第3話 証拠は揃った。エリート気取りの彼を、社会的に抹殺する準備を始めよう。
ミユキを追い出した夜から、三日が過ぎた。
俺の部屋は、以前よりも広く、そして寒々しくなっていた。
玄関には彼女の靴がなく、洗面台には歯ブラシが一本だけ。リビングの棚に飾られていた写真立てはすべて伏せられ、あるいはゴミ箱行きとなっていた。
彼女が出て行く際、泣きながら置いていった合鍵が、テーブルの上で冷たい光を放っている。
俺は会社に有給休暇を申請していた。
「体調不良」という理由は、あながち嘘ではない。食事は喉を通らず、睡眠も浅い。鏡に映る自分の顔は、目の下に隈ができ、頬がこけて酷い有様だった。
だが、今の俺を動かしているのは食欲でも睡眠欲でもない。
ただ一つ、燃え尽きることのない黒い執念だけだった。
「……神宮寺タカシ」
パソコンの画面に表示された男の顔写真を睨みつける。
SNS、企業の広報ページ、業界のニュース記事。
ネットの海を浚えば、彼の情報はいくらでも出てきた。
大手IT企業「アドヴァンス・コア」の営業部課長。三十二歳。
メディアのインタビュー記事では、「次世代のリーダー論」などと銘打って、自信満々な笑みを浮かべている。
『仕事も遊びも全力で。それが僕のスタイルです』
記事の見出しが、俺の神経を逆撫でする。
遊び、か。
お前にとっては遊びでも、俺にとっては人生そのものだったんだ。
ミユキとの十年以上の絆を、お前は「遊び」の一言で粉々に砕いた。
俺の手元には、一冊の分厚いノートがある。
ここ数日、飲まず食わずで集めたタカシに関する情報のすべてが記されている。
ミユキのスマホから転送しておいたLINEの履歴と画像データは、すでにバックアップを取り、プリントアウトも済ませてある。
だが、不倫の事実だけでは足りない。
それだけでは、彼に社会的な致命傷を与えることはできないかもしれない。
せいぜい会社で噂になり、家庭で揉める程度だろう。彼のような人間は、口八丁で言い逃れ、ほとぼりが冷めればまた同じことを繰り返すに違いない。
俺が望むのは、そんな生ぬるい結末ではない。
彼が築き上げてきた地位、名誉、家庭、そのすべてを根こそぎ奪い取ることだ。
俺は調査の範囲を、彼の私生活から業務内容へと広げていた。
タカシはSNSが好きだ。承認欲求の塊のような男だ。
Facebookは実名で、Instagramは鍵付きのアカウントを使っているようだったが、ミユキのスマホに残っていたスクリーンショットから、彼のアカウント名は割れていた。
そして、彼のような人間は往々にして脇が甘い。
「裏垢」と呼ばれる別のアカウントが存在していたのだ。
プロフィールには社名は出していないが、投稿内容は明らかにアドヴァンス・コアの内情に触れるものばかりだった。
『今日の接待、ダルすぎ。適当に高級ワイン開けて経費で落とすわ』
『部下の企画書、俺の名前で出したら通ったw ちょろい』
『また架空出張で小遣い稼ぎ。嫁には出張って言っとけばバレないし最高』
吐き気がするような投稿の数々。
日付と照らし合わせれば、これが事実であることは容易に証明できるだろう。
俺は一枚一枚、丁寧にスクリーンショットを保存していく。
さらに、彼がアップロードした写真の背景や、映り込んだ書類の文字を拡大解析する。
そこには、社外秘と思われるプロジェクトの資料や、取引先との接待費の領収書などが写り込んでいた。
特に目を引いたのは、三ヶ月前の投稿だ。
『今月のノルマ達成のために、ちょっと数字いじっちゃった。バレなきゃ犯罪じゃないよね』
その投稿には、パソコンの画面が一部写り込んでいた。
解像度を上げて解析すると、そこには売上データの改ざんを示唆するようなExcelシートが見えた。
「……見つけた」
俺は震える手でマウスを握りしめた。
これは、ただの不倫問題ではない。
横領、背任、私文書偽造。
企業のコンプライアンス部門が最も恐れ、そして許さない不正の数々だ。
