第50話
朝の空気は、昨日より少し乾いていた。
詰所の塀の向こうには、低い霞のようなものがかかっている。
あれがヘイメリア帯――死の渓谷へと続く道なのだと、昨夜誰かが言っていた。
馬車乗り場に向かうと、すでに人と獣が集まっていた。
荷馬車の前に、ウィルによく似た大きな狼が一頭。
それより少し先に、翼の生えた獣が一頭。
翼獣は、鷲の翼と山猫の身体を合わせたような姿をしていた。
鋭い目つきと、しなやかな足。広げた翼には、ところどころ鉱石のような光沢が混じっている。
「ここからは危ない場所だからな、この人たちに護衛をしてもらう」
馬車隊のリーダーらしい御者が、声を張って言った。
みんなの視線が、二人と二頭に集まる。
「ランドだ。みんなよろしく。こいつはドーガだ」
岩狼の背に跨った男が、軽く手を挙げた。
短く刈った髪に、日に焼けた肌。
無駄のない革鎧を身に着けていて、動きに隙がない。
その足もとには、灰色の狼――ドーガが静かに立っている。
ウィルと同じ岩狼だが、こちらの方が一回り大きい。
肩のあたりの結晶も、角のようにせり出していて、ごつごつしていた。
ウィルとドーガの視線が、空中でぶつかる。
一瞬、緊張が走った。
先に視線を逸らしたのは、ドーガの方だった。
ウィルは、ふん、と鼻を鳴らす。
どうやら、ウィルの方が強いらしい。
「フィノよ。谷翼隊に所属している。この子はカイ。少し気性が荒いから、気を付けてね」
今度は、翼獣の背から女の声がした。
肩までの髪を後ろでひとつにまとめ、軽装の鎧を着ている。
細身だが、背筋はまっすぐ伸びていた。
足もとで翼獣――カイが、一声だけ短く鳴いた。
翼のつけ根に埋まった結晶が、朝日にきらりと光る。
空を飛ぶのだろうか、とアルスは思った。
谷翼隊――土の国の話を聞いたときに、一度だけ耳にしたことのある名前だ。
谷や崖を飛び回り、上から情報を集める部隊。
実物を目の前にするのは初めてだった。
「ゆっくりしているところ悪いが、この帯は早めに抜けたい」
御者が手綱を持ち直しながら言う。
「すぐ出発する」
号令に合わせて、旅人たちはそれぞれの馬車へと散っていった。
「ちょっと緊張してきたね」
幌馬車へ向かいながら、リデルが小さくつぶやく。
「うん」
アルスも頷いた。
胸の奥に、小さな石をひとつ飲みこんだみたいな重さが生まれる。
◆
馬車隊が動き出してから、しばらくは昨日までとあまり変わらない景色が続いた。
道の脇にはまだ草が生えていて、ときおり小さな木も見える。
鳥の影が飛び、虫の羽音も聞こえる。
ランドとドーガは先頭の方。
フィノとカイはときどき地上を走り、ときどき低く空を滑るように飛んでいた。
アルスは今日もウィルの背中に乗って、最後尾の馬車の横を進んでいる。
ただ、背中には自分だけではない。
「しっかりつかまっててね」
「うん!」
後ろから、小さな腕がアルスの腰にぎゅっと回される。
昨日、焚き火のそばでウィルのお腹を枕にして寝ていた子どもだ。
どうやらすっかりウィルを気に入ってしまったらしく、「乗りたい」とせがまれた。
さすがに一人では危ないので、アルスが前に乗り、後ろから支える形になっている。
もう一人の子どもは、交代の順番を心待ちにしながら幌馬車の中から顔を出していた。
親たちも、昨日のことがあってか、今は安心した顔でその様子を見守っている。
ウィルは、背中に二人を乗せたまま、いつもより少しだけ慎重に歩いていた。
ときどき首を伸ばして、アルスの顔色を確かめるように振り返る。
アルスは、そのたびに「大丈夫だよ」と微笑み返した。
やがて――
景色が、じわりと変わり始めた。
最初は「木が少し減ってきたかな」程度の違いだった。
それが、いつのまにか「草がまばらになってきた」に変わる。
そして、ある地点を境に、ほとんど一気に、緑が消えた。
道端の地面は、ひび割れた土と、白っぽい岩肌ばかりになる。
遠くに見える丘も、なんとなく色が抜け落ちたように灰色がかっていた。
さっきまで聞こえていた鳥の声が、いつのまにか聞こえなくなっていた。
「……」
アルスは、背筋をひやりとした何かが撫でるのを感じた。
土の国へ続くヘイメリア帯は、飢えた土地だと聞いたことがある。
腹を空かせた獣だけがうろつく道。
そこに生きるものは、いつも何かに飢えている――と。
今見ている景色は、その言葉を思い出させるには十分だった。
「入ったみたいね」
空の上から、フィノの声が降ってくる。
カイの翼が、ひゅう、と風を裂いた。
「みんな、死の渓谷に入った! ここからは気をつけていくよ!」
今度は地上に降りてきたフィノが、全員に聞こえるように声を張り上げた。
馬車の中から、小さな息を飲む音がいくつか聞こえた。
◆
「それは、君の盟獣かい?」
しばらくして、隣に並んできた影がそう声をかけてきた。
ランドとドーガだ。
ドーガは、ウィルとほとんど同じ速度で歩きながら、ちらりとこちらを見る。
「……盟獣?」
聞き慣れない単語に、アルスは首をかしげた。
「ああ、君らの方では晶獣と呼ぶんだっけ」
ランドが片手で髪をかき上げる。
「いえ、僕のではないんです」
アルスは、後ろの馬車を顎で示した。
「あの馬車に乗っている子のお母さんの、家の子です」」
リデルが乗っている幌馬車。
ウィルにとって大切な「家族」だ。
「……にしては、すごい懐いているな」
ランドは感心したように目を細めた。
「岩狼が盟晶の儀を済ませてない相手にここまでとは……」
「この子たちは、あまり懐かないんですか?」
アルスはウィルの首元を撫でながら尋ねた。
ウィルは子どもたちに触られても嫌がらず、むしろどこか誇らしげに歩いている。
「プライドが高いからな」
ランドは、ドーガのたてがみを指でつまんだ。
「自分より下の相手には、そう簡単に気を許さない」
「そうなんですね」
「もちろん、“家族以外は”だけどな」
家族。
その言葉には、血の繋がりだけではない、特別な重さがあるように聞こえた。
「じゃあ、ウィルはその中でも優しいんですね」
アルスは、ウィルの背中に乗っている子どもへ視線を移した。
前の子どもがウィルの耳の後ろを撫でている。
「かもしれないな」
ランドが小さく笑った。
その横で、ドーガはふいと前を見たまま、何も言わない。
ただ、耳だけがわずかにこちらに向いていた。
そのとき――
高い空から、鋭い声が降ってきた。
「ランド!」
フィノの声だ。
振り向くと、カイに乗った彼女が、急降下するようにこちらへと向かってくる。
「飢狼〈きろう〉の群れだ!」
その叫びが、死の渓谷の乾いた風に乗って、一帯に響き渡った。




