01 マクスウェルとラプラス
平年よりも気温が高く、通り雨が降ったこともあり、むせ返るような暑さで頭が朦朧としていた。息遣いは荒く、にじみ出る汗が地面へ滴り落ちている。教会の中庭へ吹き抜けてゆくそよ風に心地良さを感じることもなく、どこからか聞こえてくる蝉の声でさえもこのときだけは何も思わなかった。
どうしてこんなことになってしまったのか考える余裕もなく、ただひたすら己の両腕に力を込めた。僕は、和子の体にまたがり、両手で彼女の首を握り潰していたのだ。
◆
登校時刻、今日も和子が待ち合わせの時間になっても現れることはなかった。彼女が学校を休み始めてから二日も経過していた。先生方や彼女のご両親は体調不良ということを仰っていたけど、それならそれで僕にひと言でも連絡をくれてもいいのにと、この二日間、ずっとそう思っていた。
彼女の家は教会に隣接する白い家だった。僕の家が近いので先生から宿題とチラシを持って行くように頼まれた。もともと、おばあちゃんからお見舞いのことを頼まれていたし、僕も心底心配していたので、ついでに持って行くことを快く引き受けた。
放課後、僕は園田と表札のある白い家の前で立ち止まり、思い直して教会へ歩いて向かった。直感というよりもたしかな確信があり、いつも二人で過ごしていた教会の中庭に和子が居ると思った。教会の大きな正門の下から中庭が見える。通り雨も過ぎて、まばらな雲の合間から陽の光が中庭の庭園に差し込んでいた。ひまわりの花が咲いていて、他にも名前の知らない花々があった。案の定、庭園のベンチに和子が座っていた。教会の中庭は一般市民にも公開されていたが、珍しく、その日は彼女しかいなかった。
腹いせではないが、悪戯くらいの軽い気持ちで、彼女のそばへ歩み寄って驚かせてやろうと思った。だが、あたかも来ることを知っていたかのように、和子が僕の方へ顔を向けて嬉しそうに言った。
「あおちゃん⁉︎ 待ってたよ!」
彼女の両目には包帯が巻かれていた。口元にはいつもの健気な笑みがある。
「和子ちゃ……ん……」
僕はその異様な光景に動揺して立ち止まった。和子の表情から笑みが消え、私の隣に座ってほしいと言ってさらに続けた。
「目を見てほしいの」
僕は言われた通りに和子のもとへ歩いて行って、リュックサックを地面に置いたあと、彼女の隣に座った。和子の包帯姿を間近で見て、嫌な予感がした。束の間、和子が包帯の結び目をほどき始め、ほどなくしてさらさらと白い布が落ちていった。
「きっと、神さまは私の過ちをお許しになってくれます」
包帯で隠されていた和子の両目があらわになった。彼女の目は、この世の類いのものではなかった。一片の光もなく、どこまでも黒々としていて、二つの深淵を眼前にしているようだった。その深淵に引き込まれそうになってようやく、背筋が凍て付くような恐れにも似た何かを感じて、ハッとして我に返り、僕は生唾を飲み込んだ。
「あおちゃん、両手を貸して」
和子は僕の両手を取って、彼女は自らの細くしなやかな首へ包み込むようにして置いた。
「最後のお願いを聞いて」
和子の目尻には涙が溜まっている。僕は呆気に取られながらもこくりと頷いた。庭園に咲いた花々の上には、雨水が無数に散りばめられている。カーテンのように差し込んだ陽の光が、その幾つもの雨水に反射してキラキラと輝いているのが和子の向こうに見えた。またそよ風が吹き抜けて、花先に溜まった雨水が雫となってぽつらぽつらと地面へ落ちた。和子の頬に涙が流れ落ち、彼女は途切れ途切れに言った。
「私は、……あおちゃんのことを……殺さなければいけない。……あおちゃんは、……私のことを……殺さなければいけない───」
突然、僕は酷い吐き気に襲われた。唐突のことで何が起きたのか理解できずにいた。腹部に激痛が走り、俯くと脇腹に果物ナイフが刺さっていた。そのグリップには、和子の小柄な手が握っていた。
「わ……和子、ちゃん?」
彼女の名前を苦し紛れに発したあと、僕は和子の顔を見た。和子は、両目を閉じていた。
「強く握って! 早く!」
彼女の大声に僕は驚いて両腕に力を込めた。自分の両手を和子の首から必死に引き払おうとした。そのとき、引いた力が勢い余って和子をベンチから倒れ込ませ、僕は仰向けになった彼女の腹の上に乗るようにしてまたがった。
依然として、和子の右手は果物ナイフのグリップを離そうとはしていなかった。果物ナイフの刃が段々と僕の脇腹に突き刺さっていった。腹部の激痛に比例して、僕の伸ばした両腕の力が増していく。彼女の表情に正気が薄れゆくのを気に留めながら、自分の着ているワイシャツが赤黒く染まっていくのが視界の端に映った。
和子の歪な両目から涙が流れている。彼女は唇を震わせ、かすれた声で僕の名前を口にしているのがわかった。
あおちゃん、ごめんね───。
和子の右手が果物ナイフのグリップから離れた。
それでもしばらく、一心不乱に、僕は彼女の首を絞め続けた。どのくらいの時間が経ったのか、ふと、気が付いたときには、そこには和子の亡き骸があった。
僕は、和子の横に倒れ込んだ。両手は震え、彼女の首には紫色の手形が残っていた。自身の体は冷え切り、腹部の痛みは消え、正常に呼吸ができず、抑圧された感情が涙となって溢れ始めた。目の前に想いを告げられずにいた大切な人が横たわっている。自分の愚かな行いが、それがたとえ彼女の願いだったとしても。
「ァア゛アア゛……ァア゛……」
僕は、渇いた呻き声を上げていた。鼻や口から体液がこぼれ落ち、頭が真っ白になりかけて、
ギィ────ン!
と甲高い耳鳴りに襲われた。
頭が割れそうなほどの激しい痛みに耐えきれず、前屈みになって目を閉じた。頭の中で何かが動いている。得体の知れない映像が流れ始めた。赤い何か───人?───は何かを叫んでいる。その人型の何かは赤い膜のようなものに覆われ、無数の手が彼の顔や肩、腕を掴んでいる。
彼は、苦悶の表情を浮かべて叫んだ。
「
あらゆる世界! あらゆる文明! あらゆる存在へ告げる!
備えよ! これは創造主との戦いだ!
我々の奇跡を君たちに残そう!
皆で協力してほしい! みな……で……
」
彼の声は、日本語で話していないにも関わらず、その言語が日本語に聞こえてくる。映像はそこで途切れ、僕は嘔吐した。胃の中が空になり、地面には胃液と固形物が吐き出されていた。徐々に頭の中で数字が浮かび始めた。
120.63.9801.99.0
その数字列は、赤くノイズのように脳裏へジリジリと焼き付いていった。ピンと張った糸が切れるようにして、僕はその場に倒れ込んだ。自分の右手が和子の手に触れるのがわずかに見えた。それだけで安堵し、狭まってゆく視界が暗闇に包まれるのを、僕は静かに見届けた。
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転送開始可能日まで、───残り362日。
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