第91話
アルスは、街を歩いていた。
石畳の上を行き交う足音が増え、いつもの通りが別の道みたいに響く。
露店の骨組みが組まれ、縄が張られ、天幕の布が風に揺れていた。
柱を運ぶ男たちの掛け声。
釘を打つ乾いた音。
布を広げるたび、ぱたぱたと鳴る。
香辛料の匂いが鼻をくすぐり、焼き菓子の甘い香りがその後を追う。
飾り付けも始まっていた。
通りの上には細い紐が渡され、色布の切れ端が短冊のように結びつけられている。
店先には小さな旗。
家々の窓には、磨かれた飾り板や花の束。
魔石灯も、普段の明かりより明るく調整されているらしく、昼のうちから淡く脈を打っていた。
子どもたちは、足元が忙しい。
短冊が揺れるたび追いかけ、紐に手を伸ばしては大人に叱られて逃げる。
木箱の陰から飛び出して、笑い声を弾ませる。
肩車された子が、上から通りを見下ろして歓声を上げた。
人々の顔は浮き足立っていた。
いつもなら急ぎ足で通り過ぎるだけの者が、露店の位置を覗き込み。
荷を運ぶ手を止めて、誰かと何かを指さして話している。
笑い声が増え、声の高さが少し上がっている。
見慣れない服装の者たちも目についた。
刺繍の入った長衣。
肩を覆う薄い外套。
腰に下げた飾り布や、光る糸で縁取られた帽子。
言葉の抑揚も、耳に残る響きも、どこか違う。
通りの隅で地図を広げている一団がいて、案内の少年が胸を張って説明していた。
遠くから来た人間たちが、もう混じっているのだと分かる。
いつものアルベスが、違う姿を見せていた。
同じ石畳なのに、踏むたびに騒めきが跳ね返ってくる。
同じ店先なのに、並ぶ品が増え、声が増え、色が増える。
街が、祭りの形へと着替えていく。
アルスはその中を縫うように進む。
肩をすり抜ける人波に合わせて足を運ぶ。
呼び込みの声が背中を押し、笑い声が横を通り過ぎる。
誰かに「おい、見てみろ」と声を掛けられても、返事は一拍遅れた。
目はきちんと景色を追っているのに、どこか遠い。
けれど、アルスがここを歩いている理由は。
祭りの喧騒そのものではなく。
少し前の、あの会話にあった。
◆
「アルス、そろそろ寮を出な」
唐突だった。
意味を測る前に、声が出る。
「え?なんで?」
リュマは歩みを止めず、肩越しに答えた。
話題としては、当たり前のことを言っているだけだという口調で。
「あと一年であんたも卒業だし、それに五環祭があるからね」
卒業。
その言葉には覚えがある。
けれど、五環祭と並べられると、繋がりが見えない。
「卒業は分かるけど、五環祭があるからってどういうこと?」
リュマは軽く顎を上げ、窓の向こうを示すように言った。
外で運び込まれていく木材と布。
それが、答えの一部だった。
「五環祭は国の人間がたくさん来るのさ。その際に研究員や学生もたくさん来る」
アルスは黙って聞く。
リュマは、説明を続けた。
「その時にアルベスの寮を毎回貸出しているのさ」
貸し出す。
寮を。
アルスの理解が追いつく前に、疑問が形になる。
「じゃあ、アルベスの寮生活をしている子達はどうするの?」
リュマは当然だろう、とでも言うように肩をすくめた。
早足のまま、廊下の先へ視線を投げる。
「大抵はここから少し離れた古い棟に移ってもらう。ただあんまり大きくないし、設備も古いからね」
古い棟。
言葉だけで、冷えるような気がした。
それでも、言ってしまう。
「……それで、僕みたいなのを外に出すってこと?」
リュマの足が止まる。
振り返るでもなく、横目だけで釘を刺した。
「外に出すなんて人聞きの悪いこと言うんじゃないよ」
声は強くない。
けれど、逃げ道はなかった。
そして、少しだけ間を置いて。
リュマは、次の言葉を落とす。
「それに、あんたもそろそろ自分の帰る場所ぐらい、自分でなんとかしなきゃね」
“帰る場所”。
その言い方が、アルスには引っかかった。
寮は寝る場所で、学院は居場所で、日々は繋がっていた。
それらが、区切られる。
不安が先に出る。
現実が追いかけてくる。
「でも、お金はどうするのさ。僕は研究員のみんなみたいにお金をもらってないよ」
リュマはようやく立ち止まり、アルスを見た。
師の顔はいつも通りだ。
けれど、言葉は少しだけ柔らかい。
「そこは心配しなさんな。あんた達が卒業するまでそこら辺は学院側で工面するよ」
返事が遅れた。
理解したからでも、納得したからでもない。
ただ、言うしかない。
「…わかった」
リュマは頷いた。
そして、最後に念を押す。
先延ばしを許さない声で。
「とはいえ、すぐに決まるようなものではないし、しばらくは旧棟で過ごしな」
旧棟。
それが、当面の答えになった。
◆
アルスは、祭りの準備を眺めながら歩みを進める。
人の波を避け、露天の荷を運ぶ者の邪魔にならないように端へ寄る。
笑い声が弾け、呼び込みの声が重なる。
その明るさが、少し遠い。
ここに来てずっと学院で過ごしてきた。
アルベスの寮で過ごして、最初はヴァーンとかと一緒にいて。
どんどんいろんなことできるようになって。
歩きながら、ヴァーンを思い出す。
元気にやっているだろうか。
この五環祭に来るのかなとか考えていた。
卒業後のことも考える。
ミーナやリデルは自分のやることを見つけた。
アルスは歩幅を少し落とした。
ミーナやリデルの言葉が、遠いところで形を結ぶ。
自分には、まだそれがない。
少し前を思い出す。
リデルも土の国に行く前はこんな気持ちだったのだろうか。
露天の前を通り過ぎ、広場を抜ける。
気づけば、空は深い色に沈みはじめていた。
準備の灯りが一つ、また一つと点く。
祭りは近づいているのに、時間だけが置いていく。
いろんなことを考えているともうすっかり日は落ちていた。
アルスは旧棟にいってみる。
街の賑わいから外れた道へ入ると、足音が途端に響くようになる。
風が冷たく、草の匂いが濃い。
そして。
そこにはボロボロの建物があった。
壁の色はくすみ、窓枠は歪んでいる。
灯りは少ない。
扉の金具だけが鈍く光っていた。
アルスは建物を見上げた。
そして扉の金具に手を掛ける。
冷たさが掌に移って、指先が僅かに強ばった。
それでも、扉の前からは退かなかった。




