全部一ノ瀬くんだよ!」
「うわ、まじか。すげえ……」
画面の溝を、もう一回よく見た。
まっすぐだ。部屋の端から端まで、一本の線が綺麗に通っている。指が入るくらいの深さがある。
【天穿ツ光輝】。この頃の俺が、聖剣のページの一番上に書いた一本。
光の斬撃を放ち、範囲を一掃できる。
書いたのは、それだけだ。
「範囲」に、壁が入らないとは書いていない。この頃の俺は、ダンジョンの壁が壊れないなんて、たぶん考えもしなかった。
やったな、この頃の俺。
いや、やらかしたな、か。どっちだ。
「あ、でもちょっと待って」
ふと思って、手を挙げた。
「これってさ、もしかしてけっこうやばい?」
「今それ聞く!?」
「一ノ瀬くん、今日の朝のニュースも、ネットも、何も見てないの?」
「見てない。通知全部切ってる」
「なんで?」
「詠唱のコメント見たら恥ずかしさで溶けると思って」
「だからそこじゃないって!」
矢野が、机に突っ伏した。
「うそでしょ……この人、壁のこと知らないで一晩ぐっすり寝てたの……?」
「寝てた。10時間くらい」
「なんでそんなに寝れるの?」
「疲れてたし」
「メンタルどうなってんの!」
チャイムが鳴った。
担任が入ってきて、教室の真ん中で固まっている俺たちを見て、少しだけ眉を上げた。
「はい、座ってー。一ノ瀬くんの周り、解散」
みんなが、ぞろぞろと席に戻っていく。
矢野が、自分の席に座りながら小声で言った。
「……あとで全部聞かせてもらうからね!」
「はい。覚悟しときます」
「あと、チャンネル登録した。昨日の夜に」
「え、まじで。ありがと」
「お礼言うとこじゃないから! まだ怒ってるから!」
怒りながら登録してくれたらしい。いい奴だ。
---
午前中の授業は、正直まったく頭に入らなかった。
黒板を見ているふりをしながら、ずっと考えていた。
壁に、傷を付けた。
世界で初めて。
やばい。にやける。
いや、分かっている。たぶんこれは、にやけていい話じゃない。ギルドとか、偉い人とか、色々なところが大騒ぎしているはずだ。
でも、あの剣を振ったときの手応えは、本物だった。
白い線が部屋を横切って、六十体が一振りで消えた。手の中で刀身が鳴って、光が溢れて、正視できないくらい眩しかった。
あれが、壁まで届いていた。
今度、もう一回ちゃんと振ってみたいな。
詠唱があるから、人前では絶対に嫌だけど。
教室の後ろのほうから、ひそひそ声が聞こえる。
「本物じゃん……」
「え、同じクラスにいるのやばくない?」
「S級より上ってこと?」
「いや、剣の性能だろ」
剣の性能。
うん、そういうことにしておこう。そのほうが平和だ。
---
昼休み。
「一ノ瀬くん、購買行こ。今日は奢ってもらうからね、嘘ついた罰として」
「え、罰金制なの?」
「罰金制です」
「いくら?」
「焼きそばパン一個」
「安っ! いいよ、二個買ってやるよ」
「やった!」
矢野と一緒に立ち上がったところで、教室の入り口がざわついた。
廊下に、人だかりができていた。
見覚えのある光景だった。入学式の日、廊下で上級生を囲んでいた、あの人だかりと同じだ。
「え」
隣で、矢野が固まった。
「えっ、えっ、うそ、なんで!?」
人だかりが割れて、その間から一人の女子生徒が歩いてきた。
二年生のリボン。肩までの髪を、後ろで一つに結んでいる。背筋がまっすぐで、目つきに迷いがない。
この学校の人間なら、たぶん全員知っている。ステラリオンの、遠野灯。
そして俺は、もう一つ知っている。
南陽ダンジョンで、罠にかかってモンスターに囲まれていた人。
俺が黒い外套で、「汝の終わりは、今日ではない」とか言いながら助けた人だ。
まずい。
何がまずいのか、自分でもよく分からなかった。分からなかったが、体が先に動いていた。
「あ、俺ちょっと先に購買行ってるわ」
「え、一ノ瀬くん?」
鞄から財布だけ抜いて、教室の後ろの扉へ向かった。
購買に行くだけだ。昼休みだし。昼飯を買いに行くのは、普通の高校生として何もおかしくない。何も。
後ろの扉の取っ手に、手をかけた。
「一年三組の、一ノ瀬朔くん」
前の扉のところで、遠野先輩がはっきりとした声で言った。
「いる?」
