(30)デバガメ隊
高層ビルが立ち並ぶ都会の隙間で、無数のテールランプと街灯がアスファルトを点々と照らしている。通りを行き交う人は始終無言で、タイヤが小石を巻き込みながら道路を踏みしめる音だけが夜の十一時を満たしていた。
そんな中、一台の黒い車がテレビ局のビルから滑り出て、かなり遠回りをしてからコンビニの駐車場へ停車した。その車から降りてきた阪口は、ほとんど顔を動かさないように辺りを確認すると、スマホに文字を打ち始めた。
まもなく、コンビニの中から小見原と雨谷が出てきて、阪口の元へと無言で歩み寄ってきた。
「さあ乗って」
阪口に促され、二人は車の中へ入っていった。運転席に阪口が戻り、車が駐車場を出て最初の信号機で停車した瞬間、
「ば、バレてないよね!?」
後部座席に座っていた女性こと、小見原が息を吹き返したように捲し立てた。同じく雨谷も運転席へ身を乗り出しながら取り乱す。
「心臓が止まるかと思いました。阪口さんも手伝ってくれてありがとうございます。あの人たち、撒けたんですよね、もう帰ってもいいんですよね?」
「大丈夫です。私の部下が足止めをしてくれましたし、この車はレンタカーなので見られても問題ありません。コンビニに行くまでに何度も迂回して撒いたので、安心していいですよ」
「よ、よかったぁ」
雨谷は後部座席のシートに身を沈めて深くため息をついた。
事の発端は収録が終わった後、楽屋で帰宅の準備をしていた二人の下に一人の男性芸能人が顔を出したところからである。阪口から芸能界は人徳が大事になるから、と口酸っぱく言われていた雨谷達は、いきなり訪れたその芸能人に快くお茶を出して軽く雑談を交わした。幸いその芸能人はネットの評判通りの普通に良い人だったのだが、着いて来ていたスタッフが少々デリカシーに欠ける人であった。
そのスタッフはスマホを手放そうとせず時々カメラを向けるような素振りをしてきて「ちょっとお面をずらしてください」とか「目だけでも見せてください」とか無茶な要求をして来た。雨谷達は最初はそう言う人もいるんだなと言う程度で気にせず、男性芸能人もスタッフが何か要求するたびに諌めてくれたので、まだ良かった。
だが別れ際になってせめて写真だけでも、とお願いされたので、四人で並んで写真を撮ったのが間違いだった。
即座にSNSに上げられたその写真を見た他のスタッフ達が、差し入れと称してお茶や弁当を楽屋に持ち込みながら写真を強請ってくるようになった。白雨キユイのファンと言われれば雨谷達も断るわけにいかず丁寧に対応し続け、気づけば楽屋の前に放送局関係者による長蛇の列ができてしまっていた。
まさかこんな事になると思っていなかった雨谷と小見原はパニックになって、怯えながら阪口にヘルプを頼んだ。阪口にとっても前代未聞の現象だったようで数分もしないうちに彼は駆けつけて、どうにか場を取り成してくれた。
そしていざ帰ろうとすると、写真を撮り損ねた関係者達が諦めきれずにコソコソと追いかけてきた。流石にこれ以上の接触は身バレしてしまう危険があり、雨谷達は一度別室で面を外し着替えてから一般人としてビルを出る羽目になった。その間に阪口は自ら囮になって同じ事務所の人に手伝ってもらいながら適度に追手を撹乱したのちに、コンビニで待機していた雨谷達をこうして迎えにきてくれたのである。
「これって、よくある事なんでしょうか」
小見原がぐったりとしながら問うと、阪口はバックミラーに移る目を軽く伏せた。
「電話でも答えましたが、私の経験上前代未聞です。局にいる人間はそれなりに節度もありますし、写真を撮るために時間を無駄にする暇もないはずですが、一体何が彼らを突き動かしたのか……」
「それって、またテレビに出たら今日と同じ目に遭うかもしれないって事ですよね?」
「原因が分からないのであれば、あるいは。デビュー当初によくあるただの好奇心なら良いのですが」
「好奇心って言っても、皆なぜか鼻息が荒かったような……」
思い出すように視線を斜めに持ち上げる小見原に雨谷は大きく頷いた。
「そうだよね。最初は皆面白半分って感じだったけど、話を聞いているうちに急に元気になり出してたし。なんだったんだろう」
「因みに彼らとどんな話をしたのかお聞きしても?」
雨谷は数十分前の出来事を思い返しながら、指を一つ一つ折り数えた。
「えーっと、最初に放送のことを労ってくれる人が殆どでしたね。お疲れ様って。そのあとペットとか家族の世間話をしてたら、だんだん仕事が辛いとか、最近振られたみたいな重い話になって、相談に乗りながら写真を撮ったら、殆どが満面の笑顔で去っていきましたね」
