第13話:『空っぽの机と、届かない悲鳴』
「ちぇー、忠敬のやつ風邪かよ。つまんねーの」
朝の教室。
佐藤が大雑把に笑いながら、自分のエナメルバッグを机の横のフックに雑に引っ掛けた。
「よっぽど無理をしてたんだね」と高橋くんが心配そうに呟き、白雪さんは「早く良くなるといいのだけれど」と静かに窓の外を見つめている。
いつも側にいるはずの男が一人いない。普通の人間にとっては、ただそれだけの、少し物足りないだけの平凡な朝だった。
だが、空っぽになった忠敬の机の周りでは、学校中の物たちのネットワークを通じて、早くも絶望的な悲鳴が伝染していた。
『大変だ! 大変だよ! 佐藤のバッグの底で、昨日のお弁当箱の小人さんが息絶えそうになってる!』
林田さんの机にいたシャーペンの小人が、短い腕で必死に隣を指差す。
エナメルバッグの奥深く。
夏前の生暖かい空気の中で、昨日のお弁当箱が忘れ去られていた。その傍らで、お弁当箱の小人が涙を流しながら助けを求めている。
『誰か! 誰か気づいて! このままじゃ3時間目の早弁で、佐藤くんが傷んだおかずを食べちゃう! 誰でもいいから、潜木くんの机のところまで僕を運んで! あそこの綺麗な席の周りなら、きっと誰かが気づいてくれるから……っ!』
忠敬がいない。
それは、物たちにとって“唯一の通訳”がいないということだった。
特別なあの人がいない教室で、物たちは佐藤を救うために動き出した。高橋くんの机の上で、彼の几帳面さを写し取って育った筆箱の小人が、一生懸命に高橋くんの指先に向かって叫ぶ。
『ご主人! 佐藤くんのバッグを見てください!大変なことになってます! 』
――コツン。
だが、高橋くんの耳に届いたのは、シャーペンがペンケースのフチに当たった、ただの軽いプラスチックの音だけだった。「ん? どうしたのかな」と、高橋くんは不思議そうに首を傾げ、何事もなかったようにペンケースのジッパーを閉める。
『だめだ……聞こえてない……!』
周囲の小人が切ないため息を漏らした。
白雪さんの席でも、主人の凛とした完璧主義を写し取ってきた高級な万年筆の小人が、必死に机の端を叩いていた。
『白雪様、どうか佐藤様のバッグの異変に気づいてください!』
――コトッ。
だが、白雪さんに見えているのは、風でペンが数ミリだけ転がった、ただの小さな摩擦音だった。「あら、風が強いかしら」と、白雪さんはスマートにペンを拾い上げるだけだった。
誰にも届かない。
どれだけ叫んでも、普通の人間には聞こえない。
忠敬のいない教室で、その現実だけが残酷なほど鮮明だった。
そんな中――。
『………潜木くんがいないなら、俺たちだけでやるしかない!』
佐藤のバッグの中で、彼の猪突猛進な大雑把さを写し取ってきた複数のノートの小人たちが立ち上がった!
雑な佐藤はノートも不自然な空白や落書きも多い。ヨダレだって何度も垂らされた。それでも佐藤にはお腹を壊してほしくなかった。
雑な佐藤は多少の不自然さなんて気付かない自信もあった。
主人譲りの猪突猛進な大雑把さな気質を持った小人たちの目は、本気だった。
『俺たちの主人は、俺たちで守るぞォ!!』
『おおおおおっ!!』
*
2時間目が終わりのチャイムが鳴り、佐藤が席を立とうとして、足元に引っ掛かったバッグを雑に蹴飛ばした、その瞬間だった。
『いま!今しかない!!』
『せーの、で押せぇぇ――っ!!』
バッグの中の教科書やノートの小人たちが、一斉に力を合わせてお弁当箱を奥からジッパーの隙間へと全力で押し出した。佐藤の力任せな扱いを写し取ってきたジッパーの金具も、自らガタガタと震えて噛み合わせを広げる。
そして――。
――ゴトッ。
鈍い音を立てて、エナメルバッグの隙間からプラスチックの塊が転がり出た。それは床の上を滑り、ちょうど高橋くんの足元でピシャリと止まった。
ハラハラしながら見守っていた周囲の小人たちが爆発的な歓声を上げた。
『やったぁぁ!!』
『成功した!!』
『佐藤が助かるぞ!!』
佐藤の小人たちはそれに手をあげて応えた。
「うわっ、びっくりした! ……あ、佐藤くん、お弁当箱がバッグから落ちたよ。っていうかこれ、昨日のじゃない? 凄まじい匂いが……」
高橋くんがその慎重な性格で異変に気づき、顔を引きつらせる。
「ゲェーッ! 忘れてた! 漢の強火弁当が熟成されちまってる!」
佐藤がジタバタと大騒ぎし、白雪さんが即座に立ち上がった。
「今すぐ水道で洗ってきて、佐藤くん。教室に菌を蔓延させないで」
「はい白雪様ァ!!」
危機は間一髪、物たちの命がけの連携によって、人間を介して物理的に解決された。
放課後。
夕暮れの光が差し込む誰もいない教室で、水道できれいに洗われたお弁当箱が、ポツンと佐藤の机の上に置かれていた。
その後ろには忠敬の空っぽの机。
お弁当箱の小人は、その机へ向かって深々と頭を下げる。
『潜木くんはいなかったけど……僕たち、ご主人を守れたよ』
少しだけ誇らしそうに。
少しだけ寂しそうに。
『……ご主人には、忘れて帰られちゃったけど』
主のいない静かな教室に、少しさみしげなお弁当箱の声が響いた。
一瞬の間の後、小人を慰めるように、役目を終えた物たちは小さなきしむ音を鳴らした。




