6話:もうひとつの刃金
暗黒地帯中心部に佇む朽ちた古代種の神殿。
静謐な空気が支配するその場所で、金布の御座に頬杖をついていたテスラはふと顔をあげた。
その拍子に流れた黒髪が薄く色づいた頬をはらりと撫でる。
「来たのか、アルカンシェル。それに知らない古代種の気配……これがネロ・ブルーブラッドか。ふふ、思ったより早かったね」
呟き、少女は虚空へと向けた金の瞳を楽しげに細める。
人形のように整った美貌にはいたずらが成功したような無邪気な笑みが浮かぶ。
「分け身なのにこの魔力。さすがは先達、“黒の完成者”の名は伊達ではないね。狙いも正確だ」
今、暗黒地帯には彼女の配下たるニグレドもアルベドもいない。
二人の不在時を狙ってきた、とテスラも過たず理解していた。
自分がカイに接触してから二週間足らずで此処まで攻め込んで来るとは配下の二人も想像だにしていなかっただろう。
「ボクを直接狙ってきたのか。いい判断だ。でもね――」
夜の太陽は口元を歪め、酷薄に嗤った。
「――“神”を目指すのが古代種だけとは言っていないよ?」
◇
衣髪をかき乱す荒々しい風が吹きつける。
斬り飛ばされたネロの腕が枯れ枝のように宙を舞い、驚愕が数瞬、一行の思考を停止させる。
「ッ!! 下がれ、ネロ!!」
直後、カイは一喝と共に師の前に飛び出した。
数瞬してその隣にクルスが並び盾を構える。
騎士の表情は緊の一文字に結ばれている。
背筋にはいつにない悪寒が、脳裡には疑問が浮かんでいる。
「斬撃の遠当て。技能ではないのか……?」
モンクの攻撃技能である遠当ては武器と併用することはできない。
それはさながら物が下方に落ちるが如く、この世を覆う絶対の法だ。古代種とてその理を曲げることはできない、筈なのだ。
二人の背後ではネロに駆け寄ったソフィアが治癒術式をかけ、イリスが馬車の上で霊弓を構えている。
戦闘態勢に入った一行の表情にあるのは紛うことなき死の予感であった。
理は理によってしか変えられない。ならば、世界を覆う理を捻じ曲げられる者は何者か。
答えに辿り着くより僅かに早く、ひとりの男が一行の前に悠然と歩み出た。
端的に言って、ソレは絶望が肉を纏ったような存在だった。
返り血に染まった赤黒の短髪に、感情の失せた黒瞳と容貌。
巌のような巨躯に罅割れた鎧を纏い、手には長剣が一振り。
数え切れないほどの傷痕をその身に刻み、傷に倍する返り血を浴びてきたことを窺わせる人型の刃金。
剣の握りひとつ、歩みのひとつをとっても歴戦、などという言葉では表しきれぬ戦士であることが窺える。
「サードアイがない……古代種ではない? ですが、これは一体……?」
蒼瞳を輝かせて敵手を探るソフィアが困惑の声を挙げる。
如何な理由からか男には読心が通じず、魔力すらも感じられない。
ただ、背筋を震わせる恐怖だけが少女にもたらされる全て。
あれはマズイ。あれは危険だと全身が訴えている。
「……貴様」
そして、カイもまた声を震わせていた。
心臓が呪術の共鳴に軋みをあげているが、それすらも今は思考の埒外。
侍の視線はただ一心に男の持つ長剣へと注がれていた。
材質のわからぬ鈍色。カイが生まれてから最も目にした剣。
実用一辺倒の無骨な造りの勇壮たる長剣。
二年を経ても見間違えるはずがない。
その無骨な拵えは、父の――ジン・イズルハの剣だ。
この手で父を殺したあの日、父の遺体諸共ニグレドに焼かれた筈の剣、“無銘”だ。
「何故、お前は、その剣を持っている?」
「……剣は、戦士が持つべきものだ」
噛み締めた口元から零れた問いに、地獄の底から絞り出したような嗄れた声が答えを返す。
カイの目から動揺が消える。より強い感情が思考を塗りつぶしていく。
「お前は呪術士の仲間か?」
「――――」
その沈黙は何よりの肯定であった。
「――そうか」
次の瞬間、カイは弾けるように飛び出した。
一切の加減なしに発動した加護に背を押され、爆発的な加速で以て結晶の絨毯を踏み割り、雷鳴となって駆ける。
彼我の距離は一瞬で零に。
結晶の破片が宙を舞い、秒を百に分けた時間の中で最速の一閃が男の首を刈り取る。
刹那、ギン、と重い金属音が辺りに響いた。
「ッ!?」
驚愕が脳裏を走り抜ける。
カイの全速の一撃が、疾走込みの全力が、何の備えもしていない無造作な受け太刀に防がれたのだ。