「……ああ。原因が分かりましたよ。たった今」
「え? 分かったんですか!?」
「ぜひ教えてください!」
二人揃って運転席の方へ身を乗り出すと、阪口は口元をほんの微かに震わせながらボソリと言った。
「アニマルセラピー……」
「ん? ごめんなさい聞こえませんでした」
「いえ、二人の優しさが彼らにとって珍しかったんだと思いますよ。学生特有の汚れていない答えに浄化されたのではないですかね?」
「そう、なんですか。よく分かりませんが、珍しさからくるならいつかは治りそうですね」
「……ええ。いつかは」
阪口はこれ以上は野暮になると思い、静かに口をつぐんだ。何も知らない青少年達は後部座席に座り直して、初めての番組出演の感想を語り合い始めた。
穏やかなエンジンを鳴らして街灯の下を過ぎていくうちに、ライトアップされた駅が見えてきた。阪口の運転する車は大きくカーブを描いた駅前で緩やかにブレーキを踏むと、カチカチとハザードランプを点灯させて停車した。
阪口はシートベルトを外して後部座席に振り返ると無表情のまま問いかけてきた。
「到着しましたよ。乗る電車は分かりますか?」
「はい。大丈夫です。ありがとうございました!」
お礼を言いながら雨谷達が車を降りると、阪口はわざわざ運転席から降りて告げた。
「何かあればまた連絡してください。十二時までは起きていますので」
「はい。ありがとうございます。あ、そうだ忘れてた」
小見原は手に持っていたコンビニの袋から自分達の分だけを取り出すと、コーヒー缶が透けたそれを阪口へ差し出した。
「これ、よかったらどうぞ」
阪口は驚いたように目を瞬かせると、僅かに目尻を細めて受け取った。
「ありがとうございます。このコーヒー好きなんですよ」
「それは良かったです。では」
「はい。暗いのでお気をつけて」
「阪口さんも、今日はお疲れ様でした。お気をつけて」
阪口はペコリとお辞儀すると車の中に引っ込んで、二人に手を振ってから車を発進させた。雨谷たちはテールランプが曲がり角に消えていくのを見守ってから、昼間よりずっと人気が少なくなった駅内を歩き始めた。
十一時ともなると駅内の店は全て閉まっている。道ゆく人も疲れ切った顔をしているか、嫌にテンションが高い若者ぐらいしかいない。雨谷は小見原と何気なく手を繋ぎながら、ここ一ヶ月で見慣れてしまった遠い土地の駅の改札口の方へ歩いた。
「来月には夏休みね。あと二週間ぐらい?」
ひっそりとした駅内に響かない密やかな声で、小見原が寂しそうに言った。雨谷はなんだか落ち着かない気持ちになりながらも頷く。
「そう、だね。あのさ、折角だし夏休みに入る前に……えっと……」
スマートに切り出すはずだったのに、言葉がつっかえて上手くいかない。雨谷が顔が赤くなるのを感じながら言い淀むと、小見原は斜め下から覗き込むように首を傾けた。
「なに。はっきり言わないと分かんないけど?」
明らかに楽しんでいる声の調子にぐっと口を引き結んでしまうが、なんとか雨谷は声を絞り出した。
「夏休み前に、デート、行かない? 二人きりで。ほら、付き合ってるのに忙しくて、あんまり遊びに行けなかったから」
「えー? 土日はよく二人きりじゃない」
「うっ……そうだけどさ。たまには音楽なしで小見原さんと居たいから。……やっぱり、嫌?」
「……っ!」
不安になってつい涙目になりながら問いかけると、小見原は雨谷以上に顔を茹で上がらせ思いっきりそっぽを向いた。
「い、いいわよ。ただし、いつも私が場所決めてるから、アンタが行きたいところでね」
「うん。ありがとう」
「……楽しみにしてる」
目を逸らしながら頬を真っ赤にして言うのが愛らしすぎて、雨谷はぎゅっと彼女の手を包み込んだ。
…
……
………
「よし。準備完了」
阿藤はキュッと靴紐を結び終えて立ち上がると、自分の格好を改めて見下ろした。夏真っ盛りに相応しい半袖シャツと薄手の上着を羽織り、カーキのクロップドパンツという至って普通の装いである。最後に白いマスクと帽子を被れば、尾行に最適なお忍びファッションが完成した。
ショルダーバックの撮影用のカメラや録音機も不備はない。完璧だ。
阿藤は頬を両手でぱちっと叩いて気合を入れ直すと、有名な某ネズミの遊園地行きチケットを手に取って玄関を開けた。
なぜ、阿藤大地が遊園地のチケットを握りしめているか。それは当然、雨谷のデートを間近で見守るためである。
