ふくしゅう
このショッピングモールの屋内駐車場は、四階だ。
太郎はいつもそこに車を止めて、エレベーターのある入口へ向かう。ただし、エレベーターには乗らない。脇にある階段を下りる。誰も使わない、天井の高い白い空間。幾何学的で、静かで、少し寒い。自分の足音だけが四角い踊り場に反響する。意識していたわけじゃないけれど、たぶん彼はその雰囲気を、少しだけ気に入っていた。
階段を下りきった三階の出口は、おもちゃコーナーとゲームセンターの、ちょうど間の廊下につながっている。無機質で静かな白い階段から、扉一枚を抜けた瞬間に、にぎやかな電子音とガチャポンの列と自動販売機の光。冷たい幾何学から、おもちゃのあふれる世界へ。毎回この落差が、太郎はきらいじゃなかった。
そして階段の出口の、本当にすぐ目の前に、幼児向けのポップコーン販売機がある。コインを入れると、その場で出来立てが出てくるやつだ。センサーが付いていて、人が前を通ると猫が歌を歌う。いつものかわいい機械。
その日、歌がちがった。
「太郎君‼ 時間だよ」
聞こえたけれど、太郎は歩みを止めなかった。新しい音声にでも変わったのか。二歩、歩く。いや、そもそも名前まで呼ぶ販促なんて、あるわけがない。
「いつまで無視を続けるの」
立ち止まった。
「追ってくるものはもういない」
え?
そして極めつけが、かわいらしいメロディに乗って流れた。
「復讐の時は来たれり♪」
太郎は振り返った。ぬいぐるみの猫が、満面の笑みで、LEDの目を点滅させている。
――ああ、疲れてるな。
バイト帰り、まともに寝ていない三日目。幻聴だ。そういうこともある。太郎はそう結論づけて、いつものように服売り場へ足を向けようとした。
その時、スピーカーのノイズを一切ともなわずに、声が直接、頭の中に響いた。
「なんだよお前。おれの精神異常か?」
「お前の異常さはわかってるにゃ。でも、これは本物の会話にゃ」
「......」
「今からお前に、とりあえず力を授けてみるにゃ」
「とりあえず? 授けてみる? ふざけてるだろ」
「はい。ばぁーん」
「ばぁーんって......」
「ぽ〜ん。にゃ〜ん」
「もう行くわ」
「まつのにゃ」
猫の声が、そこだけ急に、妙に具体的になった。
「お前のスマホ。好きな写真を五枚撮れ。五枚目になったら、何かイベントを発生させてやるにゃ」
適当な猫のくせに、ルールだけは細かい。太郎はもう、逆に感心していた。
「はいはい」
投げやりにスマホを構える。歌う猫のぬいぐるみ。パシャ。足元の白いタイル。パシャ。自販機。パシャ。誰かが落としていった赤い風船。パシャ。通りかかった、母親に手を引かれた子供。パシャ。
五枚。
何も起きない。
「ほらな」
太郎はスマホをポケットに戻して、モールを出た。
* * *
帰り道の公園を通り抜けようとしたとき、小鳥が肩に止まった。
「は?」
払おうとした手の先を、蝶が横切った。一匹ではない。数匹が、太郎の周りをふらふらと舞っている。頭上の桜――もう五月なのに、なぜか一本だけ満開だった――から、花びらが降ってくる。ベンチの子供が、太郎に向かって手を振った。
脳内で、猫が平然と言った。
「象徴は正しく再現されたにゃ」
太郎はしばらく動けなかった。肩の小鳥は、まだそこにいる。
「俺、勇者か?」
いや。冷静になれ。小鳥は寄ってくることもある。蝶も、桜も、たまたまだ。子供が手を振るのも、まあ、ある。偶然。ぜんぶ、偶然。――偶然にしては、できすぎている。
心療内科、予約した方がいいのかもしれない。
けれど、太郎の親指は、いつのまにかスマホのカメラを開いていた。確かめたかった。もう一度だけ。
公園の奥、木立の茶色い幹。パシャ。誰かが柵に忘れていった蜂蜜色の飲みかけの缶。パシャ。ぬかるみに残った、大きな足跡。パシャ。奥へ続く、山道めいた砂利道。パシャ。ベンチに置き去りにされた、茶色い毛皮のクマのぬいぐるみ。パシャ。
五枚。
数分後。
ガサッ。
太郎は、砂利道の奥を見た。
「......」
クマだった。本物の。
「なんでだよ‼」
脳内で、猫の声がした。
「象徴は正しく再現されたにゃ」
「再現しなくていいんだよ‼」




