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刃金の翼  作者: 山彦八里
四章:天の風
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7話:血戦

 空と大地を深々と切り裂いた斬痕を間に置いて、互いに半身を血に染めながらカイとクルスはどうにか立ち上がった。


「ッ……ソフィア達は!?」

「生きている、死んではいない」


 後方、ソフィア、イリス、ネロ、三人ともまだ伏せてはいるが、辛うじて意識は失っていない。最悪の結果は避けられたのだ。


 周囲には粒子の域にまで砕かれた魔力結晶が舞っている。

 先の斬撃の残滓だろう。

 知らず、背筋に震えが走る。なにもかもがギリギリだった。

 無造作で、しかし、魔物の行う近視眼的な突撃ではなく、的確に後衛ごと狙った戦術的な一撃。切り札を明かす“間”は申し分なかった。

 今更ながらに、相手が魔物ではなく人間に類する存在であることが身にしみて理解させられる。


 それでも、全員、直撃はしなかった。

 先の一瞬、ガイウスが剣を振り下ろす直前に、クルスが障壁をぶつけて一髪の間を稼ぎ、カイが斬りつけて相手の剣線を逸らしたからだ。

 失敗すれば全滅していただろう。

 とはいえ、その代償に二人は“神技”に真っ向から突っ込む形になった。

 直撃は避けても負傷は甚大であった。


(これが武神級……)


 カイは心中の怒りと驚愕を肚の底へと呑み下す。

 先の一撃で刻みつけられた斬痕は足元から数キロ後方まで続いている。

 半身には鑢で削られたような痛みが走っている。

 ただ剣を振っただけ、とはとてもではないが言えない。

 斬撃は地盤を深々と抉りながらも距離によって威力が減衰している様子はない。

 心技と同じく、斬るという行為自体が神たる力を行使する為の儀式なのだろう。


(物質あるいは空間自体を破壊した、か?)


 理合が読めない。カイは喉奥で唸った。

 現状、カイ達はたったひとりの剣士に圧倒されている。当初の時間を稼ぐという目的すら危い。


 ――否、ガイウスを剣士と評するのは間違いだろう。


 圧倒的な身体能力、剣に残る情報から流儀ひとつを極める隔絶した技量、そして凶悪な破壊力を持つ神技。

 アレは既に災害の域に達している存在と見るべきだ。

 災害に喩えるならば火山の噴火のような存在、魔物に喩えるならば地平を端から端まで呑み込む餓狼の類だ。

 その守りを崩せない。

 その攻撃を防げない。

 剣の間合いにおける絶対防御の遥か先を行く、斬撃によって侵入する全てに破壊を齎す攻勢結界。

 攻防自在の極致。神の加護すら砕く武の極星。


 その域に至るまでに斬り捨た敵はどれ程か。万では足らず、あるいは億に届く数やもしれない。

 あの男はカイが生まれるよりも前から修羅の道を歩んできたのだろう。

 そうして、潜り抜けた死線が、斬り砕いた敵が、積み上げた屍があの男を神の位まで押し上げたのだ。


(……そうか。アレが“過去”か。俺を殺す過去なのか)