取っ手を引いた。
扉が、半分開いた。
「あいつです!」
クラスの半分が、同時に後ろの扉を指さした。
「後ろ! 後ろのドア!」
「今出ようとしてます!」
「一ノ瀬くんです! あの人です!」
一番声がでかかったのは、矢野だった。さっきまで隣で固まって震えていたくせに、遠野先輩と話せるチャンスとなった瞬間、迷いなく俺を売った。
堀口も指をさしていた。西野も、的場も。久住まで、無言で俺のほうに手のひらを向けていた。
「お前ら!」
「だって呼ばれてるじゃん!」
「焼きそばパンの恩を忘れたのか、矢野」
「まだ奢ってもらってないもん!」
正論だった。
遠野先輩が、こっちを向いた。
後ろの扉に半分体を出したまま、俺は固まっていた。
「……どこ行くの」
「えっと、購買に」
「すぐ終わるから」
「あ、はい」
扉を閉めて、教室に戻った。
クラス全員が、やりきった顔をしていた。売った側の顔をしている奴は、一人もいなかった。
---
遠野先輩が、まっすぐこっちを見た。
上から下まで、一度だけ。値踏みするような目じゃない。確かめるような目だった。
「千種の15階層。トラップ部屋」
「はい」
「あれ、あなた?」
嘘をつこうか、一瞬だけ考えて、やめた。今朝、嘘の利子を払ったばかりだ。
「はい。俺です」
遠野先輩は、少しだけ息を吐いた。
「私、先月あそこのトラップ、踏みかけたの」
「え、まじですか!」
「12階層で、同じ種類のやつ。気づいて引き返したけど、踏んでたら、たぶん出られなかった」
「あー……あれ、ほんとに湧き続けるんですよ。倒しても倒しても床から出てくるし、しかも普通のやつより強いし」
「……知ってる。だから、どうやって抜けたのか聞きに来た」
「どうやって、って……」
「剣を振ったのは見た。何回も見た。でも、それだけじゃ分からない」
真剣な目だった。
この人は、噂を確かめに来たわけじゃない。本当に、知りたくて来ている。
なんか、いいな、と思った。
探索が本気で好きな人の目だ。
「最初は刀で戦ってたんですけど、数が多すぎて追いつかなくなって。で、もう一本呼んだんです」
「呼ぶ」
「武器を呼ぶスキルがあって」
「詠唱して」
「詠唱、して」
教室のどこかで、誰かが吹き出した。的場だと思う。あとで覚えてろ。
遠野先輩は、笑わなかった。
「そう」
「あ、でも、あの部屋、壁際に寄るとちょっとマシでした。背中取られないんで。囲まれる前に角っこ取れると、だいぶ楽です」
「角」
「はい。あと、湧いてくる場所が床の紋様のところなんで、そこから離れて――」
気づいたら、身振りまでつけて喋っていた。
遠野先輩が、じっとこっちを見ていた。
「あ、すみません。喋りすぎました」
「ううん。助かる」
遠野先輩は、それだけ言って、少し黙った。
それから、ほんの少しだけ首を傾げた。
「……ねえ」
「はい」
「あなたの声、どこかで」
心臓が、跳ねた。
南陽ダンジョン。黒い外套。『汝の終わりは、今日ではない』。
あのときは王の口調だった。今とは喋り方が全然違う。声だって、たぶん低くなっていた。
なっていた、はずだ。
「……いや、いい」
遠野先輩が、首を振った。
「気のせい。配信で何回も聞いたから、そのせいだと思う」
「あ、ですよね。え、待って、配信、何回も見てくれたんですか? うわ、ありがとうございます!」
「……なんでそこで元気になるの」
「だって、見てもらえたら嬉しいじゃないですか」
「……変な人」
遠野先輩が、初めてほんの少しだけ笑った。
「急に来てごめん。また来る」
「え、また?」
「聞きたいこと、まだあるから」
遠野先輩は、それだけ言って踵を返した。人だかりが、また割れる。
背中が見えなくなるまで、教室は誰も喋らなかった。
見えなくなった瞬間、矢野が崩れ落ちた。
「……遠野灯が……笑った……一ノ瀬くんの前で……」
「笑ってたな」
「私の目の前で……三十センチ……」
「いや、一メートルはあったぞ」
「三十センチだった!」
的場が、スマホを握りしめたまま震えていた。
「今の、撮っとけばよかった……」
「撮るな」
「つーか一ノ瀬、遠野灯に攻略法レクチャーしてたぞ今!」
「してたね」
