03 ジャック
ジリジリと鳴いている蝉の声がこの状況を笑っているように思えてならなかった。教会の中庭にある花壇には、多くの花々が咲いている。色とりどりのそれらがそよ風に揺られている姿は、僕の緊張をほぐしてくれているように感じた。
本当に伝えたいこと、その気持ちに気付かなければ良かったと、後悔している自分に嫌気が差す。気持ちを伝えられないもどかしさで、頭がどうにかなりそうだった。この苦しみから解放されたい、それが身勝手なことは百も承知だった。和子がこちらを見つめている。僕が話し始めるのを待ってくれているのだ。
「今度の花火大会……和子ちゃんと一緒に行きたい……」
この自信なさげな声に和子がクスクスと微笑んだ。
「かしこまってどうしたの? 伝えたかったことはそれ?」
僕は首筋をかきながら顔を下に向けた。
「言いたいことがあるから身構えていたけど、何かと思った」
和子が何か思い悩んだあと言った。
「───私、浴衣を着て行こうかな」
「それって!」
和子が照れくさそうに、にっこりと笑顔を浮かべた。
「花火大会、一緒に行こっ!」
僕は声にもならず、心の底から湧き上がる歓喜を噛み締めてガッツポーズしていた。受け止めてくれた彼女に対する気持ちが、より大きくなるのをひしひしと感じてすぐ、和子の笑顔が遠のいていった。どんなに腕を伸ばしてみても届かない。その光景が小さな点になったとき、───ようやく気付いた。この会話は、和子が最初に学校を休んだ前日の出来事であることを。
これは、夢だ。
◆
「日向 葵くん、起きましたか?」
葵は真っ白な天井に手を伸ばしていた。ライトの明かりがやけに眩しく、夢うつつに軽度の頭痛が混濁し、直近の記憶が思い出せずにいた。葵は上体を起こして、声のした方へ顔を向けた。ベッドの向かいにソファがある。そこには黒いスーツを着た男が座っていた。男は立ち上がり、近くにあった腰掛け椅子を手に取って、葵の前に置いて座った。
「その様子を見て確証に変わりました……」
男は言った。
「すまない、こちらの話です。はじめまして、私の名前はジャックと言います。日向くんに幾つか質問をします。いいですね?」
葵は状況を把握し切れていなかったが頷いた。
「名前は日向 葵。歳は十五歳。中学三年生、ここまでは間違いないですね?」
「はい……」
「では、次の質問です。一週間前、日向くんは教会にある中庭の手前で倒れていたところを我々が───」
「和子ちゃん! 和子ちゃんは⁉︎」
突然、葵が叫んだ。自分がしでかした愚かな行いを走馬灯のように思い出したのだった。葵の呼吸が荒くなり、額に汗がにじみ出る。ジャックはそれを見かねて少年の手に触れた。
「落ち着きなさい」
ジャックはなだめるようにして触れていた手に力を込めた。二人の手のあいだに緑色の光が放たれる。すると、葵の状態が次第に安定し、落ち着きを取り戻していった。ジャックは葵の手に触れたまま言った。
「私の記憶を見せたい」
葵の頭の中に映像が流れ始めた。それはいつかしか見た真っ赤な映像の感覚に近い。だが、耳鳴りも頭痛もなかった。
車の助手席から見える誰かの視界、その視界に映る景色に葵は見に覚えがあった。いつも和子と一緒に通っていた帰り道である。車が止まり、視界が車から降りた。人だかりを避けて歩き、立ち入り禁止のテープ前に立っていた警察官と何かを話したあと、テープをくぐり抜け、教会の正門の前で立ち止まる。視界は教会を見上げたあと、中庭の方へ歩いて行った。中庭の手前には誰かが倒れていた痕跡がある。その痕跡に沿って、白いチョークと小さな印が残されていた。中庭の中央には、白い防護服を着た人々が何か作業をしている。そこまで歩いて行くとベンチの前で和子が倒れていた。和子の肌は青ざめ、首には誰かに締め付けられたような紫色の手形がある。和子の隣には果物ナイフがあった。果物ナイフには、一滴の血も付着していない───。
「そこまでが私の記憶です」
ピリッと静電気のようなものが走って、葵はジャックに焦点を合わせた。
「和子ちゃんは……ぼ、僕がやりました」
