第72話
翼獣は、学院の端にある厩舎のような建物に運び込まれていた。
馬を繋いでいた頃の名残りなのか、鉄の柵で囲った小さな区画がいくつも並んでいる。
敷かれた藁と、木と鉄の匂い。外より少し薄暗く、ひんやりした空気が漂っていた。
黒い翼獣は、その一番奥の囲いに入れられている。
尻尾の結晶はまだ光を鈍く反射し、ときどき小さく揺れた。
入口近くにはセラとオルド、そしてアルスとリデルが立っていた。
「私は、しばらくこの件を調べる」
セラが囲いから視線を外さずに言った。
「アルス。あの子を頼むぞ」
「はい」
アルスは素直にうなずく。
セラはそこでようやく振り返り、リデルのほうを見る。
「あれがお前と一緒に来た子か?」
「はい。優しい子です」
リデルは少し緊張した面持ちで、翼獣とセラを交互に見ていた。
「ああ、いい子だな」
短くそう言って、セラは口角をわずかに上げる。
「じゃあ、学長と私はしばらくいなくなる」
オルドが静かに頷いた。
「お前が、あの子“たち”を見てくれると助かる」
「リデルと翼獣ですか?」
「トールもだ」
トールの姿はここにはない。
今も修練場で鍛錬しているのだろう。
「わかりました」
セラは軽く肩をすくめてから、念を押すように続けた。
「もし怪しい奴が来たら、すぐに教えろ」
言いながら扉のほうへ歩いていく。
「グラナード家には、私から伝えておく」
「ありがとうございます」
アルスが頭を下げると、セラとオルドは厩舎を出ていった。
扉が閉まる音が、少しだけ大きく響いた。
◆
厩舎の中には、翼獣と、アルスと、リデルだけが残された。
リデルはそっと檻の前まで歩いていき、柵のすぐ外に腰を下ろした。
翼獣は、こちらを見ない。
黒い横顔のまま、ただ耳だけがわずかに動いた。
「あなたの目、綺麗ね」
リデルがぽつりと言う。
「まるで夜空に浮かぶ、月のよう」
返事はない。
翼獣の瞳は、乾いた床の一点を見つめたままだ。
「前はどこにいたの?」
少し間を置いて、また声が落ちる。
「この都市の、もっと奥かしら」
「あなたには兄弟とかいる?」
問いかけは途切れ途切れに続いた。
「私はいないの――」
翼獣は顔を合わせないが、たまに耳がぴくりと動く。
尾の羽根が、ほんの少しだけ開いては閉じる。
リデルは、それを責め立てることも、急かすこともなく、ただ丁寧に言葉を重ねていった。
どれくらい時間が経っただろう。
そのうち、厩舎の奥の扉が開き、ウィルがひょいと姿を見せた。
ミレイたちが、様子を見に行かせたのだろう。
ウィルはアルスの横まで歩いてきて、どさりと腰を下ろす。
わざとらしく大きなあくびをひとつして、ちらりとアルスとリデル、そして翼獣を見比べた。
(気遣い上手め……)
アルスは思わず苦笑した。
最初、翼獣はウィルにも警戒を見せた。
羽毛が逆立ち、喉の奥から低い唸り声が漏れる。
だがウィルは、特に近づくでもなく、ただそこに座っているだけだ。
視線だけで、ここにいるよ、と伝えるように。
しばらくすると、翼獣の緊張も、ほんの少しだけ和らいだように見えた。
そのときだった。
翼獣が、ふいに体勢を変えた。
藁の敷かれていないところに、湿った音が落ちる。
「あ……」
リデルが小さく声を漏らした。
粗相だった。
緊張が解けたせいなのか、それとも単に限界だったのか。
翼獣は困ったように一度だけ尻尾を揺らし、それから顔をそむけた。
リデルは立ち上がり、厩舎の隅に立てかけてあった掃除用の道具を手に取った。
木の柄に付いた刷毛と、古びた布。
そのまま翼獣の囲いに近づこうとする。
アルスとウィルは、同時に身を強張らせた。
(何かあったら、すぐ動く)
ウィルが低く唸る。
翼獣も立ち上がり、リデルに向かって歯を剥いた。
鉄の柵に爪を打ちつけ、金属音が厩舎に響く。
土はない。
床は板と石で覆われている。
地面から土の魔法が飛び出す心配はない。
それでも、爪も牙も十分に危険だった。