雨谷からのデート先相談のメールを見た阿藤は、リビングで一頻り暴れ回ってからきっちりこうお答えした。
デートならまず間違いなく遊園地だと。
ついでに遊園地内のデートスポットを写真付きで説明して、効率的なルートも全部調べて雨谷に提供した。おすすめのレストランもピックアップしたし、ポップコーンは嵩張るので買うのは最後がいいとか、荷物はキチンとロッカーに入れておけとか、お土産はみんながカーニバルに夢中になっている間に済ませろとか、ともかく阿藤が知る限りの遊園地蘊蓄をありったけのメールに叩き込んだ。
これでデートが失敗するわけがない。こっちはウッキウキで安心して推しを見守れる。最高だ。
「神よ。今日という日がデート日和であることを感謝します」
玄関先でパチパチ手を叩いて祈りを捧げると、朝の散歩が日課の近所の婆さんにガン見された。
別に恥ずかしくはない。見せつける様にもう一度祈って見せれば、婆さんは顔を蒼白にしてそそくさと逃げていった。
気を取り直して、阿藤はバスに乗って、ネズミがメインキャラの超有名遊園地へ約一時間かけて向かった。連休でもないただの休日なのに、遊園地の入場口は人でごった返している。家族連れや学生が目立つ中、一人で大荷物を抱えて順番待ちをしている阿藤は少々悪目立ちしていた。
しかし、阿藤はそんな状況であっても決して自分の変装がバレないという絶対の自信を持っていた。雨谷の通学路やカラオケ店で小見原とデートする瞬間を激写することおよそ一千回。水族館を除けば全てのストーキングで全勝している。だから絶対に雨谷にはバレるわけがない。
阿藤はにっこにっこと花を散らしながらチケットを買い、荷物検査をしてからついに入場を果たした。柵の向こうには手入れされた巨大な花壇と噴水がシンメトリーに並び、中央には謎の原理でぐるぐる回る巨大な地球儀が陽の光を浴びて縁を煌めかせていた。そして、どこからともなく流れてくる壮大なBGMと案内アナウンスを聞いているだけで、物凄く特別な気持ちになる。
現地に来るとついつい小見原への嫉妬が込み上げてくる。推しと並んで遊園地デートなんて、夢見る女子なら一度は妄想するシチュエーションだ。
「っかぁ〜! 今からでも混ざりてぇ!」
ダメだ落ち着け、と自分に言い聞かせて阿藤はスマホのGPSを確認する。雨谷の乗っているバスはまだ駐車場に入ったばかりの様だ。しばらくここでカメラマンのフリをして時間をつぶしておこう。
適当に花畑に紛れる蝶をレンズに収めていると、花壇の向こうにこの炎天下に真っ黒なコーデに身を包んだ誰かがいた。
「ん?」
肉眼でじっと目を凝らすと、黒マスク黒サングラス黒帽子黒パーカーという、完璧すぎる不審者が建物の柱に身を隠す様にしながら、入場口の方を忙しなく確認していた。動きが三流すぎてこちらが恥ずかしくなるが、あんなものに気を取られているほど暇じゃない。阿藤がスマホを見れば、雨谷はもうすぐそこまで来ていた。
阿藤は伸ばしていたレンズを初期位置に戻しながらどうでもいい花の写真を確認しつつ、視界の端で入場口を捉える。
そして吐き出されてきた家族連れの後ろにようやく愛しの姿を見つけた。
「はわぁ……」
阿保な声をついうっかり出してしまいながら、阿藤は雨谷の精一杯のおしゃれを目に焼き付けた。ゆったりしたTシャツとカーゴパンツという、勘違い形男子がよく着ているファッション(偏見)なのに、背も足も長い雨谷が袖を通せば雑誌モデルの様だ。夏の日差し除けに被ったキャスケットも中途半端にダサい。
「だがそれがいい!」
人が居ない方向に首を向け、極限まで喉を絞って阿藤はシャウトした。注目を集めてしまうが叫ばないと心臓発作で死んでしまう。
阿藤はカメラを小脇に抱えると、花壇を挟んだ反対側の通路に移動して、花びら越しに雨谷の姿を写真に収めまくった。雨谷もいいが、隣にいる小見原が良い仕事をしている。身長差があるおかげで慈しむ様に見下ろす雨谷の顔の角度とか長いまつ毛とか、ちょっと恥ずかしそうに笑うところとか歩調を合わせるところとか、阿藤では引き出せない被写体の魅力が溢れてもうとんでもない。
興奮で震える手を抑え込みながら二人が順調に進んでいくのをしっかり見送る。ここで焦ってすぐに追いかけてはいけない。あくまで自分の役割は二人のデートを邪魔しない様に、絶好の写真を収め、機会があれば盗聴もするだけだ。それ以上はご法度である。
