第44話
夜、僕はいつものように山王家の前に立っていた。インターフォンを鳴らそうと指を置くが、どういうわけかそれを押し込む力が出ない。
数秒の間、その体勢でいると、ふと声をかけられた。
「あの…どちら様ですか?」
驚きのあまり声のした方を振り返ると、そこには千佳がにやにやしながら立っていた。
「……千佳」
「あらあら、健人くんではないですか」
「分かってて言ったでしょ」
「だって健人くんの顔が面白かったから」
「どんな顔だったの?」
「めちゃくちゃ緊張した顔」
千佳がにやにやしながら鍵を取り出した。
「さあどうぞ、お入りください」
「……ありがとうございます」
千佳に促されるがままに、僕は家の中へと入った。そして、リビングに通されて、僕はソファーへと腰掛けた。
これから言おうとしていることをどう切り出そうか考えていると、千佳がキッチンの方から、「何か飲む〜?」と聞いてきた。
「紅茶ある?」
「あるよー」
「じゃあちょうだい」
「りょーかい」
そう言って千佳は、僕のいる方向とは逆を向き直した。
しばらくして、千佳が紅茶を2つ持ってリビングに戻ってきた。1つを僕の前に置いて、隣に座った。
そして千佳がテレビをつけた。特に見たいものがあるわけでもなさそうだった。
しばらく、2人でそのままでいた。紅茶からは湯気が立っていた。
「……ねえ」
千佳が痺れを切らすように言った。
「何か言いたいことあるんじゃないの?」
僕は少し笑った。
「バレてた?」
「さっきからずっとそわそわしてるじゃん」
「……ねえ。この前のこと、覚えてる?」
「一緒にお風呂入ったときのこと?」
「流石に覚えてるか」
「忘れるわけないじゃん」
そう言って千佳は拗ねたように頬を膨らせた。
「ごめんごめん。それでさ……あの時、答えられなかったことがあって」
「うん」
「今日は、それを言いに来た」
千佳が黙った。テレビの音だけがこの場に流れていた。。
しばらく千佳は何も言わなかった。ただ、こちらを見ていた。
続きを促すような目だった。僕は少し息を吸った。
「千佳さ、あの時こう言ったよね」
「うん」
「『もしアイドルを辞める日が来たら、一人の女性として見てくれる?』って」
千佳が小さく頷いた。僕は千佳の目を見た。
「その…僕の答えとしては……」
僕は少し、続きの言葉を言うのをためらった。
「アイドルを辞めるまでは、アイドルでいてね」
千佳はしばらく黙った。それから、泣きながら笑った。
「……意地悪」
そう言って、千佳が僕の胸をポカポカと叩いた。しばらくしたら、叩く手がだんだん止まった。
僕はその手をそっと握った。そしてそのまま、僕は千佳を抱きしめた。
千佳は何も言わなかった。ただ、僕の背中に手を回した。
しばらくそのままでいた。
「大好き」
千佳が小さな声で言った。
「知ってる」
「もう、素直じゃないんだから」
千佳が僕の胸をもう一度だけ軽く叩いて、肩に頭をもたれかけてきた。
繋いだ手は、そのままだった。部屋の中が静かだった。
そしてそのまま、千佳が話し始めた。
「ねえ、健人くん」
「ん?」
「私の昔の話、もっと聞く?」
「聞きたい。聞かせて」
「じゃあお風呂行く?」
「行かないよ。ここでいいよ」
僕がそう返すと千佳が少し笑った。
「小学生の頃からダンス習ってたんだ」
「そういえば、前スカウトした時に言ってたよね」
千佳が繋いだ手を少しだけ握った。
「うん。でも、お母さんが無理して月謝払ってくれてて」
「それは初耳だ」
「1DKで、自分の部屋もなかったけど、ダンスだけは続けさせてくれた」
千佳が繋いだ手を少し握り直した。
「だから絶対に上手くなろうって思ってた。お母さんに見せたかったから」