「身振りつきで」
「楽しそうだったね」
「楽しかったんだよ。悪いか」
正直に言った。
ダンジョンの話を、ちゃんと分かる人とするのは楽しい。それが遠野灯だろうと誰だろうと、楽しいものは楽しい。
矢野が、崩れ落ちたままの姿勢で俺を見上げた。
「……一ノ瀬くんって、ほんとにダンジョン好きなんだね」
「好きだよ。大好き!」
即答した。
矢野が、なぜか少しだけ笑った。
「焼きそばパン、三個ね!」
「増えてる」
---
5時間目の途中で、担任に呼ばれた。
「一ノ瀬くん、ちょっといい?」
廊下に出ると、担任は少しだけ困った顔をしていた。
「さっき、ギルドから学校に連絡があって」
ギルド。
背筋が伸びた。
「一ノ瀬くんに、今日中に名古屋の本部まで来てほしいって。保護者の方にも、もう連絡が行ってるそうです」
「今日中、ですか」
「できれば、今すぐ」
担任は、少しだけ声を落とした。
「……事情は、なんとなく分かってる。私もニュース見たから」
「あ、先生も見たんですか」
「見たよ。うちのクラスの子だって分かって、コーヒー吹きそうになった」
「すみません」
「謝ることじゃないでしょ。悪いことしたわけじゃないんだから」
担任は、板書の字と同じくらい綺麗に笑った。
「早退の手続きはこっちでしておくから。気をつけて行ってきなさい」
「はい」
---
教室に鞄を取りに戻ると、また囲まれた。
「どうしたの?」
「ギルドに呼ばれた。しかも本部」
「本部!?」
「なんで?」
「たぶん、壁のことで」
「うわ、ガチのやつじゃん……」
矢野が、俺の鞄を掴んだ。
「一ノ瀬くん!」
「ん? どした?」
「行く前に、せめてスマホ見て!」
「えー……」
「本部まで電車でしょ。その間に見て。お願いだから。知らないままギルド行ったら、絶対変なこと言うでしょ一ノ瀬くん」
「言わないって」
「朝、教室の真ん中で『誰がやったんだろうな』って言ったのは誰?」
「俺、です」
「ほら!」
否定できなかった。
「分かった、見る。ちゃんと見る」
「約束ね!」
「約束」
「あと焼きそばパン三個!」
「それは明日な」
教室を出るとき、後ろから久住の声がした。
「……一ノ瀬」
「ん?」
「かっこよかったよ。剣」
振り返ると、久住は目を逸らしていた。耳が、少しだけ赤かった。
「へへ。ありがとな」
売られたことは、それでチャラにしてやることにした。
---
学校の最寄り駅から、地下鉄に乗った。
名古屋駅まで、20分くらいだ。平日の昼過ぎで、車内は空いている。端の席に座って、鞄からスマホを出した。
画面をつける。
通知バッジが、全部のアプリについていた。
深呼吸を一つ。
よし。見る。約束したし。恥ずかしさで溶けても、地下鉄の座席なら誰にも迷惑はかからない。
まずは、トリッター。
チャンネルを作ったときに、聖奈に「セットで作るのが基本」と言われて作ったアカウントだ。投稿したのは、初配信のお知らせの一回だけ。フォロワーは、たしか30人くらいだった。
開いた。
```
フォロワー 4.2万
```
「は?」
声が出た。向かいの席のおばあさんが、ちらりとこっちを見た。
「あ、すみません」
小声で謝ってから、もう一回画面を見た。
4万2000。
30人が、4万2000。
「いやいやいやいや!」
指が勝手に、通知欄をスクロールしていく。止まらない。いいね、リポスト、引用、フォロー、いいね、フォロー、リポスト。一日で、何か月分もの通知が溜まっている。
次に、ユアチューブのチャンネルを開いた。
```
チャンネル登録者 13.8万人
```
「じゅうさ……っ」
口を押さえた。おばあさんが、またこっちを見た。
13万8000。
昨日の朝は、たぶん300もなかった。
450倍くらいだ。いや、計算してる場合じゃない。
え、すご。
心臓がばくばく言っていた。恥ずかしいのかと思ったら、違った。嬉しいほうだった。13万人が、俺がダンジョンに潜るところを見たいと思ってくれている。
やばい。にやける。地下鉄でにやけるのは危ない奴だ。
顔を引き締めて、トレンドを開いた。
上から三つ目に、見覚えのある文字列があった。
『#ダンジョンさんぽ』
「おお……」
