しんどくなるのも悪くない
-10月-
中間テストの次の日がバイオリンの発表会だと知って愕然とする昼下がり。
綿密に立てている勉強の計画も、稽古の延び具合によっては大きく変わる。
「う~ん……」
きっと日曜日は確実に潰れるから、この18時間分―――否、2回の日曜日計36時間分―――を平日のどこに入れるかだ。
でも入れられるのって火曜日か金曜日だけなのよねぇ。
それもいつ稽古が入るか分からないし……
睡眠時間を削ったら、平日平均の時間も延ばせるかしら?
「柚子ちゃん」
そうよね、仮に毎晩2時に寝て6時に起きれば、
「柚子ちゃん?」
今までの12時から7時までで3時間が勉強時間になる。
「柚子ちゃーん」
そうすると土曜日も含めた12日間できっかり36時間だから………
「ねえ!柚子ちゃんってば!」
「え?あ、はい」
「"え?あ、はい"じゃないわよ!さっきから呼んでるのに」
「あ、すみません」
目の前で手を振られ、はっと我に返った。
考え事をしていると、彼女の声ですら聞こえなくなる時がある。
「もう!しっかりしてよ~もうすぐテストなんだから」
「あ、はい」
「頭に"あ"ってつけるのやめてくれる?なんか挙動不審だし。ついでに言うと今も目の焦点が合ってない!」
彼女の突っ込みはかなりの切れ味だ。
多分、鞘から刃をちょっと抜くだけで海が割れるし、そこに住む魚が三枚下ろしになる。一瞬で。
私はMではないけど、彼女のこの突っ込みはすごく気に入っていたりする。
そう言えば、テスト勉強の割り振りともう1つ、悩んでいることがあった。
私はどうやら、彼女のことを「福原先生」と呼ぶことが苦手なようだ。
別に名字が気に食わないとか全然そういうのではない。
むしろ彼女の名前はすごく好きだ。
どこがいいという話をしだしたら、聞く人を5、6時間拘束することになるので割愛する。だけど、決して彼女の名前が気に食わないわけではない。
ただ単純に、誰かとの話の流れで彼女の名前が出たとき、聞くのは問題ないのに自分が彼女の名前を口にするとなると、妙に緊張するのだ。
なんだろう、不思議な感じ。
今のところ、啓ちゃんを含めた友人はおろか、家族にすら秘密の事項である。
誰にも相談できないし、ほんと、どうしよ。
「う~ん……」
「また言ってる」
「いや、頭の中に大きな問題が2つも…」
「何?悩み事?」
「まあ、そんな感じです」
「話してみなさいよ。学年主任、福原亜佐美が聞いてあげるわ」
学年主任……主任……
「主任!」
急に大声をあげた私を、彼女は驚いて見つめる。
「何よ」
「いえ、1つ解決しました」
嬉しくて笑う私を見て、彼女も微笑んだ。
「解決したのならよかった」
「先生のお陰です!」
「え?私何もしてないけど…」
「思わぬところが解決の糸口になったんです」
「もう、何それ」
"意味分かんないわよ"と、彼女は私の肩を軽く叩いた。
「解決できたところで、次の授業行きましょうね」
「うちのクラス国語ですよ」
「だから、一緒に」
授業用のかごを持って、彼女は片手を差し出した。
「はーい」
私の手を重ねる。
少しまだ緊張するけど、スキンシップにももう大分慣れたわ。
主任。
口の中で呟いてみる。
特別な呼び名は私の中の彼女を、より一層、特別にさせた。
なんだか頭がクラクラする。
10月も半ば。今日で丁度、テスト1週間前。
「姫、大丈夫?」
莉保ちゃんが心配そうな顔で覗き込んでくる。
「ええ、大丈夫」
だと思うわ、まで言えずに、目眩がした。
フラフラと倒れそうな私を莉保ちゃんが支えてくれる。
「しんどいんだったら保健室行った方がいいんじゃない?」
横からあかりさんの声が聞こえた。
「悪いけどそうするわ」
「うん、じゃあボクが、次の授業の先生に言っておくね」
「ありがとう…次は理科なの。ごめんなさいね、クラス違うのに」
「全然!姫のためなら大丈夫だよ!」
もう1度礼を言って階段を降りる。
私たちの教室は3階、保健室は1階だった。
「失礼します」
覚束ない足取りで保健室の扉を開ける。
保健室には、ずいぶんとお世話になっている。
というのも、小学校6年生の時に遭った事故の影響で、私の身体の関節はひどく抜けやすくなっているからだ。
抜けるとなかなか戻らないので、保健室に行って、テーピングをもらう。
それが、今までの保健室に行く理由。
「柚子ちゃん、大丈夫?」
保健室の秋谷裕美先生が、出迎えてくれた。
「なんかちょっと、頭がクラクラするんです」
「大丈夫?とりあえず、熱だけ測りましょうか」
「はい…」
体温計を挟んでしばらくすると、ピピッと音がした。
「35度6分…」
「ちょっと低いわね~」
「はあ…」
私の平均体温って大体これぐらいだけど、低いの?
