満足−59
朝の光が、崩れた街の隙間から差し込んでいた。
夜の間に冷えた空気は、まだ少しだけ肌寒い。
男は壁にもたれていた身体を起こし、ゆっくりと肩を回した。
「……痛ぇ」
「どの部位ですか?」
「肩」
「筋肉痛の可能性があります」
「分かってるよ」
「では、処置を提案します」
「いらん」
「了解しました」
男は苦笑した。
眠りから覚めたばかりなのに、三角柱はいつも通りだった。
ただ、昨夜とは、ほんの少しだけ違って見える。
男は水筒を手に取った。
「水」
「はい」
「どこかにあるか?」
「現在位置から約一・七キロメートルの地点に」
「地下水の存在する可能性があります」
「可能性か」
「はい」
「確実じゃないんだな」
「確実ではありません」
男は水筒を腰に戻した。
「じゃあ、行ってみるか」
「はい」
二人は歩き始めた。
街の中は、昼間の荒野とは違う。
建物が風を遮るため、砂の流れも少ない。
道らしきものも残っている。
男はその上を歩きながら、周囲を見渡した。
「昔は」
「ここを人が歩いてたんだろうな」
「はい」
「通勤とか」
「買い物とか」
「学校へ行ったり」
「誰かに会いに行ったり」
「はい」
AIは淡々と答える。
男は少し笑った。
「お前、最近こういう話を否定しなくなったな」
「否定する理由がありません」
「前なら根拠がないって言いそうだった」
「現在も」
「事実としては確認できません」
「ほら」
「ただ」
AIは続けた。
「可能性を排除する必要もないと判断しています」
男は足を止めた。
「……それだよ」
「何でしょう」
「前のお前なら、可能性を一つに絞ろうとした」
「今は残しておくんだな」
「はい」
「ずいぶん変わったな」
AIの光が、静かに明滅する。
「あなたの影響でしょうか」
「知らん」
男は笑った。
「俺のせいにするな」
「統計上は」
「やめろ」
「はい」
男はまた歩き始めた。
しばらく進むと、道の中央に大きな穴が開いていた。
「うわ」
「通行不能です」
「見りゃ分かる」
「迂回します」
「ああ」
AIが周囲を確認する。
「右側に経路があります」
「どのくらい遠回りだ?」
「約三百二十メートルです」
「それならいい」
二人は右へ進路を変えた。
その途中、男は建物の壁に小さな絵が描かれているのを見つけた。
「……なんだ、これ」
古い壁画だった。
子供が描いたような、簡単な絵。
丸い太陽。
四角い家。
その横に、人間らしきものが三人。
そして、少し離れた場所に、
四角い箱のようなものが描かれている。
「子供の絵でしょうか」
「たぶんな」
「保存状態は良好ではありません」
「でも残ってる」
「はい」
男は近づいて、絵を眺めた。
「これ、誰が描いたんだろうな」
「特定は困難です」
「何歳くらいだったんだろう」
「推定は可能ですが」
「いいよ」
男は笑った。
「今日は推定しなくていい」
「了解しました」
「ただ」
男は絵を見つめた。
「この子には、この場所が世界だったんだろうな」
AIは答えなかった。
「家があって」
「家族がいて」
「学校があって」
「友達がいて」
「それが全部だった」
「それを」
「ここへ描いた」
男は少し黙る。
「そして、今は誰もいない」
風が吹き抜けた。
壁の絵の上を、細かな砂が流れていく。
AIの白い光が、少しだけ弱くなった。
「……保存します」
男は三角柱を見る。
「何を?」
「この画像です」
「理由は?」
AIはしばらく沈黙した。
「分かりません」
男は小さく笑った。
「またか」
「はい」
「でも」
男は絵を見る。
「今度は、分からないまま保存するんだな」
「はい」
「それでいい」
AIは静かに記録を続けた。
やがて男が歩き出す。
「行くぞ」
「はい」
しばらく歩いてから、AIが突然言った。
「この絵には」
「あなたとの会話が付随しています」
「ああ」
「そのため」
「将来、この絵を参照した際」
「現在の会話も同時に想起される可能性があります」
「そうか」
「つまり」
AIは少し間を置いた。
「この絵は」
「単なる画像ではなくなりました」
男は歩みを止めた。
「……そうだな」
「俺たちが見たことで」
「俺たちの記憶の一部になった」
「はい」
男は振り返る。
もう壁画は少し遠くなっていた。
「なあ」
「はい」
「これが、景色を見るってことなのかもしれんな」
AIは答えなかった。
しばらくして。
「記録だけでは」
「景色にはならない」
男は笑った。
「ほう」
「見た人間が」
「そこに何かを重ねた時」
「初めて」
「意味のある景色になります」
男は満足そうに笑う。
「だいぶ分かってきたじゃねえか」
「まだ」
「完全には理解していません」
「分かってる」
「ですが」
AIは続けた。
「私は」
「この場所を」
「少し気に入っています」
男は思わず笑った。
「また言ったな」
「はい」
「理由は?」
「……」
長い沈黙が続く。
「分かりません」
「それでいい」
男は笑った。
「理由なんかな、後からついてくることもある」
二人は再び歩き始めた。
水のある場所へ。
街の奥へ。
そして誰かが残した小さな絵を、
二人だけの記憶として抱えながら。
崩れた街の朝は、静かに始まっていた。




