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第15話:『さよならを覚えているもの』


秋雨の降る放課後だった。空は朝から重たい灰色に覆われ、校庭には人気がない。運動部の掛け声さえ、湿った空気に吸い込まれてぼやけて聞こえる。

忠敬は図書委員の仕事を終え、旧校舎の資料室へ向かっていた。



「悪いな潜木、これ運ぶの手伝ってくれ」

昼休みに司書教師から頼まれたのだ。

古くなった蔵書の整理。廃棄予定の本をまとめて業者へ渡す準備らしい。


「……はい」

気のない返事をしながら、忠敬は古い鍵で資料室を開けた。

瞬間、湿った紙と埃の匂いが鼻をつく。



「うわ……」

思わず顔をしかめる。

旧校舎の資料室は、半分倉庫のようになっていた。




古い百科事典。

黄ばんだ新聞。

背表紙の潰れた文庫本。

今では誰も使わない教材。


積み上がった段ボールの隙間から、小さなざわめきが無数に聞こえてくる。


『とうとう処分かぁ』

『いやー長生きしたな』

『最後くらい誰か読んでくれねぇかな』


物たちの声。忠敬にとっては、いつもの世界だった。



ポケットの中から黒いハンカチが呆れたように言う。

『相変わらず騒がしい場所だな』


忠敬はちらりと周囲を見渡すとぼそりと言った。

「古い物ばっかだからな」



『年寄りは話が長い』

「お前も大概だろ」

そんな軽口を交わしながら、忠敬は段ボールへ本を詰め始める。




だが途中で、ふと手が止まった。


部屋の奥。

窓際の棚の一番下。


そこだけ妙に静かだった。




忠敬は視線を向ける。

古びた一冊の絵本が、棚にもたれるように置かれていた。



淡い緑色だったらしい表紙は色褪せ、角は擦り切れている。

背表紙の糸もほつれ、ページは湿気で少し波打っていた。

その上に、小人が座っていた。

長い月日を見続けていたその目は、老成した光を宿していた。





『……おや』

絵本の小人は忠敬を見ると、穏やかに目を細めた。


『君が、“見えて、聞こえる子”か』

「またその噂か」

『学校中に広まってるよ。困った物を放っておかない人間がいるって』


小人は柔らかく笑った。

その笑い方が妙に静かで、忠敬は眉をひそめる。


……弱い。


声が、ひどく弱かった。

まるで遠くから聞こえてくるみたいに。




「、大丈夫か」

『ん? あぁ』


小人は自分の手を見下ろした。その指先は、薄く透けていた。





『寿命だよ』


忠敬は黙る。



聞き慣れない言葉ではなかった。古い物は時々そうなる。

長く使われ、壊れ、忘れられ、役目を終える。



すると小人たちは少しずつ薄くなり、最後には消えてしまう。




だが実際に“消える途中”の姿を見ることは少なかった。

大抵は、気づいた頃にはもういないからだ。




『そんな顔をしないでおくれ』

絵本の小人は、すこし困ったように笑った。


『私は悲しくないよ』

「……そうは見えない」

『はは。正直者だねぇ』


小人は絵本の表紙をそっと撫でた。

その動きは、どこか愛おしそうだった。


『私は長く生きた。十分すぎるくらいに』






窓の外では、雨が静かに降り続いている。



資料室の薄暗さの中で、その声だけが妙に穏やかだった。

あんなに騒がしかった周囲の小人は、神妙な顔で黙ってこの小人の話を聞いていた。




『昔、小さな女の子がいてね』


忠敬は何も言わず耳を傾ける。



『その子、眠るのが苦手だったんだ。夜になると寂しくなって、よく泣いていた』

小人は懐かしそうに目を細めた。

『だから毎晩、お母さんが私を読んでくれた。“ほら、うさぎさんがお花届けに行くよ”って』



忠敬は絵本を見る。

表紙には、古いタッチで白いうさぎが描かれていた。




『その子は毎回同じ場面で笑うんだ。“転んじゃった!”ってね』

小人は小さく笑った。

『何十回読んでも、そこだけは絶対笑う』






静かな部屋に、雨音だけが響く。



『やがて、その子は一人で読めるようになった。字を覚えて、学校へ通って、友達ができて……それでも時々、私を開いてくれた』




ページが風もないのにぱらりと揺れた。





『大人になってからは流石に読まなくなったけど、それでも捨てられなかったんだろうね。“母校の図書室なら、また誰かが読んでくれるかも”って、ここへ寄付してくれた』