「リデル。近づいちゃダメだ」
アルスは、思わず声を上げていた。
リデルは振り返らない。
「アルス。あなたもそう言われて、カイに近づいたじゃない」
静かな声だった。
けれど、その一言で、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
アルスは、あの時の自分の足音を思い出す。
止められても、諦められなかった一歩。
リデルはそう言うと、再び檻へ近づき始めた。
アルスは急いで翼獣とリデルのあいだに割って入る。
「ダメだ」
自分でも驚くほど、声が強く出た。
リデルは歩みを止め、アルスを見上げる。
これまでに聞いたことのないほど、穏やかな声で言った。
「アルス。あの子は、もう少しで殺されちゃうかもしれないの。なんの罪もないのに」
翼獣の黒い瞳が、こちらをじっと見ている。
「そのときの姿は、綺麗であってほしい」
リデルの瞳は揺らがなかった。
アルスは、言葉を失う。
檻に閉じ込められた翼獣。
結晶化した尾。
痛みを堪えるように丸めた体。
どれも、目をそらしたくなる光景だ。
それでも――。
「……わかった」
アルスは息を吐いた。
「でも僕と一緒に入ること。いいね」
「うん」
リデルは素直に頷いた。
二人で、一歩ずつ近づいていく。
ウィルが低く唸り声を漏らしながらも、黙ってその場を譲った。
檻のすぐ手前まで来た、その瞬間。
翼獣の前足が、稲妻のような速さで振りかぶられた。
布が裂ける乾いた音がした。
リデルの肩口の布が大きく破れ、白い肌に赤い線が走る。血がじわりと滲んだ。
(速い――)
「リデル!」
アルスが叫ぶ。
「アルス。大丈夫」
リデルは後ずさりしなかった。
痛みで顔を歪めながらも、足はその場に釘付けになっている。
アルスは一度だけ唾を飲み込み、決意を固めるように息を吸った。
そして、檻の中へ足を踏み入れた。
リデルも、すぐ隣に入る。
鉄の柵の内側。
逃げ場はほとんどない。
翼獣の体が、ばね仕掛けのように跳ねた。
今度は牙だ。
まっすぐリデルに向かって飛びかかってくる。
(今度は――)
アルスは半歩前に出た。
肩からぶつかるようにして、その軌道に体を差し出す。
鋭い痛みが走った。
翼獣の口には、アルスの肩が挟まっている。
牙が布と肉を噛みしめ、熱いものがじわじわと広がっていく。
骨が軋む。
ウィルが檻の外で激しく唸った。
いつでも飛び込める姿勢で身を低くしている。
「アルス!」
「リデル! ウィル! いいから、片付けてあげて」
アルスは、噛まれたまま声を出した。
リデルは一度だけ振り返り、翼獣とアルスを見比べ、それから頷いた。
掃除用具を持ち直し、背を向けて、粗相のあとを黙々と片付け始める。
その間も、翼獣の牙はアルスの肩に食い込んでいた。
アルスは、空いたほうの手をそっと伸ばす。
噛みついている頭の上に、指先を置いた。
「そうだよね」
囁くように言う。
「怖いよね」
ゆっくりと、羽毛を撫でる。
最初は強張っていた感触が、ほんの少しずつ柔らかくなっていく。
噛む力が弱まった。
やがて、ほとんど咥えているだけになった。
「アルス! 終わったよ!」
リデルが振り向いて告げる。
「ありがとう」
アルスは、小さく答えた。
撫でる手を止めないまま、肩を少し引く。
翼獣は抵抗しなかった。
牙がゆっくりと離れ、肩から血がつーっと一筋流れ落ちる。
ウィルの唸り声も、いつの間にか消えていた。
二人と一匹は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
やがて翼獣は、ゆっくりと身を伏せた。
結晶化した尾を庇うように丸まり、黒い瞳を閉じかける。
ひと息ついてから、二人はいったん囲いの外へ出た。
そのすぐそばに、リデルとアルスが腰を下ろした。
檻の中にまでは入らない。
だけどもう、鉄の柵を一枚挟んだだけの距離だった。




