第2話 【間男視点】「彼氏は風景写真」チョロい女を落とすのは、ただの退屈しのぎ。
東京の夜景を一望できる、西新宿の高層ビルの三五階。
大手企業「アドヴァンス・コア」のオフィスフロアは、深夜になっても完全には眠らない。整然と並ぶデスクの島々、パソコンの駆動音、そして空調の低い唸り声。
俺、神宮寺タカシは、ガラス張りの窓に映る自分の顔を満足げに眺めていた。
仕立ての良いオーダーメイドのスーツ、手入れされた髪、そして三十代という脂の乗った男だけが醸し出せる余裕。
窓の外には、宝石箱をひっくり返したような東京の光の海が広がっている。まるで、この街すべてが俺の支配下にあるかのような錯覚を覚える瞬間だ。
「……さて」
俺はデスクに戻り、スマートフォンを手に取った。
画面には、一人の女性からの通知が溜まっている。
名前は『ミユキ』。
三ヶ月前、中途採用で入社してきた事務の女の子だ。
年齢は二十二歳。地味で大人しそうだが、ふとした瞬間に見せる笑顔には、男の庇護欲をそそる独特の甘さがあった。
俺は彼女からのメッセージをスクロールする。
『タカシさん、昨日は本当にありがとうございました。あんな素敵なお店、初めて行きました』
『ハル(彼氏)には内緒にしてます……なんだか悪いことしてるみたいでドキドキします』
俺は鼻で笑った。
悪いことをしているみたい、だと?
違うな。お前はもう、完全に「悪いこと」の共犯者だ。
俺は慣れた手つきで返信を打つ。
『僕も楽しかったよ。ミユキちゃんといると、仕事の疲れも忘れちゃうな』
『彼氏さんには悪いけど、君の魅力に気づけない彼が悪いんだよ。僕ならもっと君を輝かせられる』
送信ボタンを押す。
この程度の歯の浮くような台詞でも、今の彼女には劇薬のように効くはずだ。
俺にとって、女は二種類しかいない。
利用価値のある女か、そうでない女か。
あるいは、トロフィーとして飾る価値があるか、使い捨ての玩具にするか。
ミユキは後者だ。
家庭には妻と子供がいるが、そんな「日常」は俺の自尊心を満たしてはくれない。俺が必要としているのは、自分が男として現役であり、優秀な捕食者であるという再確認だ。
そのためには、少しばかり背徳的なスパイスが必要になる。
ミユキに目をつけたのは、彼女が入社してすぐのことだった。
歓迎会の席で、彼女は所在なさげにグラスを弄っていた。
俺が隣に座り、「大丈夫? 緊張してる?」と声をかけると、彼女はパッと花が咲いたような顔で俺を見た。
その瞬間、直感が告げたのだ。
「こいつは落ちる」と。
彼女の瞳には、現状への漠然とした不満と、自分を特別扱いしてくれる誰かへの渇望が見え隠れしていたからだ。
「彼氏はいるの?」
その問いかけに、ミユキは少し照れくさそうに頷いた。
幼馴染で、もう何年も付き合っている同棲相手がいるのだという。
俺はその彼氏の写真を見せてもらったことがある。
ハル、とかいう名前の青年。
写真の中の彼は、優しそうで、誠実そうで、そして致命的に「退屈」そうな顔をしていた。
背景の公園の木々と同化してしまいそうな、毒にも薬にもならない男。
俺は心の中で嘲笑した。
「風景写真」だな、と。
そこに在るだけで、誰も足を止めて見ようとはしない。日常の一部として埋没した存在。
ミユキのような、まだ世間を知らない若い女が、そんな「風景」に飽き始めていることは明白だった。
俺の「狩り」は、丁寧かつ迅速に進められた。
まずは仕事にかこつけて彼女を残業に付き合わせる。
「君のサポートがないと助からないんだ」と、承認欲求をくすぐる言葉を添えて。
そして、残業終わりの食事。
最初はカジュアルな居酒屋から始め、徐々にランクを上げていく。