タカシは自分の優秀さを誇示したいがために、あるいはスリルを楽しむために、自ら破滅の種をネット上にばら撒いていたのだ。
俺は興信所に依頼して手に入れた彼の行動調査報告書と、これらのSNSの魚拓を照らし合わせた。
パズルのピースが埋まっていく。
彼が「出張」と称してミユキと旅行に行っていた日、会社には架空の交通費と宿泊費を請求していた。
彼が「接待」と称して高級クラブで豪遊していた日、その支払いは会社の経費で処理されていた。
すべてが繋がった。
「馬鹿な男だ……」
俺は乾いた笑い声を漏らした。
彼は他人を見下すあまり、自分の足元が崩れかけていることに気づいていない。
自分だけは特別で、何をやっても許されると信じ込んでいる。
その傲慢さが、俺にとっては最大の武器となった。
資料の整理が終わる頃には、外は白み始めていた。
プリンターが静かに駆動音を立て、一枚また一枚と「証拠」を吐き出していく。
その紙の束が厚くなるにつれ、俺の心は不思議と静まっていった。
怒りが消えたわけではない。
ただ、熱い怒りが、冷たく鋭い刃へと形を変えたのだ。
俺は三つの封筒を用意した。
茶封筒の表には、それぞれ宛名書きをしたラベルを貼る。
一通目は、アドヴァンス・コア本社、コンプライアンス室御中。
中身は、タカシの不正経理、横領の証拠、そして機密情報漏洩のログ。これらは匿名での内部告発として処理されるだろうが、証拠がこれだけ揃っていれば無視はできないはずだ。上場企業にとって、これほどのスキャンダルは致命的になりかねない。即座に監査が入るだろう。
二通目は、週刊誌の編集部御中。
タカシは一般人だが、アドヴァンス・コアは有名な企業だ。その管理職が、横領した金で部下の女性と不倫旅行を繰り返し、SNSで不正を自慢していたとなれば、格好の記事になる。特に、最近は企業のモラルハザードに対する世間の目は厳しい。社会的な制裁を加えるための、最強の拡声器だ。
そして三通目。
宛名は、神宮寺美咲様。
タカシの妻だ。
興信所の調査で、彼女の実家の住所も判明していた。
中身は、タカシとミユキの不倫の証拠写真。LINEの生々しいやり取りの履歴。そして、タカシがSNSで「嫁」を馬鹿にしている投稿のコピー。
これは残酷なことかもしれない。彼女には何の罪もない。
だが、タカシという男を完全に葬り去るためには、彼の帰る場所すらも奪わなければならない。
情けをかける余裕など、今の俺にはなかった。
「これで、終わりだ」
俺は封筒に封をし、しっかりと糊付けした。
ずしりと重いその封筒は、タカシの人生そのものの重さだ。
これをポストに投函すれば、もう後戻りはできない。
俺の手で、一人の人間の人生を終わらせるのだ。
朝七時。
俺はコートを羽織り、マンションを出た。
外は今日も雨だった。
冷たい雨粒が頬を打つが、傘を差す気にはなれなかった。
濡れたアスファルトの匂いが、鼻腔をくすぐる。
通学途中の高校生や、足早に駅へ向かうサラリーマンたちとすれ違う。
彼らの日常と、俺の現実は、透明な壁で隔てられているようだった。
郵便局の赤いポストが、雨の中で鮮やかに浮かび上がっている。
俺はその前に立ち、三通の封筒を取り出した。
手が震えることはなかった。
躊躇いもなかった。
ただ、これを投函した後に訪れるであろう「結果」を想像し、淡々とした事実確認を行うような心持ちだった。
カタン。
カタン。
カタン。
三つの音がして、封筒はポストの闇へと吸い込まれていった。
俺はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて大きく息を吐き出し、空を見上げた。
灰色の空からは、絶え間なく雨が降り注いでいる。
俺の心の中の雨も、まだ止みそうにはなかった。
数日後。
俺は自宅で、有給明けの出社準備をしていた。
テレビのニュース番組が、ある企業の不祥事を速報で伝えていた。