葵は涙を流した。先ほどの激情はなく、和子を殺めてしまったという事実が、どんな言葉にもたとえようのないものを感じさせていた。ジャックは触れていた手からその気持ちを感じ取り、ため息をついた。
「───素直なことはいいことだが、それは間違いというのが我々の見解です」
ジャックは続けた。
「現段階で詳しいことは言えませんが、少なくとも、私は日向くんが操られていたのではないかと考えています。我々としてもこのことは、一度、保留することに決めました」
葵は理解できずにいた。
「僕が操られていた?」
「園田 和子、彼女の両目を見ましたか?」
「見ました……」
「あの目はこの世界のものではありません。他の世界の技術です」
ジャックは見せる映像の順番を間違えたことに気付いて言った。
「これを先に見せるべきでした。日向くんが眠っているあいだ、人類史としては重要な分岐点を迎えたのです」
葵の頭の中に国際連合総会緊急特別会の映像が流れ始める。少年にとって、それは情報量が過多であった。プシューと音を立てて、葵の頭から煙が上がる。
「こ、これって、……ジャックさんですか?」
「そうです」
「もしかして、ジャックさんはエイリアンなんですか?」
「人類からすれば、そうなりますね」
葵はふらふらとしてベッドに倒れた。拍子に、二人の手が離れる。少しすると、葵の腹から虫の鳴き声が聞こえてきた。
「お腹が空いたでしょう」
ジャックは椅子から立ち上がり、
「少し待ちなさい」
と言って、キッチンへ立った。カチャカチャと音を立て、冷蔵庫から食材を取り出して、小さな鍋の中に入れている。十五分ほど経つと、
「消化に良いものを作りました。口に合うと良いが───」
葵の前に木面のおぼんがそっと置かれた。その上には小さな鍋、スプーン、水の入ったコップがあった。鍋の蓋にある小さな穴から湯気が漏れている。ジャックが鍋の蓋を開けると、こもった湯気に併せて鰹節の香りがほんのりと立ちのぼった。半透明の汁に浸った白米と白身魚のフレーク、ふんわりと浮かぶ半熟の黄身、それらの上に小ネギとゴマがまぶしてある。それは、お粥であった。
葵はスプーンに手を伸ばした。それを見て、ジャックが椅子に座る。葵は小さな鍋の中にあった黄身、白米と白身魚を上手にすくい、汁に絡めてフーフーと息を吹きかけた。熱を冷ましたあと、口に運ぶ。途端に口の中へ広がるほどよい熱、味覚に染み渡る鰹節の旨味、薄味のはずが、一週間何も口にしていない少年の身体には、あまりにも刺激的であった。
「う、美味い!……です」
葵はジャックの顔色を伺った。ジャックは満足げに頷く。
「私がこの日本へ久しぶりに訪れたとき、この国は江戸時代でした。そこで出会った女性が私に作ってくれたのです。それが卵の入ったお粥でした」
「……ありがとうございます」
葵は軽くお辞儀をした。
ジャックは部屋の窓に指差して言った。
「日向くん、窓の外を見てみなさい」
葵は窓の向こうを見る。それまで気付かなかったが、そこには見たこともない大都市が広がっていた。
「こ、ここは?」
「第二施設 関東支部です。皆さんは田園都市ユートピアと呼ぶそうですが、───そのお粥を食べたら、この部屋に日向くんのご家族を呼びましょう」
「家族、……近くにいるんですか?」
「います。今、君が見ている都市で暮らし始めたと言うべきか」
「暮らし始めた?」
「説明はあとにしましょう。私は用があるから少し席を外します」
とジャックは言い残して部屋を出て行った。その背中を見送ったあと、葵はお粥を食べながら窓に顔を向けた。静寂の中で壁掛け時計の音だけが響いている。
「花火大会、一緒に行こっ!」
ふと、葵は和子の笑顔を思い出した。
せき止めていたものが崩れてゆき、少年の頬に涙がぽろぽろと流れて、小さな鍋の中へ入っていった。
あおちゃん、ごめんね───。
和子の首を絞めている光景がまがまがしく思い出された。葵の両手は震え、胸のあたりがズキズキとして痛み、何かに絞めつけられているような感覚がある。グチャグチャな感情は静かに、葵を孤独の淵へ追いやった。部屋に一人、少年のすすり泣く声が響いた。




