第十六楽章 リコノシェーレ
本の切れ端、その断片に書かれたものを読んでいる気分だ。私自身の記憶だというのに、はっきりとは思い出せない。途切れ途切れの文章は、私を不愉快にさせる。
シャープ④。遥か古代の、神代の記憶。その中で、一瞬だけ見たことのある、大厄災。弱点は、思い出せなかった。そもそも無いのかもしれない。
「……ええ、とっても……利口な判断だと思いますよ。」
私は恐怖を復讐心で上書きした。常識的に考えれば、勝てるわけがない。シャープ④は巨竜であり、体格差など論ずるに値しない。勝利の見込みが無い、圧倒的不利な状況に陥ったことは、自明の理である。いかにアレグロ②が強力だからといって、このサイズ差では象にまち針を刺すようなものだろう。
大地に侵食が起こる。うねる触手と、規則的に収縮する剥き出しの内臓が、黒い汚泥を垂らしている。竜の吐息は、腐敗臭を伴っていた。大地に深く沈み込んだビルのような足が、ゆっくりと持ち上がる。
私は走り出した。この怪物の手の届く範囲から、ひとまず逃げるために。このバカみたいに巨大な質量の攻撃を喰らうのは避けたい。今度こそ、全身複雑骨折では済まない。
私の周囲だけ、夜がやってくる。太陽が遮られて、あたり一面真っ暗になる。光源はアレグロの炎だけだ。空高く持ち上げられた後ろ足が、轟音を轟かせながら迫ってくる。
間一髪、その足が地面を踏み締める前に、私は落下予測地点から抜け出すことに成功した。しかし、その風圧までもをかわすことはできない。押し出された空気が、まるで壁のように私を吹き飛ばした。背中に鈍い衝撃が走り、そのまま前方へ投げ出される。肺のうちから空気が漏れ、情けない声となる。
シャープ④は大きく咆哮し、長い触手を振り回した。周囲に残っていた建物も、一瞬で瓦礫の山に変わる。空気が切り裂かれる音が、すぐそばで聞こえる。真後ろだ。
真後ろから来た触手を、間一髪避ける。右肩の皮膚と擦れ、真皮が露出する。じゅくじゅくと膿む粘液を浴び、その部位が刺すように痛む。
私は今、空中にいる。後方から襲った触手を避けるため、左方向に跳躍したのだ。私が方向転換に利用できる足場は、無い。
「……まだ……私は──」
シャープ④の触手が、進行方向に迫っていた。振り下ろされたそれに、私は強く打たれ、地面へと落下した。全身を衝撃が突き抜け、一瞬で意識は消えてしまった。まるで、火が吹き消されるように。
「……君を戻す。」
意識の残火が消える寸前、私はアルトの声を聞いた気がした。戦場に似つかわしくないほどの、慈愛と悲しみに満ちた声だった。
──────メッゾ特別治療室──────
意識が再点火するなり、私は飛び起きようとした。しかし、全身がひどく痛む。骨にヒビが入ったか、既に折れてしまっているか。後ろを向こうと体をひねるのも、なかなか大変な作業だった。
現在地の確認をするために、周囲を見渡すと、私は白い壁に囲まれており、様々な器具がベッドの横に配置されていることから、メッゾの特別治療室にいるとわかった。本部から離れた、支部みたいな場所だ。場所は、第一地区近くだろう。
「……おはよう、テノル。体は大丈夫?」
背後から、アルトの声が聞こえた。首だけを動かして、なんとかそちらを向く。拳を握りしめようとしたが、あまりの激痛に顔をしかめるしかなかった。胸の内にあったものが、口から数珠つなぎに出かかる。ただ、口を開いたところで、アルトが話し始めた。
「あのね、テノル。……今だけは、武器を下ろしてくれないかな……?話したいことがあるんだ。」
うつむき、雫のように言葉を垂らすアルトを見て、私は深いため息をついた。人間の姿の頃のアルトを前にすると、どうも拳を振り上げづらい。特に、こんな顔をされては。
「どうぞ、構いません。お好きなように。」
半ば投げやりに近い形で、アルトへと返事をした。ヴィヴァーチェもどこかへ行ってしまったし、アレグロの発動にはまだ体力が足りていない。ここで反抗しても、私に利がない。ベッドの縁に腰掛け、体の力を抜いた。私の視線の先には、二人の人間が立っていた。彼らは私が起きたのを知ると、歩み寄ってきた。
「起きたか、テノル。お目覚めのコーヒーでも要るか?砂糖も時間もないから、エスプレッソ特濃にはなるが。」
「そんな劇物飲まさないでください。私は傷病人ですよ、……バース。」
バースは相変わらず長い丈のローブを着ていて、その手にはマグカップが握られていた。彼は気安い笑みを浮かべていたが、どことなく疲れが滲んでいた。
「おいソプラ。傷の手当をしてやっ──」
「隣にいるのに大声出さないでくれる?あと、私は小間使いじゃないんだけど?」
大きく開けられたバースの口に、ソプラが苛立たしげにタオルをねじ込んだ。バースは口を閉じられず、なにかモゴモゴ言っている。彼女は小さく舌打ちしたあと、私へ向き直った。
「今から治療魔法使うから、寝てて。バースには大人しくするよう言っておくから安心して。」
「わかりました、ソプラ。ありがとうございます。」
私はベッドに体を投げ出した。とても硬いベッドだが、病院なんてこんなものだろう。柔らかければ柔らかいほどいいってものでもないが。うつ伏せになって、顔はアルトの方に向ける。
「……本題に、入ってください。あなたは話したいことがあるのでしょう?」
「その体勢で聞くようなことじゃないと思うんだけど……。これ、重要な話だから、ちゃんとした格好で……。」
そこまで言ったとき、アルトはソプラの目線に気づいたのか、その発言を撤回した。結論は、怪我人は休まないとね、だった。アルトは椅子に座り、棚の上から薬瓶を持って寄越した。中で緑色の液が揺れている。星を飲み込んでしまいそうなほど、それは深かった。
「これはね、ボクが長い時間をかけて、悠久の時を経て……ようやく完成した薬なんだ。この……クソ能力を消すためのね。」
アルトは苦々しく、吐き捨てるようにして言い終えた。
「それを、私に使えと。そういうおつもりなのですね?アレグロを消し去り、無力化するための。元のか弱かった人間時代の私に戻すと。」
私の発言に、アルトは首を縦に振った。
「……正しいよ、それで。ボクは、またあのときの皆に戻りたいんだ……。能力なんて捨てて、とても幸せだった、あの毎日に。」
ソプラの回復魔術が終わり、私はベッドの上に座り込んだ。バースはタオルを洗いに行き、ソプラはミルクコーヒーを淹れていた。
「少し、昔話をしていいかな……。ずっとずっと、本当に昔のこと。君は、多分覚えてないこと。」
ソプラから、湯気を立てるマグカップを受け取る。少し口をつければ、優しい苦みが口に広がった。体が温まる。
「これは、ボクの自己満だけど……。だからこそ、知っておいてほしいなって。ほんとうに、大切なことだから。」
アルトは、ぽつりぽつりと語り始めた。祖母が孫に童話を語り聞かせるような、そんな空気。夕焼け空が室内にも入ってきて、白が橙に塗り替わっていった。私は、言いようのない懐かしさと、記憶の蓋が静かに開いていく感覚に、胸が締め付けられる思いがした。




