02 田園都市ユートピア
「おはよう……」
僕のぼんやりとした声に、兄はキッチンで何やら料理をしながら言った。
「おはよう! 朝食、もうすぐできるから!」
壁掛けの時計が午前八時を過ぎていた。
「あおちゃん、おはよう」
おばあちゃんがソファで長閑にくつろいでいた。膝上のテーブルには串団子と湯呑み茶碗があった。そのなんてことのない光景に、僕はなんだかいつも通りの生活に戻ったように感じられた。すんと甘い香りが鼻に触れ、あたりの空気を深く吸った。
兄が洗い物をしながら言った。
「昨日、キッチン見たら調理器具と調味料がひと通り揃っててさ。皿もあったから助かったよ!」
洗い物を終えた兄は、木製のおぼんを僕の前に運んだ。何が運ばれて来たのか見下ろすと、細長い皿の上には厚焼き玉子が盛り付けられていた。厚焼き玉子はひと口サイズに切りわけられ、それらの肌から湯気が立っている。口の中では条件反射的に唾液が溜まり始め、僕は抑えきれず両手を合わせて言った。
「いただきます!」
兄がすかさず返した。
「召し上がれ!」
箸で厚焼き玉子をひとつ口へ運んだ。ほくほくとした熱、ほどよい弾力、砂糖の甘み。噛み締めるたびに卵のまろやかさが広がり、それから薄口の醤油と鰹節の旨味があとを引いた。
「どうだ? 美味いか?」
兄が感想を待ち侘びていた。
「美味しい!」
僕の笑顔を見て、兄は控えめにガッツポーズをした。コップの水で口直し、厚焼き玉子が腹の中へみるみるうちに入っていった。僕がごちそうさまですと口にすると、
「おそまつさまです!」
と兄が満足げに言った。
「失礼します」
治療室の外から声がして、スライドドアが開いた。医師と看護師が立っていた。彼らはカルテを確認して、神妙な眼差しで僕の体を診察し、午前中にも退院できると告げた。
兄はキッチンの片付けを終え、僕は家族が持って来てくれた服に着替え、おばあちゃんと部屋の掃除をした。廊下で医師にお礼を言い、僕たちは病院をあとにした。
おばあちゃんは用事があると言って帰り、兄は最近買った車で色々と案内してくれると言うので、僕はそれに甘んじることにした。
◆
オープンカーのオーディオからラジオが流れていた。液晶画面には“AM 810kHz AFN Tokyo(横田基地)”とある。
兄は片手でハンドルを操作しながら洋楽を口ずさんでいた。僕はというと、助手席から見える景色に心を躍らせた。
昨夜、病院から見えた建物の多くは二十階から三十階を超えるタワーマンションだった。度々、マンションの自動ドア越しに綺麗なエントランスが見えた。
時々、広々とした緑地の公園があり、親子や若い男女が遊んでいた。真新しいアスファルトの道路に沿って、大きな桜の木が植えられている。桜の木には無数の青葉があり、そよ風に揺られて葉擦れの音が聞こえていた。小さな風力と太陽光発電機の取り付けられた街灯が等間隔にあり、電柱や電線はなく、圧迫感はないもののそれでも青い空が少し狭いように感じられた。
「今、走ってる道路やそこの歩道にも床圧電システムが採用されているらしいぞ!」
兄が街の造りを教えてくれたが、正直、何を言っているのかわからなかった。そんなことよりも都市の街並みを見ていて、時折、すれ違う二人一組で歩く軽装備の人型ロボットが気になっていた。ロボットが道端のゴミを拾い、指定された近くのゴミ箱へ捨てている。ルンバのような小さな芝刈機がマンションや公園の芝生を刈っていた。
「あれらは総じてピンキーって名前だ!」
兄が嬉しそうに言った。
「俺の友だちが作ったんだぜ⁉︎ 今や、地球上にあるどの施設にも配備されているらしい!」
空飛ぶ車もなければ、街中に異星人が歩いているわけでもない。けれど、二足歩行の独立した人型ロボットが街を警備しているなんて、それだけでなんだかまるで近未来の都市に迷い込んでしまったような心持ちになった。そんな僕の横顔を見てか、兄が街の名前を教えてくれた。