侍は奥歯を噛み締める。
しかし、まるで山でも押し込んでいるかのように噛み合った刀身は動かない。
直感が告げる。相手は膂力、反応速度ともに此方を遥かに上回っていると。
屈辱が思考をさらに赤熱化させる。
「――無間!!」
鍔迫り合いは不利。
押し込まれる刀身を受け流しつつ脇を抜けて反転、相手の死角に潜り込む。
流儀に従い、その身は防御を捨ててさらに速度を上げる。
反動を省みない全力駆動。
踏み込む速度は人極に達し、振るわれる剣撃は魔獣級を屠って余りある絶剣と化す。
そうして生まれた速度と威力を余すことなく相手の首、脇、背、膕へと、受け太刀のとれぬ位置へと矢継ぎ早に叩き込んでいく。
死角からの連続攻撃。
相手の反応が追いついていないことをカイは知覚した、筈であった。
「ッ!?」
だが、あとほんの少しで切っ先が届くというところで、人極の連撃が、およそ人間には防げぬように組み立てられた筈の斬撃の嵐が次々と撃ち落とされていく。
ゆるやかに円を描く無銘が死角からの攻撃を正確無比に弾いていく。
カイは一刀目を防がれて疑問に思い、二刀目を防がれて予感し、三刀目を防がれて――
「キ、サマァアアアアアア――――ッ!!」
感情を激発させた。
燃え盛る怒りが喉を破らんばかりの咆哮となって大気をビリビリと震わせる。
ぶつりと脳内で何かが切れた音がした。視界が真っ赤に染まる。
許容量を優に超えた憤怒がカイの全身から流れ出て、目の前の“敵”を焼き尽くさんと絶叫する。
ゆるやかに円を描く剣線、剣の間合いにおける不可侵領域の形成。
それは父ジン・イズルハが生み出した流儀“無明”に他ならない。
「キサマは剣だけでは飽き足らず、技までも奪ったのかッ!?」
「……」
血を吐くような糾弾に、男は答えない。
だが、その手に持つ長剣、無銘の描く清冽な円陣が何よりも雄弁に答えを示している。
剣と共に技をも盗まれることは有り得ない事ではない。
刀身の傷、重心の偏り、柄のすり減り。使いこまれた剣にはどのように扱われたかという情報が強く残る。
優れた使い手であるほどに無駄なく正確な刀法が得物に刻みこまれるのだ。
故に、練達の武人ならば、剣に残る情報から流儀を再現することも、ひどく困難ではあろうが、不可能ではない。
あるいは、元の使い手以上の技量の持ち主ならば――
「……この程度か」
「ッ!!」
感情のない声と共に脳天が粉々に砕かれるような極大の殺気が思考をかき消す。
カイは本能的に間合外へ退いていた。
相手はまだ一度も攻撃してきていないというのにその息は乱れている。
数秒の間に打ち合わせた剣は十一合。
全力を出したというのに相手の防御をはまったく崩れていない。
それ程の実力差が彼我の間にはある。
(なんだ、コイツは……?)
怒りの水位が僅かに下がり、代わりに困惑がじわじわと脳裡で膨らんでいく。
おかしい、彼我の能力差がありすぎる。
基礎的な身体能力はいわんや剣腕に至っても天地の開きがある。“無明”にしてもあまりに極まっている。
感じる圧力も人間大のそれではない。まるで山脈か何かを相手にしているようだ。
思考する。英雄はおろか英霊ですらない。その程度の相手に極められるほど父の技は易くはない。
ならば、結論はひとつ。カイの人生でも見えたことのないモノであるがそうとしか考えられない。
おそらくこの相手は――
「――“武神”か。こうして相見えるのは何千年ぶりであろうな」
片腕は諦めたのか。
腕の断面を焼いて止血したネロが戦線に復帰する。
「……ネロ」
「頭は冷えたか、馬鹿弟子?」
「それより、あの男が武神級――“四人目”の武神だと?」
武神とは英霊のさらに上位、この世の涯、全ての存在の行きつく頂点である。
確認されている限りに於いて、人間から武神に至った者は史上三人、すなわち、この大陸の五色の神の内の三柱、赤神、白神、黒神だけである。
目の前の男はそれに並ぶとネロは言う。
「そう考えるより他にない。幸か不幸か、アレはまだ成りかけ、完全な神には成っていないようだがな」
数千年の昔、ヒトが神に成る瞬間を実際に目撃しているネロだからこそわかる。
英雄が人間の限界ならば、武神とは世界の限界に立つモノ、つまりは、世界が許容できるギリギリの存在である。