その二つ下に。
『#集え光』
「おおお……」
後者は、見なかったことにしたかった。
したかったが、指が勝手にタップしていた。
出てくる、出てくる。切り抜き動画。詠唱の瞬間だけを何度も繰り返す動画。「集え、光。宿れ、我が刃に」の文字が画面いっぱいに出てくる加工動画。自分の部屋で傘を構えて真似している動画。
「やめろ……傘でやるな……」
再生数が、どれも10万とか20万とかついている。元の配信の切り抜きには「380万回再生」とあった。
380万。
南陽の黒い外套の動画は、50万で世間が騒いでいた。その七倍以上だ。
溶けるかと思った。
だが、コメントを読んでいくうちに、様子が変わってきた。
『詠唱で笑った人、壁の溝見てから笑えなくなるやつ』
『笑ったあとに鳥肌立った』
『いや普通にかっこよかっただろ』
『二行目で完全に落ちた』
『命かかってる場面で三秒迷ってから言うの、めちゃくちゃ人間らしくて好き』
『この子、たぶんダンジョン好きなんだろうな。動きが楽しそう』
スクロールする指が、止まった。
かっこよかった、と書いてある。
楽しそう、と書いてある。
そっか。
楽しそうに見えてたのか、俺。
見えてたなら、いいや。だって、実際楽しかったし。
恥ずかしいのは変わらない。変わらないが、ちょっとだけ、溶けずに済んだ。
次に目に入ったのは、見覚えのあるアイコンだった。
登録者200万を超える、大手の探索者配信者だ。俺も中学の頃からずっと見ていた人だ。その人が、切り抜きを引用して一行だけ書いていた。
『これ、壁の傷ガチなら探索史が変わるやつ。本人と話したい』
「うっそだろ……!」
声が出た。おばあさんは、もうこっちを見なかった。慣れたらしい。
あの人が。俺の動画に。本人と話したい、って。
スクショした。反射的に。
その下に、別の配信者の引用。
『十五歳Dランクで千種15階層トラップ単独突破はまず無理。剣の性能だとしても、使い手がおかしい』
『聖剣の名前なんなの? 誰か知ってる?』
『本人の口から言わせたい』
それは言わない。【天穿ツ光輝】は、口が裂けても配信では言わない。……たぶん。
他にも、探索者の考察アカウントが、壁の溝の深さを動画から計算している。ギルドの公式アカウントが「現在調査中」とだけ投稿していて、その投稿に何万もの引用がついている。どこかの大学の先生が「構造物の損傷が事実であれば、ダンジョン研究における重大な事例」とコメントしている。
そして、その全部の真ん中に、ぼかしの入った俺がいた。
白銀の剣を構えて、真顔で叫んでいる俺が。
「すげえことになってんな」
呟いたら、ちょうど地下鉄が名古屋駅に着いた。
慌てて立ち上がって、おばあさんに会釈して降りる。おばあさんは、なぜか小さく手を振ってくれた。
---
地上に出ると、四月の空は腹が立つくらい晴れていた。
ギルド名古屋本部は、駅から歩いて五分のところにある。
ビルの前に着いたとき、スマホが震えた。通知は切ってあるが、電話の着信だけは生きている。
画面には、「お姉ちゃん」と表示されていた。
「もしもし」
『朔。今どこ』
「ギルドの前。今着いた」
『そう。私も中にいる』
「え、お姉ちゃんも?」
『クランの人と、ギルドの人も』
お姉ちゃんの声は、いつも通り短くて、落ち着いていた。
『スマホ、見た?』
「見た見た、今見た。お姉ちゃん、登録者13万人になってた!」
『知ってる』
「あと、俺がずっと見てた配信者の人が、本人と話したいって」
『それも知ってる』
「すごくない?」
『当然。私の弟』
電話越しでも分かった。今、お姉ちゃんはドヤ顔をしている。
『朔』
「ん?」
『その元気で来な。偉い人、いっぱいいる』
「偉い人がいっぱい?」
『いっぱい』
「え、どれくらい?」
『入れば分かる』
通話が切れた。
俺は、ギルド名古屋本部の自動ドアの前に立っていた。
ガラスに、制服姿の自分が映っている。背中はまだ痛いし、昨日のかすり傷も残っている。どこからどう見ても、普通の高校一年生だ。
この普通の高校生が、世界で初めてダンジョンの壁に傷を付けたらしい。
よし。
なんか、ちょっとわくわくしてきた。
自動ドアが、開いた。