 ふと、己に告げられた言葉を思い出す。

 仮面の剣士が、テスラが告げた“過去”の確たる実があの男なのだろう。

 恐い、と心が疼く。

 負けることは怖くない。死ぬことも怖くない。そんなものを怖れはしない。

 今はただ、己が否定される感触だけが恐い。


 カイは己の強みを理解している。

 己の強さはあくまで攻性、速度による斬撃の鋭さに特化しているものだ。

 守ること、攻撃を受けることに関して己は脆い。それは切り捨てた部分だ。

 ただひたすら攻め続けることでしか己の強さは発揮されない。

 それはひどく危うい均衡の上に成り立つ力だ。


 そして、今この瞬間、均衡は崩された。

 斬れない。それは、カイ・イズルハという存在を否定されたに等しい。


「……ネロ」

「構築再開。あと3分で完成する」

「了解」


 後方でゆらりと立ち上がったネロの分け身は半身が千切れ飛んで中身を晒している。負傷の仕方からしてソフィアを庇ったのだとわかる。

 それでも尚、己の役目を果たしている。

 ソフィアとイリスはまだ動けない。致命傷は避けたが二人の耐久力では危険域に変わりはないだろう。術式による治療も効かないとみるべきだ。


 結論、ガイウスに二撃目を許してはならない。

 逸る心を抑えて、彼我の性能を考察する。

 二撃目を止める為にはなんとしてでも此方の攻撃を徹さなければならない。

 だが、己の本気程度では撃ち落とされる。


「……ならば」


 命を賭けても相討ちにさえ届かないなら、命を捨てて届かせるまで。

 特攻や自棄と薄皮一枚隔てた()()使()()()()戦術。

 あの金城鉄壁を砕く手段がカイにはまだ残されている。


「――“無間■■”」


 呼吸とともに気息を巡らせ、痛覚と蓄積した疲労を無視する。

 ギチギチと音を立てて筋肉が引き絞られ、傷口から血煙が立ち昇る。

 無間を人極の限界から更に一段階、限界の向こう側――人外の領域へ引き上げる。


 すなわち、自壊を引き換えとする超過駆動。

 引き出された力に耐えきれず、肉体が内圧で悲鳴をあげる。

 今度は片目では済まないだろう。

 それでも構わない。得られた力を両足に叩き込む。


 負けられないのだ。否定されたままでは終われないのだ。

 あれが父の剣と技であるというのなら尚更だ。

 剣は誇り、技は魂、そしてこの身は刃金、断てぬ者なき必斬の剣。

 たとえ、相手が神域にあろうとその法は覆えさせない。

 思い出せ、この身はただ斬る為に、ある。


「――――」


 それでも、死ぬ。本能が警鐘を鳴らし、直感が告げ、心眼が結論する。

 思考も納得する。これでもまだ届かない。それだけの実力差が彼我の間にはある。

 呪いに犯された心臓ががなり立てる。己を起こせと。狂気に身を委ねろと鼓動を鳴らす。


「……カイ」


 隣に立つクルスから声がかけられる。だが、応えられない。何を言っても嘘になる。

 万に一つ、億に一つ、相手を倒せても生き残る目は零だ。

 あるいは、僅かな可能性に賭けて呪いを起こすか――


「わかっている。止められないことは、わかっている」


 お前にその選択をさせてしまう弱い己を憎み、許さない。

 騎士の表情は雄弁にそう語っている。


「……」

「それでも、この声がお前の力になるのなら――」


 騎士が大きく空気を吸い込む。


 ソレは禁忌である。教皇の許可なく触れてはならない秘匿技術である。

 しかし、クルスにはソレを扱う才能がある。

 ルベドとの戦いでは間に合わなかった。だが、今度は間に合う。力になれる。

 故に、騎士は躊躇なく“号令”を下した。


「――白神に連なりし吾が威令を発す、“勝て”、カイ・イズルハ!!」


 その雄々しき声を聞いたカイの体に、沸々と力が湧いてくる。

 肉体を壊す力とは真逆の暖かな力。魂を震わせる覇気。


 それは紛うことなき『ロード』の号令であった。


 ――白神加護“天に連なる者”


(そうか……そうだったな)