彼女が普段、彼氏とは絶対に行かないような、高層階のレストランや隠れ家的なバーへ連れ出すのだ。
きらびやかな夜景、洗練されたサービス、舌の上でとろけるような肉料理。
それらを前にした時の彼女の瞳の輝きを見るのが、俺は好きだった。
それは純粋な感動ではなく、彼女の中に眠っていた「虚栄心」が目覚める瞬間だからだ。
「彼氏とは、こういうお店には来ないの?」
ある夜、俺はグラスを傾けながら何気なく尋ねた。
ミユキは少し困ったように笑い、首を振った。
「ハルは……そういうタイプじゃなくて。家でご飯作って食べるのが好きなんです。節約家だし……」
「へえ、家庭的でいい彼氏じゃないか」
俺はあえて彼氏を褒める。
すると、彼女は決まって少し不満げな顔をするのだ。
「いい人なんですけど……たまには刺激が欲しいなって思う時もあって。毎日同じことの繰り返しで、このままお婆ちゃんになっちゃうのかなって」
「もったいないな」
俺は彼女の目を見つめ、低い声で囁く。
「君はもっと美しい世界を知るべきだ。その資格がある」
その言葉に、ミユキの頬が紅潮する。
俺はテーブルの下で、彼女の手にそっと自分の手を重ねた。
彼女は一瞬だけビクリと身を震わせたが、手を引くことはなかった。
これが、決定打だった。
彼女はもう、俺という「刺激」を受け入れている。
幼馴染との平穏な愛よりも、上司との危険な情事を選び取ろうとしている。
その背徳感が、彼女をより美しく、そして愚かに見せていた。
そして一週間前、ついに俺たちは一線を超えた。
「終電、なくなっちゃったね」
そんな古典的な言い訳で、彼女をタクシーに押し込み、予約しておいたホテルへと向かった。
彼女は最後まで「彼氏に悪い」「どうしよう」と口にしていたが、その足取りが止まることはなかった。
ホテルの部屋に入り、ドアが閉まった瞬間、彼女は俺の腕の中にいた。
罪悪感と快楽がない交ぜになった彼女の表情は、最高のご馳走だった。
幼馴染の男が大切に守ってきた純潔を、俺が泥足で踏み荒らす。
その征服感がたまらない。
あの「風景写真」のような彼氏は、今頃家で彼女の帰りを待ちながら、冷めた料理を眺めているのだろうか。
そう想像するだけで、俺の優越感は絶頂に達した。
事後、俺はシャワーを浴びながら彼女のスマートフォンの通知音を聞いた。
おそらく彼氏からの連絡だろう。
俺はベッドに戻り、シーツにくるまって眠るミユキの横顔を見下ろした。
無防備で、愚かで、愛らしい獲物。
俺は自分のスマホを取り出し、彼女の寝顔を一枚撮影した。
これはコレクションだ。
俺が彼女を支配した証。
そして、彼女が逃げようとした時のための、ちょっとした保険でもある。
「……んぅ……タカシさん?」
シャッター音に気づいたのか、ミユキが目を覚ます。
俺はすぐに優しい笑顔を作り、彼女の髪を撫でた。
「ごめん、起こしちゃったかな。あまりにも可愛くて、つい」
「もう……恥ずかしいです」
彼女は顔を赤らめてシーツに潜り込む。
俺はその様子を見ながら、心の中で冷ややかに計算していた。
この関係は、あとどれくらい楽しめるだろうか。
彼女の「彼氏への罪悪感」がスパイスとして機能しているうちは、まだ美味しい。
だが、もし彼女が本気で俺に乗り換えようとしたり、家庭を壊そうとしたりするようなら、その時は潮時だ。
面倒ごとは御免だ。
俺にとって彼女は、あくまで退屈しのぎのゲームなのだから。
翌日、俺はさらにゲームの難易度を上げることにした。
LINEで、あえて際どいメッセージを送るのだ。
『昨日の君、すごく大胆だったね』
『彼氏とのマンネリ、僕が解消してあげるよ』