肉体が残っている内はまだ抗し得る。少なくとも、目があっただけで死ぬ、等という風に無制限に能力を行使することはない。
問題は、信仰の対象になってもおかしくない域にある到達者が戦乱の導に、魔神の召喚を目的とする集団に協力していることである。
(テスラにひと当てしておきたかったのだがな……)
「想定外の事態だ。理解しているな?」
アルカンシェル全員に言い聞かせるように放たれたネロの言は撤退を示唆している。
魔人は既に転移術式の構築を始めている。
武神を相手どるには、この面子でも力不足だと判断したのだ。
「……」
わかっている。カイは砕かんばかりに奥歯を噛み締めた。
あの男の先にテスラがいることは確実なのだ。
もしも今、テスラに加勢へ来られたら最早勝負にすらならない。
そうしてこないのが戦乱の導の余裕の顕れなのか、あるいは何か他に理由がある為なのかはわからない。
わかっているのは、すぐにでも撤退しなければ自分達は全滅するということだけだ。
ならば、それでも、せめて一太刀。
転移術式が完成するまで時間を稼ぎ、あの男を斬る。
戦意を新たにしたカイに対し、男は悠然と無銘の切っ先を向けた。
「我が名はガイウス。ここは通さん。神の下僕は全て破壊する」
「……随分と贅沢な番人だ」
「祈る時間はくれないようだな」
端的な名乗りと死刑宣告に、ネロを中心に陣形を組み直す。
そして、人類の到達点を相手取った戦いが、始まった。
◇
英雄と英霊、あるいは英霊と武神。その間には大きな隔たりがある。
英雄と英霊の差は明確である。すなわち、“魂の名”を得たことによる人間の限界突破。それができるかどうかが両者を分かつ差である。
ならば、英霊と武神を分かつ差とは何か。
「崩すぞ、カイ!!」
声と共に、クルスが盾を構えて駆ける。
間合の内に於いて絶対に近い防御能力を誇る“無明”であるが、欠点もある。
その防御はあくまで剣による受けと払いに依存している。
故に、切り払えないほどの質量が間合いに侵入すればその防御は不発となるのだ。
その論理に従い、クルスは盾と展開した四重の障壁を以て剣の間合いを侵犯する。
同時に、クルスが注視された瞬間を縫ってカイがガイウスの背後に回りこみ、前後から狭撃をかける。
「――――」
ガイウスは二人を撃ち落とそうと無銘を振りかぶろうとして――その切っ先に巨矢が撃ち込まれた。
重く響く低音と共に刀身と鏃の間で火花が散る。
イリスの狙撃だ。
狙い違わず剣先に撃ち込まれた衝撃に無銘が僅かに振り遅れる。
その程度で剣を手放すようなガイウスではないが、後の先を狙う男にとっては致命的な一拍が盗まれる。
その一拍の間にクルスが盾を強烈に打ち込み、カイが首を刈り取らんと走る。
刹那、斬風が吹き荒れた。
前衛二人はそれがかろうじて無銘による横薙ぎであることを理解できた。
理解はできたが反応が追い付かなかった。
斬撃は反射的に回避したカイを掠り吹き飛ばし、終点で防御姿勢をとったクルスの構えた盾とぶつかった。
次の瞬間、リィンと場違いなほどに涼やかな音が響き渡った。
「な――ッ!?」
音はクルスの盾から鳴り響いたものであった。
薙ぎ払いの一撃で騎士の四重の障壁は一瞬で砕かれ、不壊金剛の盾は両断されていた。
世界最硬の金属たるアダマンが力任せに砕かれる様にクルスは驚きに目を瞠った。
殺しきれなかった衝撃で騎士の足元が結晶の絨毯を踏み割り、押し切られ、二条の轍を刻む。
「伏せて、クルス!!」
声と同時にイリスが矢を連射し、行動阻害をかける。
正確にガイウスの急所へと放たれる矢はしかし、小虫でも払うかのように無明の間合いに入った端から撃ち落とされていく。
だが、それはイリスの想定内だ。
「――消し飛べ!!」
立て続けに放った五射目、切り払いに振るわれる剣と鏃が触れた瞬間、矢が爆発し刃片を射出した。
拡散した爆裂矢はガイウスの上半身に隈なく襲いかかる。
が、即応したガイウスが魔法じみた技量で無銘を引き戻し、再度振り抜く。
禍々しき銀光が大気を断ち割り、力任せに千切られた大気が悲鳴をあげる。
放たれた一閃は刃片を弾き飛ばしただけでは飽き足らず、遠当ての如くその剣閃を後衛のイリスまで届かせた。
僅かに離脱の遅れた少女の肩が剣風に抉られ、血飛沫が爆ぜる。
「ァグッ!! ネロ様、ソフィア!!」