 カイは心の奥底で納得した。己の中で歯車が噛み合う音がした。

 元より、クルスにロードの才があることはわかっていた。

 騎士の声はいつだって力をくれた。

 巨人と戦った時も、大喰いと戦った時もこの声に背を押されたのだ。

 この一年間のカイの戦いは常にこの声と共にあったのだ

 武神級と相対しようと込められた想いは消えない。

 己は一人ではない。

 それだけで、十分だった。


「お前が恥じる事は何もない。後を任せる、クルス、我が主」


 己を忘れる。己が刃金であるという意識すら心技にくべる。

 それきり振り向かず、カイは無我の境地で死地へと踏み出した。


「――――」


 此方の決意を悟ったのか、ガイウスは何も言わず無銘を上段に構えた。

 構わない。相手がどうしようともするべきことは変わらないのだ。



 次の瞬間、カイの姿が消えた。


 ガイウスが驚きに僅かに目を見開く。


 黒衣を翻し、稲妻が地面を駆け抜ける。

 突風が吹き荒び、ただ地面に滴る血の痕だけがその前進を証明する。

 それは血染めの加速だ。一歩を踏みこむ度に夥しい血霞が飛び散る。

 加速に耐えられず骨肉が軋み、皮膚が次々と引き裂かれていく

 既に追いかけるクルスの目ではカイを捉えきれず、影すら追いきれない。


 長くはもたない。故に、この心技に全てを賭ける。

 白熱した意識の中で、研ぎ澄まされた一念が神をも断てと咆哮をあげる。


「――斬刃一刀」


 唱えるべき詠唱は端的に、全てを斬り捨てし一刀が走る。


 ――アメノハバキリ――


 相手の死角から最大加速で放たれる神代の剣。

 あらゆる物質を断つ、妨げる物なき必斬の剣。


 しかし、そのキセキを()()は覚えている。


 ガイウスは手に持つ剣の記憶に従って真一文字の横薙ぎを放った。

 旋風を巻いて剣線が舞う。

 防ぎえぬ瞬間に、避けえぬ一撃を加える必勝たる一閃。

 それは神をも畏れぬ絶技。受け太刀の窮極。

 ガーベラが振り抜かれる零コンマ秒に無銘が迎撃に走り、刹那、宙に美しい十字が描かれた。


 激突は一瞬、澄んだ金属音が鳴り響く。

 二振りの剣は神代の武に互いを撓ませ、次の瞬間、威力に負けたガーベラは頭上高くに弾き飛ばされた。


 それこそは無銘に残る記憶、かつて親子が激突した時の再現であった。


「カイッ!?」


 追走するクルスが驚愕の声をあげた。

 攻防は目で追えず、ただ結果だけが視界に映る。


 刀を飛ばされたカイの右腕はあらぬ方向へ折れ、一方、ガイウスは既に返しの一撃に入っている。

 ガイウスに負傷は見られない。この鉄火場で彼我の基礎能力の差が如実に表れている。


 だが、カイの加速はまだ終わっていない。


 血塗れの足が断裂と引き換えにさらなる一歩を踏みこむ。

 驚くことなどない。

 この一刀は、かつて同じ剣によって凌がれているのだから。


 故にこそ――左手は、一切の停滞なく背の銀剣を抜き放つ。


「――斬刃、一刀ッ!!」


 腹の底から気炎をあげる。

 限界を超えた二連続心技。

 視界の中でいくつもの火花が弾ける。聞こえてはいけない断裂音が脳内に響く。

 脳に血が回らず、最早、相手の姿も赤黒い視界の中でぼんやりとしか見えていない。


 それら一切に構わず、銀剣を振り抜く。


「――ッ!!」


 迫る必斬の一刀にガイウスは本能的に左拳を掲げた。剣では間に合わないと判断したのだ。

 武神たる男にとって四肢すらも破壊の業である。防御に掲げた拳であろうともそれは変わらない。


 銀剣と拳がさすまじい火花をあげて激突する。

 即座に稲妻の如き一閃がガイウスの左腕を拳先から肩口まで両断する。

 必斬と拮抗する破壊の神技が銀剣を侍の後方に吹き飛ばす。

 相討ち――ではない。

 カイは狙いを外し、ガイウスは思惑を達した――アメノハバキリは斬線を逸らし、本来、頭部を断ち切る筈の一閃が肩口に流されていた。


「――ッ!!」


 今度はカイが驚愕に双眸を見開く番であった。

 相手の左腕を斬らされた。代わりに、頭部と心臓を外された。

 思考ではなく、本能で斬り抜ける心技であるが故に中途では止められなかったのだ。


 そして、心技の代償に左腕が折れる。

 両腕からの激痛が伝わり、脳の思考領域を数瞬、塗り潰す。

 対する相手は今の攻防において温存した残る右腕、振りかぶった無銘を打ち下ろすだけ。回避は――間にあわない。


 敗北が此処に確定する。図らずも、両者の認識は一致していた。