僕達はしばらく黙った。
「オーディション受けたのも知ってるよね」
「年齢で落ちたやつ?」
「そう。その時から諦めたつもりだったんだけど」
「諦めきれなかった」
「……よく分かるね」
「だって、あの時顔にめちゃくちゃ出てたから」
千佳が少し笑った。
「バレてたか」
千佳が繋いだ手を少し握り直した。
「就活もうまくいかなくて、しばらくぶらぶらしてた時、ふと思ったんだよね」
「何を?」
「私って、何がしたいんだろうって」
しばらく黙った。
「ダンスは好きだった。人前に立つのも好きだった。でも諦めたはずだった。なのに、アイドルの番組見るたびに、なんか胸が痛くて。悔しいとか、羨ましいとかじゃなくて。ただ、自分がそこにいない気がして」
僕は何も言わなかった。
「……26になっても、ずっと」
しばらく沈黙が続いた。
「だからあの夜、健人くんに声かけたんだと思う」
「どういうこと?」
「最初に気づいた時、本当にびっくりしたんだよね。Emmaの乃木健人くんじゃんって」
「それで声かけたの?」
「うん。推しだったし」
千佳が少し照れたように笑った。
「でも、それだけじゃなかった気がする」
「どういうこと?」
「なんとなく、この人なら何かが変わるかもって。根拠なんてなかったけど」
僕は少し笑った。
「勘が当たってたね」
「当たったね」
千佳も笑った。
そして、千佳が肩に頭をもたれかけてきた。繋いだ手はそのままだった。
「ねえ、もう遅いし今日泊まってく?」
「え、そんな…悪いよ」
***
翌朝、結局僕は千佳の家に泊まっていた。
カーテンの隙間から差し込む光が、白く鋭い。ゆっくりと意識が戻ってくる。
隣に、千佳がいた。髪をぐちゃぐちゃにしたまま、こちらに背を向けて、小さく息をしていた。
起こさないように、僕はしばらくそのままでいた。
やがて千佳が寝返りを打った。
目が開いた。僕の顔を見て、一瞬きょとんとした。
それから何かを思い出したように、ゆっくりと笑った。
「……おはよ」
寝ぼけた声だった。
「おはよう」
千佳がゆっくり起き上がって、髪をひとつにまとめた。それからベッドを出て、エプロンを手に取りながらキッチンへ向かった。
そしてしばらくして、包丁の音が聞こえてきた。それと、鼻をくすぐる香ばしいトーストの匂い。
「あ、起きた?」
エプロン姿の千佳が、ひょこっと顔を出した。昨夜の涙の痕なんて微塵も感じさせない、いつもの悪戯っぽい笑顔だ。
笑った顔は、昨夜と同じ顔のはずなのに、なぜかずっと遠くまで見えた。
「おはよう。……なんか、ごめん。結局甘えちゃって」
「いいよ。その代わり、しっかり食べて。アイドルのプロデューサー様は体が資本でしょ?」
テーブルに並べられたのは、ごく普通の目玉焼きとトースト、それにサラダ。
向かい合って座り、箸を動かす。昨夜、彼女の脆い部分に触れたせいか、今の何気ない食事の風景が、ひどく特別で、壊れやすいものに思えた。
「ねえ、健人くん」
千佳がコーヒーカップを両手で包みながら、ふと言った。
「私、決めたよ。次のライブ、お母さん呼ぶことにする」
「……そう。それがいいと思う」
「うん。ダンスを続けさせてくれたお礼、まだステージの上で言えてなかったから」
彼女は窓の外、遠くの空を見つめる。そこにはもう、昨夜泣いていた千佳の姿はなかった。
「楽しみにしてる。……あ、でも」
僕はトーストを飲み込み、彼女をまっすぐ見据えた。
「昨日言ったこと、忘れないでね。アイドルを『辞める日』までは、僕も仕事として君たちを追い込むから。覚悟してて」
千佳は一瞬驚いたように目を見開き、それから、今日一番のとびきり不敵な笑みを浮かべた。
「望むところだよ、鬼プロデューサー乃木健人さん」




