1 マクスウェルとラプラス
この物語は、架空のフィクションです。
十五歳の夏。
平年よりも気温が高く、前日に雨が降ったこともあり、呼吸するたびにむせ返るような暑さで頭がもうろうとしていた。息づかいは荒く、にじみ出る汗が地面へ滴っていた。教会の中庭へ吹き抜けてゆくそよ風に心地良さを感じることもなく、どこからか聞こえてくる蝉の声でさえもこのときだけは何も思わなかった。
ぼくは、幼馴染の和子の身体にまたがり、彼女の首を両手で握り潰していた。どうしてこんなことになってしまったのか。考える時間もなく、ただひたすらに己の両腕に力を込めた。和子の願いに、応えるように───。
◆
二日前から和子が学校を休んでいた。
彼女の家はキリストの教会に隣接された白い家で、そこから一番近いのがぼくの家だった。担任の先生がぼくに宿題とチラシを持って行くようにと指示した。もともと、おばあちゃんからお見舞いのことを頼まれていたし、ぼくも心配していたので、ついでに持って行くことを快く引き受けた。
放課後、彼女の家の前で立ち止まり、思い直して教会へ歩いて向かった。直感というよりもたしかな確信があり、いつも二人で過ごしていた教会の中庭に彼女がいると思った。教会の大きな正門の下から中庭を見ると、そこには陽の光がカーテンのように差し込んでいた。ひまわりの花が咲いていて、他にも名前の知らない花々があった。案の定、中庭にあるベンチに和子が座っていた。そこは一般市民にも公開されていたが、珍しく、その日は彼女しかいなかった。ぼくは彼女のもとへ歩み寄って驚かせてやろうと思った。だが、あたかも来ることを知っていたかのように、和子がこちらへ顔を向けて嬉しそうに言った。
「あおちゃん⁉︎ 待ってたよ!」
彼女の両目には包帯が巻かれていた。口元にはいつもの可愛い笑みがある。その異様な光景にぼくは動揺し、その場で立ち止まった。
「和子ちゃん・・・・・・今日、先生から渡された宿題とチラシがあるんだけど」
和子の表情から笑みが消えた。彼女は、私の隣に座ってほしいと言ってさらに続けた。
「目を見てほしいの」
ぼくは言われた通りに和子のもとへ歩いて行って、リュックサックを地面に置いたあと彼女の隣に座った。間近で彼女の包帯姿を見て、嫌な予感がした。つかの間に、和子が包帯のヒモをほどき始め、それからほどなくしてさらさらと白い布が落ちていった。
「きっと、神さまは私の過ちをお許しになってくれます」
和子はそう言って、包帯で隠されていた両目をあらわにした。彼女の目は、この世の類いのものではなかった。一片の光もなく、どこまでも黒々としていて、二つの深淵を眼前にしているようであった。その深淵に引き込まれそうになってようやく、自分の背筋が凍てつくような恐れにも似た何かを感じて、ハッとして我に帰り、口の中の生唾を飲み込んだ。
「あおちゃん、両手を貸して」
和子はぼくの両手を取って、彼女は自らの細くしなやかな首へ包み込むようにして置いた。
「あおちゃん、最後のお願いを聞いて」
ぼくはあっけに取られながらもこくりと頷いた。和子の目元に涙が溜まっていた。
中庭に咲いた花々の上には、雨水が無数に散りばめられている。和子の背後では、陽の光が無数の雨水に反射してキラキラと輝いていた。またそよ風が吹き抜けて、花先に溜まった雨水が雫となってぽつりと地面へ落ちた。
和子の頬に涙が流れる。彼女は言った。
「私は、あおちゃんのことを殺さなければいけない。あおちゃんは、私のことを殺さなければいけない───」
「んぐっ・・・・・・」
とぼくはえずき、唐突のことで何が起きたのかわからなかった。腹部から激痛が走る。顔を下に向けると、脇腹に果物ナイフが刺さっていた。そのグリップには、和子の綺麗な手があった。
「わ・・・・・・和子、ちゃん?」
彼女の名前を苦し紛れに発したあと、ぼくは和子に顔を向けた。彼女は、両目を閉じていた。
「強く握って! 早く!」
彼女の大声に、ぼくは驚いて両腕に力を込めた。自分の両手を彼女の首から必死に引き払おうとした。そのとき、引いた力が勢い余って和子をベンチから倒れ込ませ、ぼくは仰向けになった彼女の腹の上に乗るようにしてまたがった。依然、和子の右手は果物ナイフのグリップを離そうとはしていなかった。果物ナイフの刃渡りは直径十五センチもないが、そのほとんどがだんだんとぼくの脇腹に突き刺さっていった。腹部の激痛に比例して、ぼくの伸ばした両腕の力が増していく。彼女の表情に正気が薄れゆくのを気に留めながら、自分の着ている白いシャツが赤黒く染まっていくのが視界の端に映った。
和子のいびつな両目から涙が流れている。彼女は唇を震わせ、かすれた声でぼくの名前を口にしているのがわかった。
あおちゃん、ごめんね───。
と和子の口がゆっくりと動いて、彼女の右手が果物ナイフから離れた。それでもしばらく、ぼくは彼女の首を絞め続けた。どのくらいの時間が経ったのか、ふと、気が付いたときには、そこには和子の亡き骸があった。ぼくは彼女の横にのけぞった。両手は震え、彼女の首には濃い紫色の手形がある。いつの間にか腹部の痛みは消え、うまく息ができず、押さえていた感情が涙となって溢れ始めた。目の前に想いを告げられずにいた大切な人が横たわっている。自分の愚かな行いが、それがたとえ彼女の願いだったとしても。
「ァア゛ア゛・・・・・・ァア゛・・・・・・」
ぼくは声にもならない悲痛な叫び声を上げていた。鼻や口から体液がこぼれ落ち、頭が真っ白になりかけて、
ギィーーーーーンーーー
と甲高い耳鳴りに襲われた。頭がかち割れるような激しい痛みに耐えきれず、ぼくは前屈みになって目を閉じた。頭の中で何かが動いている。得体の知れない映像が流れ始めた。赤い何か、人? は何かを叫んでいる。その人型の何かは赤い膜のようなものに覆われ、無数の手が彼の顔や肩、腕を掴んでいる。
彼は、苦しそうに叫ぶ。
「
あらゆる世界! あらゆる文明! あらゆる存在に告げる!
備えよ! これは創造主との戦いだ!
我々の奇跡を君たちに残そう!
皆で協力してほしい! みな・・・・・・で・・・・・・
」
彼の声は、日本語で話していないにもかかわらず、その言語が日本語に聞こえてくる。映像はそこで途切れ、ぼくは嘔吐した。胃の中が空になり、地面には胃液と固形物が吐き出されていた。徐々に、頭の中で数字が浮かび始めた。
“120.63.9801.99.0”
その数字の配列は、赤く電子のようにジリジリとして脳裏に焼き付いている。ピンと張った糸が切れるようにしてぼくは地面へ倒れ込んだ。自分の右手が和子の手に触れるのが見えた。それだけで安堵し、狭まってゆく視界が暗闇に包まれるのを、ぼくは静かに見届けた───。
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転送開始可能日まで、───残り362日。
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