「――障壁、展開!!」


 故に、それは二人にとって慮外の一手。


 振りかぶった無銘を押し潰すが如く、ガイウスの頭上に展開した障壁が斬線の起りを押し留める。

 障壁の遠隔展開、加えて、これ以上ないまさに神がかった一瞬を捉えた妙技。

 それは、クルスの作りだした紛うことなき勝機であった。

 仲間の作りだした奇跡の一瞬に、カイは次手を認識する。


「まだ、だァァァァァッ!!」


 ここにきて、号令の強化が生きてきた。

 限界を超えたカイの精神に、限界を超えて肉体が追随する。


 ガイウスが力任せに障壁を砕くと同時、カイが空に向けて吼えた。

 侍には視えていた。

 クルスの作ったこの一瞬に、この位置に来ると。

 己の相棒たる――ガーベラはここに落ちてくると。


 落下してきたガーベラの柄を口で捉えて噛み締める。

 犬歯が柄糸と鮫皮を諸共に噛み千切り、茎に突き刺さって剣を固定する。


 ――――斬る。


 さらに一歩を踏みこむ。

 相手の一撃に追いついた。相討ちは確実、自死は必然。

 しかし、届く。それで十分。


 再度の一閃が迫る中、カイは体ごとぶつかるように、その切っ先をガイウスの胸に叩き込んだ。



 ◇



 曇天の下、血臭混じりの風が動きを止めた二人の決着を告げる。


 侍が咥えた一刀は相手の鎧を貫き、刀身の半ばまで胸に突き刺さっていた。

 切っ先は微かに心臓に触れている。

 しかし、それが英雄の限界――ヒトの限界であった。


 最後の瞬間、ガイウスは無銘を引き戻して防御に回し、威力の大半を削いだからだ。

 カイとクルスが全てを賭けて作り出した勝機。

 防御は物理的に不可能な域まで詰めていた――その不可能を、武神は己が技量で覆したのだ。

 不可能を可能に、希望を絶望に変える。神話に語られる者とは斯く在る存在である。


「――――」


 既に意識はないのだろう。あるいは首も折れているのかもしれない。

 ガイウスが無造作にガーベラを引き抜き、一歩二歩と後退してもカイは凍りついたように立ち尽くしたままであった。


「……止めた?」


 一方、ガイウスはトドメを刺すでもなく、不思議そうな顔で己の手と剣とを見下ろしていた。

 最後の一瞬、男は相手を殺す為の剣を戻し防御に回した。

 もし振り抜いていれば確実に相手を殺していた剣を己は止めたのだ。

 それは己の理に反する行為だ。ならば、何故そうしたのか。


「……防がなければ死んでいた、オレが?」


 戦闘本能が結論を導く。

 数多の戦場を潜り抜け、数え切れぬ敵を屠り、憎き神の域にまで手をかけた自分が、まだ年若い英雄に死を感じた。

 その事実に呪いに犯された心臓が鼓動を掻き鳴らす。


 ガイウスの顔に初めて人間らしい色が、失った筈の感情が浮かぶ。

 憎悪にも、歓喜にも似た、極大の憤怒。

 胸に開けられた傷口から赤い血と共にそれらが綯い交ぜとなった感情が溢れ出てくるような気さえする。


 そのときになって、ずるりと両断された左腕が落ちる。

 中指の延長線上を斬り落とされた腕では関節を維持できるはずもない。肩から先の一切が千切れ落ちている。

 噴き出す血飛沫が男の左半身を朱に染めていく。

 しかし、左腕の喪失すらガイウスは気にも留めず、ただ忘我の瞳で気絶したカイを見つめ、無意識の内に無銘を振りかぶっていた。


「貴様は――」

「――障壁、展開ッ!!」


 紡がれる言葉を遮り、クルスが罅割れた盾を構えてガイウスに突進をかける。

 茫洋としていたガイウスの黒瞳が色を取り戻す。

 即座に戦意が騎士を捉え、半ば自動的に迎撃の剣が走り、激突する。


 一撃目、残った盾が再展開した障壁ごと砕かれた。

 続けて二撃目、手甲ごと防御に回した腕の骨が砕かれた。

 迎撃に振るわれた剣ですらクルスの防御能力を遥かに凌駕した威力と精度を有している。長くはもたない。


「ギ、グッ、だが、これで――!!」


 クルスとて無傷で凌げるなどと寝惚けたことを云うつもりはなかった。

 盾と片腕を犠牲に己の剣の間合いを確定。

 間をおかず障壁杭を纏わせた騎士剣を突き込む。


 そして、三度、ガイウスに触れることすら許されず砕かれた。


 鍛冶士達が精魂こめて作り上げた武の結晶が、まるで紙細工のように砕かれていく。

 クルスは譬えようのない悲哀を感じたが、そんな余分な思考も鉄火場に於いては一瞬で戦意に押し流されていく。


(敵の再攻撃まで二拍、狙いは俺、軌道変更は不可――つまり()()()!!)

