第五章 双極輪廻のレクイエム / 序幕 「眼下に広がる世界」 二
リアスが去ってからしばらくして、ビセンテは机の上を綺麗に片付けてから部屋を出た。そして、窓から注がれる陽光で明るく照らされた長い廊下をゆっくり進む。
ビセンテのいる建物は古い石造りで、その年季を感じさせるようにところどころが崩れており、壁面には緑の苔が大量にむしていた。
この建物はもう何十年も前に無人となってからずっと放置されていたのだが、ビセンテはこの廃墟感をたまらなく気に入り、数年前から住み着いていたのだ。
廊下の途中に大きく外壁が崩れた箇所があり、ビセンテはそこから建物の外に出る。
この壁を修繕する気はなかった。廃墟感を損なわないようにという意図もあったが、単純に出入りが便利だという理由も大きかった。
ビセンテは空から強く降り注ぐ陽光に目を細めながら、雑草の生い茂る小さな庭園を抜け、敷地の境界線に申し訳程度に組まれた高さ三十センチほどのレンガの壁を跨ぐ。
吹き抜ける風になびく三つ編みの髪の毛を優しく抑えるビセンテの視界には草原が広がり、遠目には平屋で石造りの建物が密集した集落が見えた。
その集落から更に奥にある丘には、高さが数十メートルはあろうかと思われる巨大な黒の石柱がそびえている。
ビセンテは、草原の上に乱雑かつ歯抜けに置かれた、道というには程遠い石畳の上を通って、黒い石柱がある丘に向かって歩き始めた。
「あっ!ビセンテだ!」
集落を通り抜ける途中で、一人の男の子がビセンテを指差して嬉しそうに声を上げる。それからすぐにビセンテの下に駆け寄ってきた。
「ん?ああ、マルシオか。なんでここにいるんだ?今は畑の時間だろうに」
「父さんに言われてエラスンと飲み水を取りに戻ってきたんだよ」
「そうか。てっきりまたサボっているのかと思ったよ」
「えー!なんだよそれ。ちゃんとやってるってのにその言い草はないよ」
「ははは、すまんな」
ビセンテは、小柄な自分よりも更に小さなマルシオに向かって慈しむような笑みを浮かべると、不貞腐れるマルシオの頭を優しく撫でた。
「やめろって。もうそんな子供じゃないんだからさ。・・・それよりもさ、ビセンテ」
「なんだ?」
「父さんが言っていたけど、大きな戦いが始まるのか?」
その言葉にビセンテは少し寂しそうな顔をして押し黙る。それからマルシオの目を真っ直ぐに見つめてゆっくりと頷いた。
「そっか」
「安心しろ。これまで通り、お前たちに危険は及ばないようにする」
「・・・ビセンテ、俺ももう十一歳になる。守られるだけじゃなくて何か手伝いたいよ」
真剣な表情をするマルシオを見てビセンテはクスリと笑い、今度は先程よりも雑にマルシオの頭をクシャクシャと撫でた。
「そういうことは私より強くなってから言うんだな」
「そんなの無理だよ!星天の力を持つビセンテに敵うわけないじゃないか!」
マルシオは怒鳴りながら、頭に置かれたビセンテの手を強く払い除ける。
「ふふ、マルシオ。そういうところがまだ子供だと言っているんだ。身体も心もまだ足りない。精進するんだな」
「なんだよそれ、意味分かんないよ!」
マルシオは口を尖らせてビセンテを睨みつけた。
ビセンテは払われた手を軽くさすると、笑みを崩すことなくマルシオの肩にそっとその手を乗せる。
「そう怒るな。お前にはお前の成すべきことがあるだろ?今はそれに全力を注げばいいんだ」
「えっ?俺の成すべきことって?」
怪訝そうな、それでいて少し期待するような表情で首を傾げるマルシオの肩を、ビセンテが頷きながらポンポンと優しく叩いた。
「畑だ」
「は?」
ビセンテの皮肉的な言葉に面食らったマルシオの顔が次第に紅潮していく。その様子を見ながらビセンテは肩を揺らしながら笑った。
「ちぇ、いつまでも子供扱いしてさ!もういいよ」
マルシオはふくめっ面をしながら再びビセンテの手を払い除け、ベーッと舌を出してから飲み水を取りに行くために家の方に駆けていく。少し距離が離れてからマルシオが何かを思い出したかのように再びビセンテの方に顔を向けた。
「ビセンテ!そういえば父さんが後で野菜を持っていくって言ってたけど帰りは遅いのか!?」
「毎度悪いな。多分遅くなるだろうから、いつものところに置いといてくれ」
「りょーかい!伝えとくよ。またなビセンテ!」
手を振って再び背を向けるマルシオを見つめながら、ビセンテは手を振って笑みを送る。
それからビセンテは再び黒い石柱のある丘を目指して歩き始めた。
十分程度歩き、ビセンテは黒い石柱の足元に到着する。
石柱は大地に立っているわけではなく地面に深くめりこんでおり、横幅も十数メートル程あって、目の前まで迫ると人智を超えた強大な壁のように強烈な威圧感を放っていた。
また、石柱の表面には、青白く細い線で幾何学的な模様がびっしりと描かれており、その数多ある青白い線の上を様々な系統の魔力が発光しながら駆け巡っている。ビセンテにとっては、その超常的かつ神秘的な光景は何度見ても息を呑む美しさだった。
ビセンテはその光をひとしきり眺めてから、黒い石柱に触れられる距離まで接近すると、自分の目線ほどの高さに刻まれた紋様に向かって手をかざす。
紋様が輝くとそれに呼応するかのようにビセンテの額に黒い星紋が浮かび上がった。
「ラグランジュよ、軟体魔孔をお前の核まで繋いでおくれ」
フワッと風が巻き起こると同時に、ラグランジュと呼んだ黒い石柱に高さ二メートルほどの光の縦線が刻まれる。
やがて目の前の岩肌は光の縦線を境に軟体生物のようにうねりながら左右に分かれ、円筒状の通路を造り出した。
続いて淡い光を放つ光球がビセンテの体を包み込み、フワッとその体を浮かび上がらせる。
ビセンテを乗せた光球はゆっくりと加速しながら、今ほど出来た円筒状の通路に吸い込まれるように入っていった。