都市の正式名称は、第二施設関東支部───この都市へ住居を移した市民のあいだでは、正式名称では呼び辛いということで、第二の奥多摩、未来都市、田園都市ユートピアと勝手に呼び名を変えていったそうだ。兄はこの都市を繰り返し田園都市ユートピアと口にしていたので、僕もそう呼ぶことにした。
「葵! あの中央の高い建物が見えるか⁉︎」
兄が横目で見ながら言った。僕は遠くの大きな壁に囲われた建造物を目にした。
「あの中心地に見える防壁に守られているのが第二施設関東支部の本部だよ! スカイツリーより高いんだぜ⁉︎ ───俺、あそこにある検問所で働いてんの! すごいだろ⁉︎」
と兄が誇らしげに言った。
「最近、田園都市ユートピアのチラシが配られるようになったんだ! これやるよ!」
兄がチラシを渡してくれた。僕は向かい風に煽られながらもそれを眺めた。チラシには田園都市ユートピアの地図が記されていた。
しばらくして、兄が車を路肩に停めて言った。
「ここ、葵が通う中高一貫校」
「え?」
僕は鉄格子の向こうに学校を見た。普通の中学校というよりは、テレビで見た自衛隊や警察の訓練学校みたいな場所だった。
「普通科と訓練科のどちらにするか、中学から選ばないといけないんだ。高校から進級するときも普通科か訓練科を選び直せて、高校の訓練科はお金が貰えたっけな。この都市には他にも高校があるから、葵の行きたい進路に進むといい。高校に上がるときに編入学したっていいし」
「葉兄、この学校の普通科と訓練科の違いって何?」
「普通科は今まで通りの学校生活って感じだな。普通科でも基礎体力の向上を図るための科目があったはずだ。普通科は中学校も高校も部活動が自由。訓練科はやめとけ。より実戦的な体術や基礎体力の訓練、特殊な機器の操作や射撃とか。実務や法律の勉強もあるな」
兄が僕の頭をぽんぽんと軽く叩いて言った。
「葵は普通科にしとけ? 俺がなんとかするから」
兄は車のアクセルを踏んで続けた。
「葵宛に学校の書類が来てるから、帰ったらおばあちゃんと一緒に見ようぜ!」
腑に落ちない現状に苛立ちを覚えながらも、僕は仕方のないことであると自分に言い聞かせるようにして言った。
「もとのいた学校には戻れないんだ……」
「そうなるな」
兄が励ますように言った。
「ひと通り回ったし、飯でも食いに行くか⁉︎」
僕はそのひと言を待っていましたと言わんばかりに相槌を打った。
「行きたい‼︎」
中央の防壁と似たような場所で、兄が検問所を通ると口にした。僕はハラハラとして心配ながら、兄と検問所の警備員とのやり取りを助手席から見守った。警備員の着ていたハーネスには警棒と拳銃が備えられていた。警備員が身分証の提示を促した。兄は手慣れたようにお疲れ様ですと言って身分証をかざした。警備員は身分証にある顔写真と兄の顔を交互に照らし合わせ、よしと口にして通ってもいいぞとジェスチャーし、車は何事もなく通り抜けられたのだった。
防壁の幅はだいたい一キロメートルあり、高速道路のトンネルにあるような明るいライトが奥へ続いていて、僕は連続した光の列を眺めていた。兄は防壁を抜けたあとも一般道とは違い、職員専用道路を使った。幹線道路は上りと下りで合計十四面もあり、十面が一般道として使われ、職員専用道路が右端に二面、中央の一般道をまたいで反対側の左端に二面あった。防壁を抜けた地域は建設工事が進んでいて、どこも白い仕切りで囲われていた。一般道にはクレーン車やミキサー車が行き交っていた。
兄が言った。
「パーキングエリアでラーメンでも食うか⁉︎」
「ラーメン!」
僕は嬉しくて満面の笑みを浮かべた。
兄は、休日になると地方の美味しいご飯を食べに一人旅をしていた。兄がこの都市へ来てから一週間あまり、行き付けの店が何軒かできていたのだ。
