【第8章】お仕着せのアナログ体験という「的外れな罰」
このような「人間がサボるリスク」に直面したとき、世の中の大人たち(特に教育熱心な親や、保守的な教育関係者)が、慌てて持ち出してくる定番の対策があります。それが、「アナログへの回帰」です。
「子どもたちがAIのせいで考えなくなるから、学校ではAIの使用を全面的に禁止しよう」
「あえて不便な環境に身を置かせ、紙の辞書を引かせ、薪で火を起こさせ、手書きでノートを取らせることで、試行錯誤の精神を養おう」
ここで、少し肩の力を抜いてぶっちゃけた話をさせてください。
大人がこのような危機感から用意する「お仕着せのアナログ体験」は、はっきり言って、マジで何の意味もありません。それどころか、子どもにとってはただの迷惑な「罰」であり、逆効果にすらなります。
なぜなら、大人が「ほら、不便だろ? 苦労して試行錯誤しなさい!」と強制するアナログ環境は、子どもから見ればただの「不条理な我慢大会」でしかないからです。
子どもはバカではありません。目の前に、一瞬で調べられるスマホやAIという便利な道具があることを知っています。それなのに、大人の都合で「紙の辞書をめくれ」と言われても、そこに生まれるのは「考える楽しさ」ではなく、「なんでこんな効率の悪いことをさせられているんだ」という大人への不信感とストレスだけです。
人間は、動機が「めんどくさい、早く終わらせたい」という感情で満たされているとき、思考を最も省略します。強制された不便さは、子どもに試行錯誤を促すどころか、「どうやってこの不便な時間をサボり抜くか」という別の意味での手抜きを覚えさせるだけです。
火を起こすことや、紙をめくること自体は、単なる「手段」に過ぎません。時代遅れになった古い手段の苦労を強制することを、教育と呼んではいけません。それは、かつて「ゆとり世代はググってばかりで根性がない」と叩いていた老人が、自分の過去の苦労を美化して若者に押し付けている「世代間コメディ」の構図そのものです。
私たちが守るべき(保守すべき)なのは、過去の「不便な手段」ではなく、道具が何になろうが変わらない「人間の思考の土台」でなければならないのです。