『大手IT企業アドヴァンス・コアの社員が、数千万円規模の着服を行っていた疑いが持たれています。会社側は事実関係を認め、懲戒解雇も含めた厳しい処分を検討しているとのことです。また、ネット上では当該社員による不適切な投稿が拡散されており……』
画面には、モザイクがかかっているものの、見覚えのあるスーツ姿の男が映し出されていた。
会社の入り口で報道陣に囲まれ、顔を隠して逃げるように車に乗り込む姿。
その狼狽ぶりは、あの自信満々なタカシとはまるで別人だった。
時を同じくして、俺のスマホが鳴った。
登録していない番号からだ。
だが、俺には誰からの電話か直感で分かった。
拒否ボタンを押そうとして、指を止める。
最後に、彼の「声」を聞いておくのも悪くないかもしれない。
俺は通話ボタンを押し、無言で耳に当てた。
「……おい、ハル君だろ? 俺だ、神宮寺だ」
電話の向こうの声は、焦りと恐怖で裏返っていた。
いつもの余裕たっぷりのバリトンボイスは見る影もない。
「何の用ですか」
俺は冷静に答えた。自分の声が、他人のもののように冷たく響く。
「何の用って……お前だろ!? 俺の会社に密告したのは! 写真も、帳簿も、全部お前が送ったんだろ!?」
「何の話か分かりませんね」
「しらばっくれるな! ミユキから聞いたぞ、お前が俺のことを調べてるって! ……頼む、取り下げてくれ! 記事を差し止めてくれ! このままだと俺は終わりなんだ!」
タカシは必死に懇願してきた。
プライドもかなぐり捨てて、なりふり構わず命乞いをする小動物のように。
「嫁にもバレたんだ……実家に帰っちまった。離婚だって言われてる。会社もクビになるかもしれない。違約金とか損害賠償とか、億単位の話になってるんだよ!」
「……それは大変ですね」
「他人事みたいに言うな! お前のせいだろ! どうしてこんな酷いことができるんだ!」
酷いこと。
彼は今、そう言ったのか。
俺の胸の奥で、抑え込んでいた感情が爆発しそうになった。
「酷いこと、ですか」
俺はゆっくりと言葉を紡いだ。
「あなたが俺にしたことは、酷いことじゃなかったんですか? 人の婚約者を寝取って、遊びだと笑って、俺たちの未来を踏みにじったことは、許されることだったんですか?」
「そ、それは……ただの火遊びで……悪気はなかったんだ、本当に!」
「悪気がなければ、人を殺してもいいとでも? あなたは俺の心を殺したんですよ」
電話の向こうで、タカシが息を呑む気配がした。
「あなたが失うのは、社会的地位とお金と家族だけです。でも、俺が失った信頼や愛情は、二度と戻らない。……精々、地獄の底で後悔してください」
「ま、待て! 話し合おう! 金なら払う! 慰謝料だって……!」
俺は返事を待たずに通話を切った。
そして、その電話番号を着信拒否リストに放り込んだ。
部屋の中は、再び静寂に包まれた。
テレビの中では、コメンテーターたちが企業のガバナンス欠如について議論を交わしている。
復讐は成された。
タカシは破滅した。
俺の計画通り、彼はすべてを失い、社会的に抹殺されたのだ。
だが。
胸に広がるのは、達成感でも爽快感でもなかった。
砂を噛むような、ザラついた虚無感。
タカシを追い詰めても、彼が泣き叫んでも、ミユキと過ごした幸せな日々は帰ってこない。
汚された思い出は、綺麗なままでは戻らない。
俺の手の中には、ただ冷たいスマートフォンだけが残されていた。
窓の外では、まだ雨が降り続いている。
この雨は、いつになったら止むのだろうか。
俺はソファに深く沈み込み、目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、笑顔のミユキではなく、泣きながら俺に縋り付いてきた、あの雨の夜の彼女の顔だった。
「……くだらないな、何もかも」
俺は誰にともなく呟き、膝を抱えた。
復讐の冷たい火は、俺の心ごと燃やし尽くしてしまったようだった。