でも、阿藤はここに来て常にない渇きに見舞われていた。ここ最近の雨谷達はテレビ出演の準備で忙しそうで、メールでしかやり取りできなかったから、久しぶりの実物を見ただけでは我慢できない。ついさっき激写したばかりの彼の横顔を見ても、阿藤の心は乾いてひび割れてしまいそうだ。
できればその手に触れてみたいし名前を呼んでほしい。折角遊園地にいるのだから、それぐらい、なんて誘惑に負けてしまいそうになる。しかし視界に彼を入れるだけで心臓が張り裂けそうなので、触れた瞬間死ぬかもしれない。いや間違いなく死ぬ。
死ぬわけにはいかないので、やっぱり写真で我慢しよう。
笑顔で悟りを開きながら阿藤はすくっと花畑から立ち上がった。すると、雨谷達の後ろをついて行く真っ黒不審者が目に入る。顔の向きからしてあの不審者は雨谷達を追っている様だ。あんな距離の詰め方をしたらすぐにバレてデートが台無しになってしまう。
阿藤はだらしなく緩み切った表情を一瞬で無にすると、でしゃばる黒服にツカツカと歩み寄った。そして二人へ無遠慮に向けているスマホの前をわざと横切る様にして妨害する。
「あっ!」
聞こえた声は意外にも女性だった。ちらりと頭を見てみると、帽子の中に髪を入れていただけのようで、入りきらなかった長い横髪がサラサラと揺れていた。だが女でも容赦しない。
阿藤は不審者女のカメラの位置を逐一確認しながら、雨谷が写真に撮られないよう、そして周囲の人に怪しまれないよう絶妙な距離で立ち回った。後ろの女が左右に動いてカメラに阿藤が映らないように試みているが、阿藤も追随して歩調を変えたり立ち止まったり、これまで磨き上げてきたステルス技能を振いまくった。
段々お互いの攻防が激化して反復横跳びが始まる。そのまま体力測定に移行する前に、阿藤は数メートル先を歩く二人の会話を拾った。
「最初はやっぱりジェットコースターでしょ!」
「も、もちろんいいよ」
強がっている推しの声にぐっと心臓が痛くなる。阿藤が鼻息を荒くしながら二人が話題に出したジェットコースターを見てみると、甲高い女性の悲鳴が轟音と共に阿藤の頭上を通り過ぎた。
「一回転してらぁ……」
ジャングルの中を縦横無尽に走り回るトロッコがコンセプトなのだろう。レールの上に乗っかった箱が想像以上に貧相で、ちょっと揺れるだけで事故でも起きそうだ。
あれに乗るのは無理だから自分はここで待っていよう、と近くにベンチを探すが、なんとあの不審者女が雨谷達と同じ列に並んでいるのを見つけてしまった。反射的に阿藤も最後尾に並んで、一度深呼吸をしてから覚悟を決めた。
阿藤は絶叫マシンが大の苦手だった。落下する時の浮遊感で鳥肌が止まらなくなるし、シートベルトの形によっては尻が浮き上がって自分だけ空中に飛び立ってしまいそうになる。しかもあの首がもげそうな速度が出ているのだから、万一の時が来たら自分は肉塊に変貌するだろう。そんなことを本気で考えるぐらい大嫌いである。
だが、やんぬるかな。雨谷のデートを守るためにはこうするしかない。自分が見ていない間にあの女がやらかしてしまったら、雨谷とのデートの思い出が苦いものとして終わってしまう。それだけは、例え自分が汚物を吐き散らすことになっても防ぐしかない。
阿藤と女、そして雨谷達の間には知らない家族や女子高生が並んでいるので、雨谷達はまだ追従者が二人いることに気づいていない。ただ不審者女は阿藤の存在に気づいているため、女子高生二人を挟みながらばちばちと火花を散らし合った。
「な、なんか寒くない?」
「多分緊張してるんだよ」
左右から殺気に挟まれた女子高生達が何やら騒然としているが、もうなりふり構っていられない。不審者女が雨谷に手を出した瞬間、一眼も憚らずこの列から引き摺り出してやる。
無言の牽制が功を奏したか、列待ち一時間半の間に女は何もアクションを起こさなかった。阿藤は最後まで警戒を緩めるつもりはなかったが、徐々に近づいてくるレールのガタついた音や絶叫で段々それどころではなくなってきた。リタイア者専用の脱出路が前方に見えてきたが、この先にもまだまだ道が続いている。その短時間であの女がやらかさないとも限らない。
もう、リタイアするか。ここまで女が何もしなかったのなら、何事もなく終わる。なら自分がここに付き合う必要もない。
阿藤が妥協に天秤を傾けながらリタイア用通路ににじり寄ると、ふと不審者女と目が合った。サングラスの隙間から見えた目が物語っている。
ここで逃げるのか腑抜け、と。
「…………」
やってやろうじゃねぇかああああああ!