「――威令を発す、“やれ”、イリスッ!!」


 クルスの号令が飛ぶ。

 対するガイウスに動揺はない。

 左腕のない今、ブラフであれば反応する意味がなく、攻撃ならば剣で以て反撃するだけだからだ。

 果たして、隠蔽(ハイド)を解いて跳び込んだイリスは――気絶したカイを回収し、合わせてクルスも退いた。


「ッ!?」


 クルスの渾身の奇策にガイウスの反応は僅かに遅れた。

 だが、騎士が退く速度よりも武神の追撃の方が遥かに速い。

 追いつかれるのは必然であるが――


「――凍結、せよ」


 それを許さぬのが魔法(キセキ)である。

 荒い呼吸と共に紡がれた詠唱に従って、一瞬の内に彼我を分かつように巨大な氷壁がガイウスの前に立ち塞がる。

 轟音と共に立ち昇るそれはローブを血に染めたソフィアの残る魔力の全てを注ぎ込んだ最後の一手だ。

 しかし、並の戦士では丸三日かけても削りきれない超高密度の氷壁もこの男相手では何秒稼げるかという域に堕してしまう。


(来るか?)


 氷壁を挟んでクルス達は体勢を整える。

 だが、ガイウスはそれ以上追いかけるつもりはないのか、一度剣を払って凍結の波動を砕いたきり、動きを止めていた。

 代わりに、奈落の如き黒瞳が真っ直ぐにカイを捉えていた。


「――貴様は“敵”だ。その顔、その剣、覚えたぞ」


 マグマの如き粘性の憤怒を存分に籠めた罅割れた声の宣告。

 対象を告げぬ一節でありながら、その声を聞いたクルス達はカイに宛てたものだと直感的に理解させられた。

 しかし、意識のないカイからは当然、応えはない。

 元より返事を求めてはいないのだろう。ガイウスは踵を返し、点々と血の痕を残しながら去っていった。




「……見逃された、の?」


 息を詰めたまま三十秒を数え、ガイウスが戻ってこないことを確信して一行はようやく緊張状態を解いた。

 ガイウスの出血量も――どこまで人間の法則が適用されるかは怪しいが――限界に近かった。追撃が来るかは五分であった。

 そして、彼らは賭けに勝った。

 無論、完全な敵地であるこの場所で警戒を解くことはできないが、先までの生きた心地がしなかった状態よりは遥かにマシであった。


「カイ!!」


 それと同時に、ソフィアは慌ててカイの許に駆け寄った。

 イリスが引き摺るようにして連れてきたカイは未だに刀を咥え、驚くべきことに両の脚で立ったままであったが、開いたままの目に光はなく、全身の裂傷からは夥しい血が流れている。


「こんな、こんなになってまで……」


 なけなしの魔力で治癒術式をかける少女の涙声にも反応はない。ただ流れ出す血が足元に溜まっていくだけだ。

 命を賭けることと命を捨てることは似ているようで異なる。

 命を捨てるということは勝っても負けても己は死ぬ、その域まで己を切り捨てたということだ。

 カイの出血量は既に致死量に届きかけていた。


「カイ、お前――」


 それでも尚、頑として倒れようとしない姿を見て、クルスの脳裡にかつて交わした約束が蘇った。


『お前が俺の前に立つ日を待っている。俺はそれまで決して倒れない』


 その約束がカイの中でどれほどの重さを持っていたのだろうか。

 だが、事実はひとつ。カイは確かに約束を守ったのだ。

 騎士の胸を激しい慟哭が抉った。


「こんな時にまで……俺との約束なぞより大事にすべきものがあるだろう!?」

「後悔するのは後!! もう魂の散逸が始まってる、急がないと。――ネロ様!!」

「刻印完了、退くぞ」


 宣言通り、三分で転移術式を完成させたネロが指を鳴らすと、地面に刻まれた転移陣に淡い光が灯った。


「――ッ!! 来い、クティークス!!」


 クルスが呼ぶと、退避していた巨馬は全てを了解しているかのように自ら円陣まで乗り入れる。口に銀剣を咥えている辺り随分と抜け目がない。

 クティークスは自らカイを鞍に担ぎあげた。彼なりの敬意なのかもしれない。

 馬車はガイウスの攻撃で完全に破壊されてしまっている。改めて隠滅する必要はないだろう。


「我の本体との繋がりを利用して皇都まで直接転移する。カイを落とさぬよう押さえておけ」

「ネロ様、その残り魔力では肉体の維持が……」

「構わん。元より使い潰すつもりの命だ。いくぞ」


 そして、ひと際強く転移陣が光った瞬間、一行の姿は暗黒地帯から消え去った。



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