第92話
食堂は、いつもより騒がしかった。
配膳台の前に列が伸びて、皿が触れ合う音が絶えない。
木の床を踏む靴音も、今日は少し軽い。
外で露店の準備が進んでいるせいか、人の顔がどこか浮き立って見えた。
アルスはリデルと向かい合って座り、湯気の立つ椀を両手で包んだ。
旧棟の冷たさが、まだ指先に残っている気がする。
昨夜、窓枠の隙間を鳴らした風の音。
水を汲むとき、縄が軋んだ感触。
硬い寝台が、背中の芯だけを残していった。
リデルが箸を止めて、顔を覗き込んだ。
「アルス、なんだか眠そうね」
アルスは一瞬だけ言葉に詰まってから、素直に頷く。
「旧棟が思ったより不便で…」
リデルは眉を寄せる。
困った、というより、すぐに手を貸したくなる顔だ。
「大変ね。しばらく私の家に泊まる?」
昨夜、浮かんだ考えがよぎった。
温かい灯り。
柔らかい寝具。
扉を閉めたときの安心。
それが「借りもの」だということも、同時に分かる。
アルスは椀の縁を指でなぞり、首を振った。
「…いや、大丈夫。今回は自分でなんとかしてみるよ」
リデルは少しだけ口を尖らせた。
けれど、押し切らない。
「そう、無理しないでね」
その言葉が終わる前に、食堂の入り口がざわめいた。
扉の蝶番が鳴り、冷たい外気が一筋だけ流れ込む。
見覚えのある制服が、まとまって入ってくる。
風暦院の人たちだ。
五国の中で一番早く着いたらしい。
周りの席が、ひそひそと囁き合う音に変わる。
アルスは、立ち上がりかけて止まった。
その列の中に――見覚えのある姿があったからだ。
「ミーナ!エルネさん!」
思わず手を振る。
声が少し大きくなって、隣の卓の視線が一瞬集まる。
二人もこちらに気づいたようで、ミーナは躊躇なく走ってきた。
髪が跳ね、制服の裾が翻る。
「アルス!リデル!久しぶり!二人が土の国に行って以来だね」
リデルがぱっと笑う。
「ミーナ、久しぶり!」
ミーナはリデルの顔をまじまじと見て、目を丸くした。
「なんかリデル、雰囲気変わったね。なんだかちょっと大人になったみたい」
リデルは自分の頬を軽く押さえて、照れたように首を傾げる。
「そうかな?」
「そうだよ」
ミーナはにっこりした。
少し遅れて、エルネが歩いてくる。
忙しい食堂の流れの中でも、足取りが落ち着いている。
アルスの前で止まり、短く頷いた。
「アルス君、久しぶり」
「エルネさん、久しぶり。こっちに来るなんて聞いてなかったから驚きました」
リデルが「誰?」という目でアルスを見る。
アルスは慌てて言葉を継いだ。
「あっ、リデルは初めてだったね。こちらエルネさん。ミーナのお父さん」
リデルは背筋を伸ばして、丁寧に頭を下げた。
「は、初めまして。リデル=グラナードと申します。ミーナさんにはいつもお世話に――」
言い終える前に、エルネが手を軽く振って笑った。
「そんなに畏まらないでもいいよ。ミーナからいつも聞いているよ。こちらこそいつも娘をありがとう」
「そうそう。そうだよね」
ミーナが相槌を打つ。
アルスは場が和らいだのを見てから、訊ねた。
「それで、エルネさん。どうしてこちらへ?」
「アルス君を驚かせようと思って。それにしばらく妻にも会ってなかったから、\n それも兼ねてこちらに来たんだ。せっかくの五環祭だしね」
「そうなんですね。そういえばノルン達は来てないんですか?」
ミーナが少しだけ肩をすくめ、エルネが先に答える。
「ノルンは来てないよ。まだまだ大人数は苦手みたいで」
「そうですか」
アルスの声が、ほんの少し落ちる。
ミーナはすぐにそれを拾った。
「でもね、ノルンってば学院にずっと行ってるんだよ。友達もできたみたい」
その言葉を聞いて、アルスの顔が明るくなる。
自分の知らないところで、世界が少しずつ進んでいる。
「それにね。今回、ノルンが作っ――」
ミーナが言いかけたところで、エルネが咳払いをひとつして遮った。
「ミーナ、そこまで。楽しみはとっておかないと」
アルスとリデルは顔を見合わせた。
何のことだか分からない。
けれど、隠されると余計に気になる。
アルスは話題を戻すように訊く。
「それで、このあとどうするんですか?」
「しばらく、手続きなどがあるみたい。ゆっくり話せるようになるにはもう少しかかるかもね」
「そうですか」
エルネは穏やかに頷いて、続けた。
「心配しないでも大丈夫さ。一ヶ月はこちらにいるからね。
”いろいろ”話す時間もあるだろう」
言葉の輪郭だけが、少し硬くなる。
アルスは返事をしようとして、喉の奥で一瞬止まった。
思い当たるものがある。
けれど今は、それを口に出す場所ではない。
「はい」
ミーナが軽く手を叩いた。
「じゃあ、私たちはまだやることあるみたいだから、もう行くね」
「うん。また後で。お土産もあるから」
「ミーナ。またね」
「お土産!楽しみにしてる。二人ともバイバイ」
「失礼するよ」
二人が去っていく背に、アルスとリデルは手を振った。
制服の群れが食堂の奥へ吸い込まれていき、ざわめきが一段増す。
祭りが、もう始まっている。
見送ったあと、リデルが横目でアルスを見る。
「アルスも顔が広くなってきたのね」
「風の国では特にお世話になった人だからね」
リデルが小さく笑う。
その笑い方が、昨日までと少し違って見えた。
「アルスももう大人なのね」
「なんだよそれ」
二人して目を合わせて、クスッと笑う。
笑いは短く、けれど確かに温かい。
◆
その日はミーナとエルネさんとは話す機会がなく、食事の後は旧棟に帰宅した。
街の灯りは増えていた。
飾り紐が風に揺れ、短冊がちらちらと影を落とす。
人の声は遠くまで届くのに、旧棟へ向かう道は次第に暗くなる。
足元の石畳が途切れ、土の匂いが濃くなった。
扉の金具は冷たく、握ると指先がじんとした。
開けた瞬間、空気が変わる。
湿った木の匂い。
風の通り道がどこかにあって、壁の継ぎ目が小さく鳴った。
この部屋に入ると現実に戻される。
アルベスの寮が少し恋しくなるアルスであった。