内心で咆哮を上げた阿藤は列に並び直し、通り過ぎるリタイア通路から全力で目を背けた。女はもうこちらに目もくれず、橋の下を通り過ぎるトロッコを不遜な態度で眺めていた。あの女本当に、一発殴ってやりたい。
歯軋りをしながら拳を握り締めると、また列が前に進んだ。乗り物が近くなると心なしか人が捌けるのも早い気がする。最初の一分程度は女への怒りでどうにかなったが、もう引き返せない場所まで来てしまったと理解すると、忘れかけていた恐怖がじわじわと阿藤を締め付けてきた。
そしてついに阿藤がトロッコに乗り込む順番になった。乗車口の隣には降車口があるのだが、地獄を味わった筈なのに皆一様に笑顔で歩き去って行く。気でも狂ってるのか。
「はい次の方どうぞー! 一番から順に詰めてくださーい!」
笑顔で処刑台に送り出すとする案内の女性に促され、雨谷と小見原がトロッコに乗り込む。阿藤はここで注目を浴びるわけにもいかず、震えながら小見原の後ろの座席に座るしかなかった。そして、前にいた女子高生二人が一緒に座るために阿藤の後ろに回ってしまったので、隣に座っているのはあの不審者女だった。
まさかの相席とは、気まず過ぎる。不審者女も困惑しているようだが、特に会話もなくオペレーターの指示に従ってサングラスを鞄にしまっていた。阿藤も渋々帽子を外してカメラが入ったバックを座席の下へ滑り込ませる。
互いに素顔を晒している状態になったが、決して目を合わせることはしなかった。ストーカーとしての矜持が、今だけは二人の間に不可侵条約を築いてくれたようだ。
「では! 宝探しの冒険へ行ってらっしゃーい!」
テンションが高すぎる見送りに手を振りかえす余裕もなく、阿藤はシートベルトにしがみついて遠くを見た。傾斜のあるレールをトロッコが登って行く間、腰の下からガチャガチャと鉄が組み変えられるような変な振動が伝わる。
本当に手入れされているのかこの乗り物。メンテナンスしないと死ぬんじゃないかこれ。途中で止めたほうがいいって絶対。
ついにトロッコが山の頂上まで来て、晴れ空と遊園地が一望できた。高すぎる。涙が出てきた。
ガチャン、とあれだけうるさく鳴り響いていたレールの噛み合う音が消えた。
突如加速するトロッコ。
両手を上げて遊んでいる前の席の小見原。落下の順番が自分にも回ってきて、
「おぎゃああああああああああ!!」
阿藤は産声を上げながらジャングルの中へトロッコごと吸い込まれ、そのままホワイトアウトした。
気がついたら、降車口とアナウンスをするお兄さんがレールの向こうで待っていた。
「お疲れ様でしたー。足元お気をつけくださいねー」
丁寧に扉とシートベルトを外して、お兄さんは無駄のない動きで客を外へ案内していく。阿藤はふらつきながら帽子を被り、荷物を座席から引き摺り出してやっと地面に足をつけた。
終わった。生き残った。
虚な視線を持ち上げると、小見原に支えられながら歩く雨谷の背中がある。ちらりと見えた彼の横顔はとても幸せそうで、阿藤はガッツポーズをしながら通路の端で真っ白に燃え尽きた。