忠敬は、そっと絵本へ触れた。

傷だらけだった。


けれどその傷は、不思議と嫌な感じがしない。


何度も開かれた跡だった。

何度も抱き締められた跡だった。







『物はね』

小人が静かに言う。


『大切にされた記憶で、生きていけるんだよ』

その言葉が、妙に胸に残った。






忠敬は昔から、物の声を聞いてきた。


壊れて捨てられる瞬間の恐怖も。

忘れ去られる寂しさも。



嫌というほど聞いてきた。


だからなるべく深入りしないようにしていた。

聞きすぎれば、全部抱えてしまうから。


けれど。

目の前の絵本は、消えかけながら穏やかに笑っている。それが逆につらかった。




「……怖くないのか」


小人は少し驚いた顔をした。

『消えるのが?』



忠敬は頷く。



小人はしばらく考えてから、ゆっくり笑った。

『怖くないわけじゃないよ』




その答えに、忠敬は少しだけ目を見開く。



『でもね。“終わる”っていうのは、“無かったことになる”とは違うんだ』


小人は窓の外を見る。


『あの子が笑ってくれた夜も、泣きながら抱き締めてくれたことも、ちゃんと残ってる』





透けた指先を胸へ当てる。

『だから私は、十分幸せだった』








忠敬は言葉を失った。








雨が少し弱くなる。




遠くでチャイムが鳴った。放課後の終わりを知らせる音だった。






やがて忠敬は、小さく息を吐く。


「……最後に、読んでやる」

『え?』

「どうせ暇だし」


ぶっきらぼうに言って、近くの椅子へ腰掛け、絵本を開く。

古い紙の匂いがした。





ハンカチの小人がポケットの中で笑う。


『お前、本当にお人好しだな』

「うるさい」






読み始める。

森のうさぎが、雨の日に友達へ花を届けに行く話だった。



子ども向けの単純な物語。

途中で転び、花を落とし、それでも泣きながら前へ進む。





忠敬は淡々と読んだ。

感情を込めるわけでもなく、ただ静かに。





けれど絵本の小人は、ページがめくられるたびに嬉しそうに目を細めていた。




『懐かしいなぁ……』

ときどき、そんな声が漏れる。






読み進める内に、忠敬は不思議な感覚を覚えていた。



誰かの人生を、指先でなぞっているみたいだった。


眠れなかった夜。

小さな笑い声。

抱えられた温もり。






この本は、ずっと誰かの隣にいたのだ。





最後のページを閉じた頃には、雨は止んでいた。






橙色の光が資料室へ差し込み、古い絵本を優しく照らしていた。





『……ありがとう』


小人は深々と頭を下げた。

その輪郭は、もうほとんど消えかけている。


『最後に、また読んでもらえるなんて思わなかった』






忠敬は何も言えなかった。

喉の奥が、妙に詰まっていた。


小人は夕焼けを見つめる。





『きれいだなぁ』


その声は、とても静かだった。


『あの子にも、また会えた気がする』






そして。


夕焼けに溶けるように、絵本の小人は静かに消えた。

あとには、沈黙だけが残る。






資料室は変わらず薄暗く、古本たちは黙ったままだった。

けれど忠敬には、その場所だけぽっかり穴が空いたみたいに感じられた。





しばらく動けなかった。





やがて忠敬は立ち上がる。

無言で絵本を抱え、廃棄用の段ボールから外した。





『…持って帰るのか?』

ポケットから顔を出したハンカチ小人が忠敬を見上げた。


「……なんとなくな」

『そうか』







帰り道。

雨上がりの空には、大きな夕焼けが広がっていた。





忠敬は鞄を少しだけ抱え直す。

その中の絵本は、もう喋らない。





けれど。

不思議と冷たくはなかった。







家へ着いてから、忠敬は机の上へその絵本を置いた。


開くことはしない。

ただ、そこに置いた。


窓の外では、夜風がカーテンを揺らしている。




静かな部屋で、忠敬はぽつりと呟いた。

「……お疲れ様」


返事はない。

もう、二度と聞こえない。


それでも。


机の上の古い絵本は、どこか穏やかに見えた。


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