「見た感じ貧血と寝不足だから、1時間寝て様子見ましょうか」
「はい」
保健室のベッドに入るのは初めてで、少し緊張した。
秋谷先生が空いているベッドのカーテンを開けたとき、
「すみません、この子、ちょっと熱っぽいんですけど…」
と言いながら、知っている声の人が入ってきた。
驚いて振り向く。だってその声の主は…
「柚子ちゃん?」
「…ふ、福原先生……」
一番見られたくない、一番心配をかけたくない人に遭遇してしまった。
て言うか今インベッドで非常に気まずいんですけど…
「ああ、井折さん」
B組の井折雪穂ちゃん。色白で細くて、何となく病弱なイメージがあったけど、本当にしんどそう。
私が名前を知っていたのは、同じく保健室の常連だったからなんだけど…
「ベッド空けますか?」
だってほら、私はただの寝不足だしね。
「バカ言わないの。まだベッド空いてるから、柚子ちゃんは寝ときなさい!」
秋谷先生に怒られる。
ですよねぇー。
「はーい」
ベッドに潜り込むと、カーテンの向こうで
「柚子ちゃん、どうしたんですか?」
という彼女の声と、事情を説明してるであろう秋谷先生の声が聞こえた。
遠退く意識の中で最後に覚えているのは、そっとカーテンを開ける音と、私の頭に手を置く微かないい匂いだった。
「…ちゃん、柚子ちゃん」
頭を優しく叩かれて、目が覚める。
微睡んでいた意識は次第にはっきり現実に引き戻されていき、家とは違う少し固めのベッドの上にいるんだという自覚をした途端、完全に起きた。
「お、おはようございます」
親にすら見られたことのない寝起きを秋谷先生に見られ、少し罰が悪くなる。
「よく寝られた?」
私の様子を見てクスリと笑う先生。
なんか恥ずかしいっていうより悔しいわね、これ。
「はい、お陰様で」
「もうすぐ皆お昼食べ始めるだろうし、大丈夫そうなら戻ろうか」
「はい」
ベッドから降りて、上着を着る。
保健室の扉を開けると、なぜか彼女が立っていた。
「福原先生?」
少しだけドキッとしてから、すぐに気付く。
きっと雪穂ちゃんを迎えに来たのよ。先生、優しいから。
「失礼します」
秋谷先生にお辞儀をしてから、彼女が保健室に入れるよう扉を開けっ放しにする。
「閉めていいわよ」
彼女が言った。
「え?」
「扉。私が迎えに来たの、柚子ちゃんだから」
……え?え!?私!?
ビックリしすぎて固まる私を見て、彼女はおかしそうに笑った。
「何でそんなビックリしてんの」
「いやだって、私……ですか??」
「うん、そうよ」
"うん、そうよ"じゃないです。
どんだけ優しいんですか、あなた。
普段クールだからツンデレなのかな?
今現状デレ8割ぐらいですけど。
「早く行こう。私、お腹すいちゃった」
「は、はい!」
突っ立ってる私に手招きをする彼女。
小走りで追い付き隣を歩きながら、私は、彼女に自分の心臓の音が聞こえないかヒヤヒヤしていた。