「醤油ラーメンなんだけどな! 国道十六号横浜横須賀道路にあるYASMOCCA横須賀店、そこの醤油ラーメンと同じ味がするんだわ!」
と兄も満面な笑みを浮かべた。
◆
午前中の兄とは見間違えるほどに激怒していた。理由は単純である。父さんが関与していたからだ。僕宛に届いていた転校先の学校書類にはこう記されていた。
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本校は、日向 葵 様の
訓練科 中等部三年 へのご入学を許可いたします。
今後の予定は、以下の通りになります。
登校日時:七月二十一日、午前八時十五分。
当日は一度、職員室にお越しください。
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見ての通り、僕の進路先が決まっていたのだ。しかも、今、数年ぶりに父さんから電話があった。彼の第一声が僕の携帯から聞こえた。
「葵の進路は俺が書いて送ったから! ごめんなあ」
兄が僕の携帯を奪い取って激昂した。
「このクソ親父が! てめぇ、今どこで何してんだ!」
「おお、葉か? 元気そうでなにより!」
と携帯から父さんの陽気な声が漏れていた。
しばらくのあいだ、兄がガミガミと暴言を吐き続けた。打って変わって、父さんの呑気な返答が続いた。
父、日向 一幸は日本に僕らを残し、一〇年前に海外へ飛んだ。僕だけは父さんがどんな仕事をしているのか知らなかった。兄とおばあちゃんは彼の仕事について頑なに教えてくれなかったので、僕の中では海外の外資系で働いていることになっていた。
母が事故で亡くなったとき、父さんは葬儀に顔も出さなかった。兄だけは手紙や電話さえもよこさない父さんに対して恨み辛みと根に持っているようだった。そのことがあったにも関わらず、兄の大学費用も父さんが工面していたし、未だに、僕とおばあちゃんの生活費を出してくれていた。なので、僕としては、まだ彼が父親としての威厳を保っているように思えた。
だから、進路先を書いて出してしまったのなら仕方がないとはならなかった。僕は運動神経や成績がずば抜けて良いわけでもなく、将来、別にやりたいこともなかったし、できれば、転校先は普通科に行こうと思っていた。中学三年生からでは、部活動もろくにできないだろうし、高校に上がったらアルバイトをしようくらいにしか思っていなかったのだ。
「七月二十一日って、明日じゃねえか!」
また、兄が大声で怒鳴った。
「葵、俺、明日仕事休めないからおばあちゃんと一緒に───」
「いいよ。もう子どもじゃないし、一人で行くよ」
僕の放った言葉におばあちゃんが少し寂しそうな表情を浮かべた。僕は兄とおばあちゃんの気遣いをむげにしたのだ。それでもたかだか、中学校の転校で騒ぐことなんてない。そう思うことで気持ちが少し軽くなった。
「訓練科の先生な、俺の元教え子なんだわ。葵、あいつによろしく言っといてくれ───」
父さんの声が携帯からぷつんと消えた。
「クソ親父! 話終わってねえぞ! ───ックソ! あいつ切りやがった!」
兄は僕を見た。
「ごめんな、葵」
「いいよ、別に」
と僕は突き放すように言い捨て、自分の部屋へ戻った。ベランダに出て、外の空気を吸うことにした。
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転送開始可能日まで、───残り353日。
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ここまで読んでいただき、誠にありがとうございます。
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