第49話
国道は、思っていたよりも広かった。
荷馬車が二列になってもすれ違えそうな道幅。
両脇には低い草原が続き、ときどきぽつりぽつりと木立が現れる。
先頭には御者と護衛が乗った馬車。
そのあとに、荷物を満載した馬車が続き、一番うしろにリデルたちの乗る幌馬車が揺れながら進んでいた。
アルスは、その最後尾の横を歩いていた。
馬の歩く速さに合わせて歩くのは、思っていた以上に足にくる。
大人でも長く続ければ音を上げそうな歩調なのに、アルスはそれなりのペースでついていっていた。
それでも、息は少しずつ荒くなってきている。
「アルス。乗らないの?」
幌の隙間から顔を出したリデルが、心配そうに覗き込んだ。
「うん。ウィルも一人だと寂しいと思うから」
アルスはできるだけ平気な顔をして答える。
ウィルもアルスの顔を確認する数が増えた。
「……本当に大丈夫?」
「心配してくれてありがとう。二人とも」
アルスは笑って見せる。
「でも、僕も楽しいし大丈夫だよ」
そう口にしながら、胸の内では別のこともひっそり考えていた。
(――とはいえ、ちょっと辛くなってきたな)
肩で息をするたび、胸の奥がじんわりと重くなる。
それでも、足はまだ前に出る。このくらいで弱音を吐きたくはなかった。
隣を歩いていたウィルが、ちらりとアルスを見上げる。
まるで何かを考えているみたいに、黄色い瞳が細められた。
少しして、ウィルは何かを思いついたように小さく吠えると、するりとアルスの後ろ側に回り込んだ。
「え?」
アルスが振り返る間もなく――
「ちょ、ちょっと、ウィル!?」
灰色の大きな身体が、アルスの両脚のあいだを素早くくぐり抜けた。
思わずバランスを崩しかけたアルスの腰を、ウィルの背中が下からぐいっと支える。
そのまま、アルスの体は自然とウィルの背に乗り上げていた。
「わっ……」
目線がふっと高くなる。
ウィルは慎重に歩調を落としながら、前を向いたままトコトコ歩き出した。
「……ウィル、ありがとう」
アルスは慌てながらも、背中の上からそっと首元を撫でる。
ウィルは満足そうに一度だけ鼻を鳴らした。
「えー、いいなー」
幌の中からリデルの声が飛んでくる。
「私も子どもの時しか乗せてくれなかったのに」
すねたような声色に、アルスは思わず笑ってしまった。
「今は僕が子ども扱いってことかな」
「そういうこと!」
リデルがちょっとだけ楽しそうに笑う。
ウィルの背の上から見る景色は、さっきまでよりずっと遠くまで見渡せた。
馬車の列、その前を進む護衛たち、道の脇の草原を飛び跳ねる小さな鳥。
幌馬車の窓から、子どもたちが顔を出してこちらを見ている。
「お母さん、のってる……!」
「そうね。でも危ないからこっち来なさい」
小さな声で親に止められながらも、子どもたちは興味津々といった顔でウィルを見つめていた。
ウィルは、その視線をどこ吹く風といった様子で受け流しながら、一定の歩調で進んでいく。
アルスは、その背の上で揺られながら、少しずつ軽くなる足の負担と、変わらない胸のざわつきを一緒に感じていた。
◆
日が傾き始めたころ、前方から御者の声が響いた。
「そろそろ詰所だぞ!」
道の先に、いくつもの建物が見えてくる。
石と木で作られた塀に囲まれた、それなりの広さの施設。
中には兵の小屋や倉庫、厩、焚き火の跡がいくつも見える。
詰所というより、小さな村のようだった。
ここで一晩過ごし、明日の朝、ヘイメリア帯に進むのだと聞いている。
馬車が順番に塀の中へ入っていく。
ウィルもアルスを背に乗せたまま、その列に続いた。
中に入ると、あちこちから犬や獣の匂いがした。
ウィルと同じような大きさの狼や、別の獣たちも見える。
この辺りでは、こういった獣たちはそう珍しい存在ではないらしい。
「へえ……」
幌馬車から降りてきたリデルが、周囲を見渡して目を丸くした。
「あー、腰痛い」
腰に手を当てて伸びをする。
「リデルは座りっぱなしだったからね」
アルスはウィルの背から降りながら言った。
ウィルは大きく身震いして、背中に残った疲れを振り払うように毛を揺らす。
「ウィルも、ありがとう。僕のことを背負ってくれて」
アルスが首元を撫でると、ウィルは気持ちよさそうに目を細めた。
そこへ、先頭の馬車の御者が近づいてくる。
「今日はここを借りて、一晩明かす。明日の朝にまた出発だ」
「わかりました」
アルスとリデルが同時に頷く。