そんな証拠に残るような文面を送ることはリスクがある。
だが、そのリスクこそが興奮を高める。
彼女がスマホを見るたびに、俺との秘密を意識せざるを得ないようにする。
彼女の日常を、俺の色で塗りつぶしていく感覚。
それは、会社で部下を意のままに操る感覚に似ていた。
人は、強い言葉と少しの飴を与えれば、簡単にコントロールできる。
「さて、そろそろ帰るか」
俺はパソコンをシャットダウンし、立ち上がった。
今日はミユキとの約束はない。彼女は彼氏のご機嫌取りでもしているのだろうか。
それとも、昨日の余韻に浸りながら、俺からの連絡を待っているのか。
どちらにせよ、主導権は俺にある。
エレベーターに乗り込み、一階のエントランスへと降りる。
深夜のオフィス街は静まり返っていた。
冷たい秋風が吹き抜ける中、俺はタクシーを拾うために手を挙げた。
その時、ふとポケットの中のスマートフォンが震えた。
ミユキからだ。
『タカシさん……大変です。ハルに、スマホ見られちゃったかもしれません』
画面に表示された文字を見て、俺は思わず吹き出しそうになった。
見られた?
脇が甘すぎるだろう。
普通なら焦るところだが、俺の中に湧き上がったのは「面白くなってきた」という感情だった。
彼氏はどう出るだろうか。
泣いてすがるのか、怒り狂うのか。
それとも、何も見なかったことにして、彼女を繋ぎ止めようとするのか。
どの反応も、想像の域を出ない陳腐なものだろう。
『大丈夫だよ。君がうまく誤魔化せばいい』
『それに、もしバレたとしても、僕がいるじゃないか』
無責任な返信を送りつけ、俺はタクシーに乗り込んだ。
「僕がいる」なんて、もちろん嘘だ。
もし彼女が捨てられても、俺が面倒を見るつもりなど毛頭ない。
むしろ、フリーになった彼女が俺に依存してくるようなら、それはそれで鬱陶しい。
まあ、適当な理由をつけて捨てればいいだけの話だ。
「妻にバレそうになった」とでも言えば、彼女は身を引くだろう。
不倫をする女というのは、結局のところ自分が可愛いのだ。
被害者面をするのも、悲劇のヒロインぶるのも、彼女たちの得意技だ。
車窓を流れる街の灯りを眺めながら、俺はあくびを噛み殺した。
ミユキとの関係も、そろそろクライマックスかもしれない。
あの「風景写真」の彼氏が、少しでも骨のある男なら、このゲームも多少は盛り上がるのだが。
期待はできないな。
精々、俺という圧倒的な勝者の引き立て役として、惨めに退場してもらうとしよう。
俺はスマートフォンのフォトフォルダを開く。
そこには、ミユキ以外にも、過去に遊んだ女たちの写真が保存されている。
彼女たちは皆、俺の人生という物語の脇役に過ぎない。
使い捨ての、一時の清涼剤。
そして俺は、彼女たちの人生を狂わせたことになど、微塵も痛みを感じていない。
なぜなら、選んだのは彼女たち自身だからだ。
俺はただ、選択肢を提示したに過ぎない。
「平凡な幸せ」か、「刺激的な破滅」か。
その甘い毒林檎を手に取ったのは、他ならぬミユキ自身なのだ。
タクシーが自宅のある高級マンションの前に停まる。
俺は運転手にカードで支払いを済ませ、車を降りた。
見上げれば、曇り空の隙間から、冷たい月が顔を覗かせている。
月明かりの下、俺の影だけが長く、黒く伸びていた。
「……退屈だな」
呟きは夜風に消えた。
俺はエントランスのオートロックを解除し、光の中へと足を踏み入れた。
その背後で、見えない歯車が狂った音を立てて回り始めていることになど、気づきもせずに。
捕食者が、いつの間にか獲物に変わる瞬間が近づいていることを、この時の俺はまだ知る由もなかったのだ。