「合わせろ、小娘」
「はい!!」
『――凍結せよ!!』
さらなる追撃を放とうとしたガイウスに対し、ネロとソフィアが詠唱を完成。
注ぎ込まれた魔力に呼応して巨大な氷山が展開した。
二人の魔力の大半を注ぎ込んだ絶対氷壁、凍結、圧殺、窒息を強いる三重の氷棺がガイウスを押し包んだ。
「…………止まった? まったく、山か何かを相手してる気分ね」
「イリス、傷は治せるか?」
「ダメ。賦活能力が機能していない。自然治癒しか効いてないわ」
氷山を睨んだままのクルスの問いに、肩を押さえたイリスが苦々しげに答える。
ネロの腕と同様、ガイウスにつけられた肩の傷は再生する様子がなく、だらんと垂れた指の先から血が滴り落ちていく。
「おそらくは現象の否定、あるいは破壊の“神技”であろうな」
「神技? それが武神の能力なのですか?」
クルスの問いに、ネロが脂汗の浮いた相貌のまま頷きを返す。
「英霊が己の魂の名によって駆動する存在ならば、世界の法則を己が業によって覆す到達者、それが武神だ」
五色の神が加護を、技を、魔法を作り上げて神域の存在となったように、行き着いた武はその技が届く限りに於いて神となる。
神の宿る技、故にその名を“神技”と云う。
「……ネロ様、転移術式の完成まで最短でどのくらいかかりますか?」
「全力を傾けて5分。だが、援護はできなくなるぞ?」
「お願いします。武神相手にどれだけもつかわかりません」
暗い予感を胸にクルスが告げる。
一撃でアダマンの盾を砕く破壊力の上に治癒が効かぬとなれば長期戦は不利だ。
クルスだけは鎧を犠牲にすればあと一撃か二撃は耐えられる。だが、他の者は直撃すれば確実に致命傷に届く。
(護る。俺はまだ動ける。誰も死なせはしない)
騎士は奥歯を噛み締め恐怖を殺す。
一行が注視する中、ピシリ、と氷山に縦一文字の罅が入った。
直後、天に向かって一条の斬撃が放たれた。
斬撃は氷山を砕くだけでは止まらず、遥か空へと届き、曇天すらも切り裂いた。
暗黒地帯に、束の間、亀裂のような青空が覗く。
神々しさすら感じる斬撃は見る者に怖気と共に絶対の理を刻みつける。
――神たる神を赦さず。我は始原を砕く狂えし刃金
その剣は証明する。この世に神は不要だと。
その刃は証明する。其は何人も逃れえぬ破壊であると。
その剱は証明する。其は神をも砕く刃金であると。
その神技の名は――“破戒無式”
「ッ!! クルスッ!!」
「障壁――!!」
絶叫が脳髄を軋ませる。
本能が告げる。あれを止めねばならない。
氷山が砕け、その破片がガイウスの殺気で蒸発していく中、本能の告げる警鐘にカイとクルスが全力で飛び出した。
だが、ガイウスの所作はどこまでも単純であった。
一歩を踏み出し、同時に剣を頭上に振りかぶり、踏み終わりと同時に振り下ろす。
男の全身が風を巻く。
踏み込む足が結晶の地面を踏み割る。
剣先が音の壁を超える。
全ての力が剣に集う。
何者も阻むことを許されぬ、阿頼耶に始まり阿摩羅に終わる入神の儀式が完成する。
それは完全であった。それは完璧であった。
全ての剣士が夢見た究極の一振りがそこにあった。
千回、万回、あるいは億回以上に繰り返された鍛錬の果てがあった。
そして、巨大な斬撃が全てを置き去りにした。
空間が軋み、光すらも拒む黒い斬撃が迸る。
突撃は弾かれ、障壁は砕かれ、魔法は切り裂かれた。
音は追い越され、大気は砕かれ、衝撃は拡散を許されず、軌道上の全てを砕いて破砕して破壊した。
そうして、あとには数キロに渡って天と地を割り砕いた斬痕だけが残った。
破壊の法による殲撃だ。最早、立ち上がれる者はいないだろう。
「……外した?」
しかし、剣を振り下ろした体勢のまま残心をとるガイウスは小さく疑問を呟いた。
斬った感触がなかったのだ。
見れば、真正面に放った筈の斬撃はほんの僅かに横に逸らされ、敵方の致命傷を逃れせしめていた。
男は心中で原因を追及する。
余波を喰らい地に伏している後衛の魔法や狙撃ではない。己の斬撃はそれらに先んじていた。
障壁は砕いた。突撃は押し返し、弾き飛ばした――筈だ。
しかし、ならば、この篭手に走る一筋の斬線は何なのか。
一体、己はいつ斬られたのか。
「――――」
武神の心に何かが生まれた。熱く煮えたぎる、何かが。