「ここではお金さえ払えば食事も用意してくれるらしい。といっても、中でぬくぬくとはいかないようだ」
「はい。教えてくれてありがとうございます」
御者は満足そうに頷き、馬たちの様子を見に戻っていった。
「じゃあ、ご飯もらいに行こうか。一応、リュマからたくさん持たされているから」
アルスが言うと、
「うん。わたしもお父さんに持たされた」
リデルが腰のポーチをぽんっと叩いた。
二人は詰所の建物の中に入り、簡単な煮込み料理とパンを少しだけ買い足した。
もたされた乾いた携帯食だけでは、どうしても味気ない。
食べ物を受け取ると、アルスたちは外へ出た。
詰所の中庭には、いくつも焚き火の跡がある。
その一つに火が入っていて、旅人たちが思い思いに輪になって座っていた。
「ここ、空いてる」
リデルが、まだ誰も座っていない焚き火の脇を指さす。
アルスたちはそこで腰を下ろし、包みを開いた。
湯気の立つ簡素なスープ。
リュマにもらった固いパンと、乾燥した肉。
「いただきます」
二人は焚き火の火を挟んで向かい合い、食べ始めた。
ウィルは少し離れたところに寝そべり、静かに火を眺めている。
時々リデルが余った肉を手に持って差し出すと、器用にそれをぱくりと受け取った。
火のぱちぱちという音と、人々の話し声。
遠くからは馬のいななきや、見慣れない鳥の鳴き声も聞こえる。
食べ終わるころには、空はすっかり暗くなっていた。
ふと気づくと、焚き火の向こう側に、小さな影が二つ増えていた。
まだ十歳にも満たないくらいの子どもが二人。
じっとウィルを見ている。
「……どうしたの?」
リデルが首をかしげると、子どもたちはもじもじと足先をいじった。
アルスは、そっと問いかける。
「触りたい?」
子どもたちは、同時にこくんと頷いた。
「ウィル。おいで」
アルスが呼ぶと、ウィルは素直に立ち上がり、焚き火の近くまで歩いてくる。
子どもたちは、最初は怖そうに一歩下がった。
それでも、ウィルが静かに座り込み、首をかしげて見せると、ようやく一人がそろそろと手を伸ばす。
毛先に指先が触れる。
少し冷たくて、もふもふしている。
何も起きないと分かると、もう片方の子どもも真似をするように、ウィルの背中に手を置いた。
しばらくすると、最初はおそるおそるだった手つきが、次第に大胆になっていく。
「ふふ、ウィルったら人形みたい」
リデルが、小声で笑った。
ウィルはされるがままになっている。
尻尾をぱたぱたと地面に打ち、くすぐったそうに目を細めていた。
そのうち、子どもたちの瞼が重そうになってきた。
焚き火の暖かさと、長旅の疲れもあいまっているのだろう。
一人が、ぽすんとウィルのお腹に頭を乗せた。
もう一人もつられるように、反対側に転がり込む。
ウィルのお腹が、二つの小さな枕になった。
穏やかな寝息が聞こえ始める。
「……寝ちゃったね」
リデルが、焚き火越しにささやく。
「うん」
アルスも、どこかくすぐったいような気持ちで頷いた。
少しして、子どもたちの親らしき人が近づいてきた。
最初、二人が狼のお腹を枕にして寝ているのを見て、目を丸くする。
口を開きかけたそのとき、アルスはそっと口の前に指を一本立てた。
「しー」
親たちは一瞬きょとんとしたが、すぐに小さく笑って頷いた。
ゆっくりと歩み寄り、子どもたちを起こさないよう慎重に抱き上げる。
アルスたちの方を見て、安堵と感謝の混じった表情で軽くお辞儀をした。
そして、眠った子どもたちを抱えたまま、静かに自分たちの寝床へ戻っていった。
ウィルは一度だけ大きく息を吐き、ぽすんとまた地面に横になる。
「私たちも寝ようか」
焚き火の火を見つめながら、リデルが言う。
「うん」
アルスは、背負っていた荷物を少し離れた場所に下ろし、敷物代わりに広げた。
その傍らに、ウィルが大きな体を丸めるようにして横たわる。
空を見上げると、見慣れない星の並びが、いつもより少し近く感じた。
焚き火の暖かさと、土の匂い。
ウィルの寝息と、リデルの穏やかな呼吸。
遠くの闇の向こうには、まだ見ぬヘイメリア帯が広がっている。
そのことを思うと、胸の奥がほんの少しだけきゅっとする。
けれど、今この瞬間だけは、その不安よりも、じわりとした安心感の方が勝っていた。
「おやすみ、ウィル。リデル」
アルスが小さくつぶやく。
「おやすみ……」
半分眠りかけの声が返ってきた。
アルスは目を閉じた。
焚き火の赤い光がまぶたの裏で揺れ、やがてゆっくりと遠のいていった。




